少年の悩み
世の中は不公平だ。夕暮れの教室で机上に広げた二学期末のテストを眺めながら僕は、心中そんなことを思いため息をついた。
「はぁー。」
「今日五十六回目のため息だね。一般的にいうと、五十六個の幸せを逃したことになるね。月影君。」
わざわざ僕のなくなった幸せの数を数えてくれていた彼女は、赤崖結(あかがけゆい)。今回の期末での順位で三百二十人中一位という、とてもではないが化け物ではないかと思うような頭脳の持ち主だ(ちなみに僕(月影夕(つきかげゆう))は二百番代後半だった)。そんな彼女だが、その持ち前の頭の良さからか先ほどのように奇妙な言い回しをすることも多々ある。
「一般的にはそんな言い方はしないと思うよ?っていうか数えてたんだね。」
「暇だったからね。と言っても二十回目くらいになると数えるのが疲れてきたけれど。」
「テスト直しでもしてれば?」
「あいにくもう終わってしまっていてね。君がいつそのテストから立ち直るのかと観察していたのさ。確かにもうすぐ受験ではあるけれども、いつまでも落ち込んでるわけにはいかないだろう?それに私からすれば、その点数を取ってもいつもがんばっている自分をもっと評価してあげるべきだと思うがね。」
「・・・。」
最大限の皮肉を真面目に返されてしまいなんと答えていいか分からなくなり、しばらく黙っていると、今度は彼女がため息をついた。
「一つだけ言わせて貰うけどね、私からすればテストの順位なんてただのひとつの目安でしかないんだよ。一位がいれば底辺もいるし人が変わればその結果も変わってくるだろう。テストの科目を変えれば結果も変わる。そう考えればテストで一番をとったとしてもそうでなかったとしても、その空間のその条件で戦った場合の結果。それだけの話なんだよ。だからそんなに気にすることじゃないよ。」
確かにそうなのかもしれない。いや現実そうなのだろう。頭の良い人なんていくらでもいるわけで、彼女はその中の一人というだけなのだから。しかし、それでも敗者としては彼女に言っておきたいことがあるのも確かだ。
「それでも、結にはこの気持ちは分からないでしょう?いつもテストでは勝者なんだから。」
「それはどうかは分からないさ。君の知らないところで私は誰かに負けているかもしれないよ?」
彼女はそう言うと僕の座っている席の前に腰を下ろし、
「そもそも私は天才なんていう言葉が嫌いなんだよ。天才なんてこの世にいるわけがない。周りの人間より少し優れていることがある人間が、天才だって言うんなら人間みんな天才だよ。」
無表情のまま窓から見える夕日を眺めながら淡々と彼女はそう愚痴った。
「そういうものなの?」
「そういうものさ。誰だって人より優れているところくらいある。それなのにみんな視野が狭いから、学業と言う中で人を評価する。その認識を植えつけるのが学校なんだと私は思っている。」
「ずいぶんな言い方をするね。」
「別に、思ったことを言っているだけさ。まぁ、人間評価の一因として成績を使うのはいいけれど、人を成績だけで判断してはいけないと言う割には、余りにも成績の良い生徒を優遇しているような一面も見られるからね。」
学歴社会といわれているこのご時勢、それは仕方がない気がしないでもないが、彼女の言っていることは分からないでもない。(と言っても、AО入試とか推薦入試ができただけそれは緩和されたと言えるかもしれない。)
彼女はまだ外のほうを見たまま、ボーっとしている、日はもう暮れかけていて教室に差し込む明かりももう僅かになってきている。時計はまだ五時を指したばかりだが、この暗さでは、もう帰ったほうがよさそうだ。
「そろそろ帰ろうよ。もう暗いし。」
「ん。そうだね、すまないね。最後のほうは私の愚痴につき合わせてしまって。」
彼女は立ち上がり、自分の肩にかかっている、腰ほどの長さがある髪を後ろに払った。
「いやいや。別にいいよ。僕は帰っても暇なだけだし。」
本当のところ、彼女の話は新しい観点を与えてくれるから僕としてはとてもありがたいと思っている。彼女は立ち上がったまま、その場から動かない。どうやら僕を待ってくれていたようだ。
