# 9 ペロペロ癖

 紳士たれ!

 紳士たれ!

 紳士たれ!

 紳士たれ!

 紳士たれ!

 心の中で必死に唱えながら、自分の中にある寿命の渦を感じようとする。


 美女に背中から貼りついて、美少女に背中から貼りつかれて。

 こんな状況で肉体的に微動だにしないのは、さすが呪詛、さすが魔法ってとこだけど、いくら体が無反応でも、心は完全にそっち側に引っ張られてしまうわけ。

 考えないようにしているけれどさ、ルブルムはノーブラでTシャツ一枚、ノーパンで膝上短パンのみってことでしょ?

 精神衛生的には乱されまくりでも仕方ないよな。


 紳士たれ!

 紳士たれ!

 紳士たれ!

 あまりにも繰り返し過ぎて「紳士たれ」がゲシュタルト崩壊を起こしそう。


「着いたぞ」


 修行には全く集中できないまま、気がついたらゴド村の外れに着いていた。


 西の山脈の稜線に、ほんのりと明るさが残っているけれど、空の大半は無数の星に占領されていた。

 こんなとき丈侍だったら星座とか見つけて、地球上のどこの地域と似ているだとかいろいろ発見するんだろうな。

 俺が知っているのはせいぜい北斗七星くらいだけど……この星だらけの空からは、例えここが日本だったとしても見つけられる自信がない。


 カエルレウム様が門番に事情を離すと、俺たちは門から中に入れてもらえた。

 鹿の王様だけは門の外でお留守番。

 リテルは来たことのないゴド村は、ストウ村より一回りは小さい。

 門番から引き継がれた人が案内してくれたのは、リテルの家よりも二回りくらい小さな、質素な家。


 ゴド村の村長の到着を待ってから、中へと入る。

 入ってすぐに目につく粗末なベッドに、一人の犬種アヌビスッが寝ていた。

 先祖返りのその犬種アヌビスッは、ここ数年ずっと具合が悪いらしく、見るからにぐったりしている。


「これは間違いないな……君の体だ。取り戻すといい」


 カエルレウム様がそう告げると、ゴブリンは寝ている犬種アヌビスッにゆっくりと近づいてゆき、右手をその額へとかざす。

 次に左手を自分の額へとかざし、何かを唱えた。

 俺にはうまく発音できない言葉を。


 視界が急に闇に包まれる。

 海の中でタコやイカが墨を吐く、あんな感じに周囲が真っ暗になったんだ。

 でも、その暗闇でも光を失わないものがある。

 村に入ってからずっと維持し続けている『魔力感知』で見える、自分の寿命の渦……おおっ。

 闇に対して目をこらそうとしたからか、寿命の渦がよく見えるようになった。

 自分のだけじゃなく、ゴブリンのや、ベッドで寝ている先祖返りの少年のも……うわ、すげぇ。

 ゴブリンの寿命の渦と、その前にあった弱々しい小さな寿命の渦とが入れ替わった!


 そして、人が倒れるような音がした。


 次の瞬間、視界が戻り、ゴブリンが倒れていた。

 代わりに寝ていた犬種アヌビスッが起き上がっていて、手のひらを閉じたり開いたりワキワキしている。

 そして目が合った、と思ったら、犬種アヌビスッは俺に向かって飛びかかってきた。


 この光景、見たことがある気がする

 元ゴブリンの奴は両手で俺にしがみつき、先祖返りの尻尾をブンブン振りながら息も荒く俺の顔を舐めようとしている。

 この光景……やっぱり見たことがある。

 ハッタに似ているんだ。


 ハッタがうちに来たのは確か小六の、寒い冬の夕方のことだった。

 できのいい一つ下の弟の英志ヒデシが、学校からなかなか帰ってこないって母さんがオロオロしてて、それでようやく帰ってきた時の喜び様を見て、ああやっぱり俺はこの家ではいらない子なんだなって実感したあの日のこと。

 英志は一匹の仔犬を抱えていたんだ。

 返してきなさいと、母さんはそう言うだろうなと俺は傍観していた。

 その半月くらい前に俺が拾ってきた芝っぽい雑種の仔犬が、そういう運命だったから。

 だけど、ハッタは飼われることを許された。

 純血のコーギーっぽい。そんな理由で。

 でも俺は知っている。

 雑種が却下されたのは俺が拾ってきたからで、ハッタが許可されたのは英志が拾ってきたからだってこと。


 うちは子どもにバイオリンとピアノを習わせる方針なんだけど、姉さんや英志が「将来有望」なのに対し、「でも楽しんではいるみたいですよ」な俺は、早々にバイオリンもピアノも辞めさせられた。