「「じゃあ、また月曜日。」」
僕らは二人同時にそう言って、その日は別れた。
・・・・・
学校を出て約十分、僕は家の近くの喫茶店でコーヒーを飲んでいた。学校の正門から東西に続く大通りにあり、眺めは・・・。まぁ、道を通る人と車と、ビル群しか見えないのだが、別に景色を見にきているわけじゃないからいいのだけれど。それでは何をしに来ているのかといわれれば、簡単な話、宿題を済ませにきている。それだけだ。そのついでにここでコーヒーを飲むのが日課になってしまっていた。
「今日も来てくれたのかい。ありがたいね。」
いつものように英語のプリントを消化していると、隣からそう穏やかそうな声が聞こえた。声のしたほうに視線を移すと、黒髪の若い男性が立っている。若いからよく、間違われているのだけれど、この店の店長の紅(くれない)さんだ。
「もう日課になってますからね。・・・っていうか僕に構ってていいんですか?紅さん。入り口のコーヒー豆、ブルーマウンテン切れてましたよ?」
そう言うと紅さんは、穏やかな顔を少しゆがめて苦笑いを浮かべた。
「お客さんにそこまで心配されるのは、少し恥ずかしいねぇ。まぁ、あれに関しては明日仕入れることになってるからいいんだよ。それに、今はこの通り店内には誰もいないし、この暇人の話し相手にでもなってよ。」
店内を見渡すと、紅さんの言った通り誰もいない。
「いつもこの時間は誰もいませんよね?」
「喫茶店自体お昼ごろに開けておくものだからね。仕方ないよ。」
確かにそうなのかもしれない。まぁ、僕自身そこらへんに詳しくないからどうと言えることではない。
「で?今日は学校楽しめたかい?」
「別に、さして何も無い普通の一日でしたよ。」
「普通の一日ねぇー、じゃあどんな風に普通だったのさ?」
紅さんは、いつもこう切り返してくる。その意図は分からないけれどもどうやら「普通」と言う言葉が余り好きではないのではないかと思う。
そして僕がめんどくさいと思いながらも、その日一日の出来事を話すと紅さんは決まってこういうんだ。
「なるほどねー。ってことは、今日と言う一日は君にとって『特別』だったんだね。」
そしてこれもいつものこと、紅さんは僕に追加のコーヒーをくれる。
「また今日も違う味なんですか?」
「そうだね。君だけだからね。こういうもの飲んでくれるのって。ここの店の常連さんで親しい人って。君しかいないし、仕事の合間とかに来るサラリーマンとかが多いから気難しい人が多いんだよ。」
目の前に置かれたコーヒーはさっき僕が飲んでいたコーヒーよりもにおいが若干甘い感じがするものだった。紅さんは毎日新しいコーヒーを作っては、毎日来る僕に飲ませてくれる。おかげで、コーヒーの味に少しうるさくなってしまったような気がしないでもないが。
コーヒーを一口のみ僕はふと思いついた疑問を紅さんにぶつけてみる。
「この日替わりコーヒーいつまで続けるんですか?」
「・・・。」
紅さんはしばらく何も言わず、少し考えるようなそぶりし、
「何も無くても、味の違うコーヒーを毎日のめるだけでもいい一日だとは思わない?」
答えという答えは返してくれないのか・・・。まぁ、紅さんはこういう人だから仕方ないとしておこう。それに分かったとしても別にどうと言うことはないのだ。きっと僕のことだから仮にそれが分かったとしても消費的に、終わるまでの日にちを数えるなんていうくだらないことに考えをめぐらせるのだろう。
「ところでだ。」
紅さんは立ち上がり僕の手元を指差して若干の笑みを浮かべて、
「君はいつまで書き終わった英語のプリントに向き合っているんだい?」
見ると、紅さんのいう通り英語のプリントに空欄は一つとしてなかった。考え事をしていると、別のことに気が回らなくなる。僕の悪い癖の一つだ。
「もうすぐで受験の高校三年生なんだろう?しっかり身を入れて勉強しないと、痛い目見るかもしれないよ?」
もうなってます。と言う言葉を飲み込んで僕は頷いておいた。
「まぁ、君はなんだかんだ一生懸命やってるみたいだから、いざとなれば何とかなりそうだけどね。」
紅さんはそう付け足した後、
「そろそろ帰りなよ。もう七時だよ。晩御飯を作ってお母様待ってくれてるんじゃないの?」
腕時計をみて、そういった。確かに七時であればもう、母さんが晩御飯を作り始めている時間だ。そろそろ帰っておかないと、怒られはしなくとも愚痴の一つや二つ聞かされる羽目になりそうだ。
「分かりました。それじゃあ帰りますね。御代は・・・そうですね。つけておいてください。」
「次来るときに三倍の額を請求してもいいならそれでいいけど、後悔はしないかい?」
「すいませんでした。冗談です。ちゃんと払いますよ。」
三倍って、闇金でもそんなにぼったくったりしないと思うのだけれど。
「さすがに、そこまでぼったくっちゃうと影月君が可愛そうだからやりはしないよ。コーヒーはいつも通り一杯分の値段で構わないから。」
ずいぶん僕が唖然とした表情でもしていただろうか?紅さんは、頬をゆるめて、そういった。全くこの人はたまに冗談ではなく真面目にそんな事をやってきそうで怖いところがある。僕はカウンターにいつも通り二百八十円おいて人が行き交う大通りにでた。
「気をつけて帰りなよ。またの来店、待ってるから。」
紅さんはそれだけ言うと、店の中に引っ込んでいった。通りを見渡すと、以外にも七時を回っている割には、人がごった返している。帰宅ラッシュはもうすんでいる頃かと思っていたが、どうやらそうでもなかったみたいだ。
ふと、今日の夕方結が言っていた事を思い出した。この行き交う人達にあの質問をしたらどう反応するだろうか?真剣に考えてくれる人なんているんだろうか?普通に意味を求める事自体が間違っている。とか、無視されるかどちらかのような気がする。
そこまで考えて気付いた。これが、僕の認識している話した事のない人間へ思っている普通なんだということに。そして、僕もきっと同じ行動をとるのだろうということに。そう考えると、自身の人間性の冷たさに僕は少し落ち込んでしまうのだった。
・・・・・・
家に帰ると予想通り母さんが夕飯を作っているところだった。僕は母さんが料理を作っている姿をしばらく眺めていた。水を使っていたからなのか、母さんは僕に気付いていないようでなれた手つきで夕飯の準備をこなしていく。
五分ほどしてようやく僕に気付いた母さんは、少し驚いた顔をした後、怒った口調で、
「帰ってきてたの?声かけてくれればよかったのに。」
「いや、母さんが料理作ってるのに少し見とれちゃってね。」
「あら、あんたでもそんなこと言うことあるのね。珍しい。」
皮肉めいたような言いようをする母さんだけど、口元は少し緩んでいるように見えた。
「母さんって料理上手かったんだね。」
「うーん。上手いって言うかなれたんでしょうね。もう十五、六年やってるわけだし。」
「慣れたってことは、母さん料理苦手だった時もあったの?」
「そりゃ、最初なんて酷かったわよ?普段外食で済ませるような人間だったから結婚するまで包丁なんてあんまり持ったこと無かったし、カレーの作り方すら儘ならなかったんだから。」
「そうなんだ。」
頭の中に料理ができなくて困っている母さんを思い浮かべてみるが、全く想像できなかった。
でもそれなら、何で急に料理なんて始めるようになったのだろうか?別に結婚したからと言って、無理に料理をする必要は無いと思うのだけれど。
「さすがにね、結婚したてのときはさほど考えてなかったけど、原因はあんたね。」
「何で僕なの?」
全くもって料理と何の関係があるのか見当がつかない。しかし、母さんが次に言葉にしたことで、おおよそのことに合点がいった。
「母親の料理の味も覚えることなく独り立ちさせるって言うのが酷く情けないように思えたし、そんなことしたら子供にも申し訳ないと思ったのよ。」
「・・そうだったんだ。」