 丈侍の家で遊んで遅くなっても注意されたことはないし、徹底して無関心な母さんと、家の事にはいっさい構わない父さん、こんな簡単なこと何でできないのといつもバカにする姉さんと、お稽古ごとで忙しいからと自分で拾ってきたくせにハッタの世話を全部俺に押し付けた英志。

 うちの家族の中で、俺だけ「どうでもいい子」だった。


 ただハッタは、ハッタだけは、そんな俺に一生懸命に突撃してきた。

 いつも俺が世話していたってのもあるかもしれない。

 俺を見つけるといつも真っ直ぐに走ってきて、はしゃぎながら顔を舐めまくるんだ。

 俺にとって唯一の、家族の温もりってやつだった。

 ちょっとヨダレまみれだったけれど。


 始めは面倒くさかったハッタの散歩も、そのうち家では一番の楽しみになっていった。

 そんな、だった……全部過去形。

 俺が高校生になる前に、その早すぎる生涯を閉じてしまったハッタ。

 最期は動物病院にも連れて行ったんだ。

 珍しく英志もついてきた。

 二人で聞いた医者からの言葉は、いつ思い出してもつらいものがある。

 この子は病気だった。生まれたときからだろうって、だから捨てられたんだろうって、そう言われた。

 病気だとわかったら捨てるなんて、なんだそいつは、って、めったに感情を見せない英志が怒ってた。

 意見が合うなんて初めてだと思ったのは最初だけ。

 俺、気付いたんだ。

 俺もだってこと。

 才能ないから今の家族から捨てられているようなもんじゃないか、という言葉を飲み込んで、その夜は自分の部屋に戻ってから一人で泣いた。


 この先祖返りの犬種アヌビスッがさ、妙にコーギー顔なんだよ。

 ハッタに似てるんだよ。

 雰囲気も、まっすぐに俺のところへ来るところも、ペロペロ癖がひどいところも。

 もしかしたらさ、こいつにもハッタの魂が転生しているんじゃないかな、なんて思っちゃったからかもしれない。

 俺は気付いたら、この犬種アヌビスッの頭を撫でていた。


「リテルさまっ!」


 ハッタが喋ったからギョッとした。

 いや、ハッタじゃないんだよな、こいつは。


「僕はっ! リテルさまのおかげで! 元の体、戻れたですっ!」


 ピョンピョン跳ねて喜ぶ元ゴブリン。


「ま、待てよ。お前が元に戻れたのは、カエルレウム様のおかげだろ?」


 笑顔のまま舐めてこようとする元ゴブリンの顔が近すぎて、けっこうガチで引き剥がす。


「僕、マドハトです! 僕の名前です! こっちの体、戻ったら、こっちの記憶、思いだしたです! 僕の名前、わかったです!」


 記憶を、思いだす?

 それって、利照おれが、リテルの記憶を思いだしているのと似てないか?

 もしかして、俺の魂がリテルの中にあるのって、取り換え子と似たような魔術なんじゃないのか?


「リテル。早く来い」


 カエルレウム様の声で我に返る。

 カエルレウム様とルブルムはもう家の外に居た。

 ルブルムは逆手で瀕死のゴブリンの首根っこをつかみ、肩に引っ掛けるようにして背負っている。容赦ないな。


 俺は元ゴブリンのマドハトとその家族とに頭を下げ、カエルレウム様たちの後を追った。




 ゴド村の門の外では、鹿の王様が待っていてくれた。


 帰りはゴブリンをつかんだルブルム、カエルレウム様、そして俺という順番で鹿の王様の背にまたがる。

 背中が涼しくて、もう夜なんだと気付く。

 決して背中が寂しいとかそういうんじゃなく。

 立ち上がる鹿の王様に振り落とされないよう、カエルレウム様にしがみつく。

 それにほら。俺が今しがみついているのは、元の世界では一生知り合えそうにもない超絶美女なんだぞ?