「大変だったけどね、さっきも言ったけど簡単に作れるって言われてるカレーですらまともに作れなかったんだから。でも、大変だったけど後悔はしてないわね。こうしてあんたとも話す機会だってできるわけだしね。・・・さてと、いい具合にできたみたいだし今日はブリ大根でも食べましょう。お父さんも帰ってきたし。」
母さんがそう言うと同時に玄関の扉が開く音が聞こえた。
「ただいまー。」
廊下に顔を出すと、母さんの言った通り父さんが帰ってきていた。
「母さんなんで分かったの?」
「足音がね、お父さんは少し高いのよ。あんたの場合は歩調が少しお父さんより遅いかな?」
「いやいや、そもそもの話全く父さんの足音なんて聞こえてこなかったんだけどなー。」
「待ってる立場の人はそれが聞こえるんだとさ。俺も夕が帰ってきたとき全く聞こえなかったのに母さんは聞こえるって言い出すもんだから、そりゃびっくりしたぞ。」
椅子に上着をかけながら、父さんが言った。
「待ってる人にしかわからないんじゃないのかしらねー。っと、こんな話はご飯食べながらにしましょ。」
時計を見ると、もう八時を指している。なるほど、確かにこのまま話し込んでいると、ご飯にありつけるのは、九時に指しかかる頃になってしまうかもしれない。なにもなかったテーブルのうえに母さんは手際よくさっき作った、ぶり大根の他、サラダやみそ汁を置いていく。僕と父さんは、それが終わるのをいつもどおり待っている。こうしていると決まって言われるのが、
「あんたら、じっと見てないで手伝ってよ。」
ほらやっぱり言われた、ジト目で僕たちを見てくる母さんだが、僕と父さんはただ笑うことしかできない。手伝うといっても母さんの手際が良すぎて何一つ手伝えないまま、むしろ邪魔になってしまうのだからただ見ているしかないのだ。母さんもいつも愚痴ってはいるものの、わかっているようですぐにふんわりした笑みを浮かべ、
「まぁいいけどね。じゃあ食べましょう。」
僕たちに箸を渡してくれた。
「そういえばさ。」
僕は今日の放課後、結に聞かれた質問の端の部分、普通って何なのか、何で普通があるのかを聞いてみた。父さんからの答えは至極簡単なものだった。
「そりゃ、普通ってのは世の中うまく回すためにあるんだよ。何か基準になるものの一つくらいなくて、このあやふやな誰が正しいこと言ってるかもわからない世界、どうやって回すんだよ。」
確かに父さんの言ってることは、一つの真実として揺るぎないだろう。しかしそう考えると僕は少し納得がいかなかった。あやふやな世界だから普通を決める。そうだとするならば、そのあやふやさの中からどうやって普通を決めたのだろうか?
父さんが話終わったと同時に、今度は母さんが自分の考えを話してくれた。
「母さんはね、普通なんてもの作るもんじゃないって思ってるのよ。普通、当たり前、言葉としてはあるけれど、そんなものどこにも存在しないのよ。明日が絶対来るとも限らないし、極論をいえばこの席に当たり前のように三人で座れているのも本当はとても尊いものなのだから。だから、私は普通なんて言葉あまり使いたくはないわね。」
そうかもしれない。この世界があること自体が普通。そう思っているの自体おかしいのかも知れない。今日の放課後、結と話せたからといって、来週の月曜日話せるかと言われれば僕は、頷けるだろうか?いつもなら頷けるだろう。でも、母さんの話を聞いた今、僕はその質問が来たとしたら頷ける自信がない。
「それで・・・?」
母さんはそう言って言葉を続ける。
「夕にとっての普通って何なの?」
そう問いかけてきた瞳はやけに真剣で、適当な言葉は許されないように思えて、しばらく僕は何も言えなかった。そのまま数分たった後、僕は口を開いた。今の僕が出せる普通の形、それはきっと十八年しか生きてない者の知識だから浅はかで愚かしいかもしれない。でも、きっと今の僕にとっての普通の意味はこれなのだ。頭の中で、来週結にこの話をできたらいいな。そう思いながら、僕は言葉を発したのだった。
「僕にとっての普通はね・・・。」
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