 年齢はともかく……ってうわわっ。


 突然、背中に衝突したものがあった。

 タイミング的に魔女さまの怒りを買ったかと本気で焦った俺の耳元に、聞こえたのは興奮した息遣い。

 ああ、これはハッタ……いや、マドハトか。


「母さんに言ったです! リテルさまの手伝い、するです!」


 いや、背中は別に涼しくていいんだけどさ。

 ……とはいえ、おかげで帰り道は『魔力感知』の修行が捗った。


 行きに比べて一人増えたにも関わらず、鹿の王は行き以上のスピードで夜の森の中を駆け抜ける。

 風にはためくマントの音に混ざり、尻尾を降る音が耳につく。

 こいつは距離感が近すぎる、けど。

 今の俺にとっては、妙に心強く感じたのも事実だった。


 そのとき突然、鹿の王様が急ブレーキをかけた。


 鹿の王が立ち止まったのは森の中、小さな泉の辺り。

 やけに静まり返っている。


「近くに、いるですっ」


 マドハトがそう告げた直後だった。

 鹿の王様が突然跳ね、その背中から俺とマドハトは放り出される。


 油断していた。

 カエルレウム様にしっかり捕まっていなかったのは俺だ。

 そんな反省をする間もなく、俺の体は何かに突き上げられ……どこかへ着地した。

 草むら、いや、この獣臭さ……鹿の王じゃない、別の獣?

 受け止めてくれたのか?


 その謎の獣が、急に凄まじい速さで走り出す。

 反射的に俺はしがみつく。おそらく獣の背中に。

 なんだこれ、すごい揺れる……さっきまで鹿の王がどれだけ丁寧に走ってくれていたかがはっきりと分かる。

 あとは鹿の王の臭いのなさも。


 ところでこんなハードな獣さん、何の王なんだろうか。






● 主な登場者


利照トシテル/リテル

 利照として日本で生き、十五歳の誕生日に熱が出て意識を失うまでの記憶を、同様に十五歳の誕生日に熱を出して寝込んでいたリテルとして取り戻す。

 ただ、体も記憶もリテルなのに、自意識は利照のまま。

 ケティとの初体験チャンスに戸惑っているときに、頭痛と共に不能となった。猿種マンッ

 魔女の家に来る途中で瀕死のゴブリンをうっかり拾ってしまい、そのままうっかり魔法講義を聞き始めてしまう。

 一つの体の中に二つ近い魂がある魔術特異症。


・ゴブリン→マドハト

 赤ん坊のときに取り換え子の被害に遭い、ゴブリン魔術師として育った。犬種アヌビスッ

 繁殖しすぎないようカエルレウムにより呪詛をかけられたゴブリンの一族だが、魔術特異症のため、ゴブリンにしか伝染しないはずの呪詛を、獣種にも伝染するように変異させてしまった。


・マドハト→ゴブリン

 イタズラ者の妖精。

 取り換え子により、その魂はマドハトの体の中に入れられていた。

 ゴブリンはもともと短命なため、その生命は尽きかけている。


・カエルレウム様

 寄らずの森に二百年ほど住んでいる、青い長髪の魔女。猿種マンッ

 肉体の成長を止めているため見た目は若い美人で、家では無防備な格好をしている。

 お出かけ用の服は鮮やかな青い青で揃えている。

 寄らずの森のゴブリンが増えすぎないよう、繁殖を制限する呪詛をかけた張本人。

 リテルに魔法を教え始めた。


・ルブルム

 魔女の使いの赤髪で無表情の美少女。リテルと同い年くらい。猿種マンッ

 かつて魔女への生活物資を受け取りに来たこの少女に、リテルは見とれていたことがあった。

 質問好きらしい。

 カエルレウム同様に無防備。


・アルブム

 魔女の家に住む、兎種ハクトッの少女。

 もしゃもしゃの白い髪はくせっ毛で、瞳は銀色。肌はカエルレウム様と同じように白い。

 リテルよりも二、三歳くらい若い感じ。照れ屋さん?


・ラビツ一行

 兎種ハクトッのラビツをリーダーに、猿種マンッが二人と先祖返りの猫種バステトッ一人の四人組の傭兵。

 そのラビツが、リテルのファーストキスよりも前にケティの唇を奪った。

 北の国境付近を目指す途中、ストウ村に立ち寄った。

 村長の依頼で村の近くに出た魔物を退治したあと、昨晩はお楽しみで、今朝、既に旅立っている。

 ゴブリン魔術師によって変異してしまったカエルレウムの呪詛をストウ村の人々に伝染させた。


英志ヒデシ

 利照の一つ下の、できのいい弟。音楽の才能がある。

 ハッタを拾ってきたが、稽古事で忙しいため、ハッタの世話を利照に丸投げした。


・ハッタ

 英志が拾ってきた仔犬(コーギー)。

 拾ってきたので血統書はないが、純血っぽいと判断されている。

 利照が高校へ入学する前に、天へと召された。


・鹿の王

 森に棲む神々しい鹿。

 カエルレウムたちを乗せてくれる。


・謎の獣

 動きも臭いもハード。

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