第46話 兆、それで後悔はないな
薄手のジャケット越しにスマホが震える。隣の壁にもたれかかっていた国近が視線を上げる。黒髪の中で揺れる赤メッシュを尻目に、圭史はジャケットのポケットに手を入れた。『Rising Dragon』拠点には雨音が響き、薄暗いホールの中で白熱電球が頼りなく揺れている。取り出したスマホの画面には、LINEの通知を示すメッセージ。国近が圭史のスマホに視線を投げ、問いかける。
「……もしかして、キザッシーから連絡ですか? 結論出したにしては早くないですかね……まだ半日も経ってないっしょ?」
「……どうだろうな」
静かに応え、圭史は
――圭史さん。
――やっぱり俺は、佳代と離れたくないです。佳代も同じ気持ちでした。
――今度、改めて直接、話をさせてください。
「……あっま」
横から圭史のスマホを覗き込み、国近が呆れたように声を上げた。生クリームの塊を舐めたかのように顔をしかめ、吐き捨てる。
「見通し甘すぎ
「……
「……絆されるのは悪いことではないと思う。その人が良い方向に向かうのなら」
雨が降りはじめて、そこまで時間は経っていない。おそらく通り雨だろう。霞がかった灰色の街を映す瞳が、何かを探すように動く。その横顔がどこか迷子の子供のようで、国近は再び視線を伏せた。
「勇翔」
「っ、はい」
不意にかけられた声に、国近は静電気を浴びたように顔を上げた。律儀に姿勢を正す彼に、圭史はスマホを仕舞いながら言い放つ。
「明日、また面会に行く」
「わかりました」
「お前は留守を頼む」
「……っ、はい……」
稲妻のように有無を言わさぬ声に、国近は魚の内臓のような声を吐き出す。圭史はこちらの足りない言葉は汲み取ってくれるくせに、余計なことは言わない人だ。大きな瞳が
雨は、少しずつ弱まっている。
◇
静まり返った廊下に足音が響く。リノリウムの床に長い影が落ちる。華やかなアッシュゴールドの髪を見て、入院患者らしき男が忌々しげに顔を背けた。見なかったふりをして、圭史はある病室の前で立ち止まった。妙にそわそわと周囲を気にしている様子の影を見つけ、声をかける。
「……勘解由小路」
「おっ、お待ちしていたのです、勝浦先輩」
エビのように軽く跳びあがり、彼はわずかに上ずった声を上げた。その表情もどこか固く、どう見ても緊張している。しかし、軽く深呼吸して息を整えると、彼はすぐにいつも通りの眼光で圭史を見つめた。
「……兆はたくさん悩んで、悩んで、その果てに心を決めたのです。どうか、理解してやってほしい、のです」
「ああ……わかっている。さぁ、入るぞ」
「はい、なのです」
病室に足を踏み入れると、窓際で緩い私服姿の影が小さく頭を下げた。目だけで会釈を返し、圭史はベッド脇の丸椅子に腰を下ろす。隣の椅子にちまりと座った佳代を一瞥し、ベッドに正座する兆を凝視する。
「……昨日、お前は言ったな。勘解由小路と離れたくないと」
「……はい」
「だが、お前はチームを抜けるとは言わなかった。つまり……そういうことだな?」
「……っ」
ドライアイスのような言葉に、兆は小さく身体を跳ねさせた。あの短いメッセージで、そこまでわかってしまうなんて。震える拳が、緩いズボンの布地を握る。吹雪の中のような緊張が、病室の片隅を包んだ。ふと、視界の端でアイボリーブラックが揺れた。佳代が勢いよく顔を上げ、圭史のはしばみ色の瞳を見据える。
「……兆は言ってたのです。まだ、恩を返せてないと。僕と出会う前、居場所がなかった自分を拾ってくれた恩を、まだ返せてないと」
「恩……か」
呟き、圭史は深く息を吐いた。駄々をこねる子供を前にした父親のように。編み込みがされていない側の髪をガシガシと掻き、呆れたように口を開いた。
「恩を売ったつもりはない」
「だが、兆は恩を感じたのです」
「……わからない奴だな。俺はただ、兆は同類だと思ったから声をかけただけだ。誰も一人では生きていけない。俺としても、チームの人間が増えるのは都合が良かった。それだけだ」
吐き出された余韻には、黒いペンキのような影がはりついていて。兆がかすかに視線を揺らし、口を開こうとして……それを堰き止めるように、圭史はゆっくりと首を横に振った。
「俺は、居場所がない人間の一時的な受け皿になればと思って『Rising Dragon』を作った。そこに永住されたら、むしろ困るんだ。特に兆、お前は……俺みたいな日陰者とは違う。陽の当たる世界で生きられる人間だ」
「そんな、ことは」
「兆、よく聞け」
反論しかけた声に、被せるように圭史は彼の名を呼んだ。雷に打たれたかのように身をすくませる彼を睨みつけ、圭史は言い放つ。まるで最後通牒を突き付けるかのように、そっと背中を押すように。
「俺は日陰者だ。最初から非合法の世界に生まれた俺にとって、シャバの空気は綺麗すぎて息ができないんだ。だが……シャバの人間が、非合法の世界の空気に慣れちゃいけねえ。俺が用意したのは一時的な受け皿だ。終の棲家じゃない」
「……ッ」
「それを忘れるな」
ドライアイスのような光を宿す、はしばみ色の瞳。その光に耐えきれず、兆は思わず視線を落とした。佳代は息を吸いかけて、止めて、言いたいことを唾と共に飲み込む。今はそんなことを言っている場合ではない。兆の進退がかかっているのだ。何気なく彼に視線を投げると、座り込む子供のような瞳と目が合った。どこか縋るような光を受け取り、彼はゆっくりと頷いて見せる。分厚いカーテンを開け、眩しい光を差し入れるように。
「……圭史さん。俺、『ライドラ』を抜けます」
緩やかな坂を、ゆっくりと上ってゆくような声。兆はゆっくりと顔を上げ、三白眼にレーザーのような光を宿した。佳代はアーモンド形の瞳をぱちぱちと瞬かせ、その口元をゆっくりと笑顔の形に曲げた。それはまるで、分厚い雲が割れて光が差すように。
「……一応、聞いておく。兆、それで後悔はないな」
「……はい」
「なら、いい」
軽い音を立てて立ち上がり、兆のベッドから離れる圭史。去ってゆく後ろ姿に、兆は思わずベッドから飛び降りた。病室を出ようとする彼の背中に、呼びかける。
「圭史さん……今まで、お世話になりましたッ!」
アッシュゴールドの髪を揺らし、圭史はかつての仲間を振り返る。深々と頭を下げる兆映す瞳が、かすかに見開かれた。小さく息を呑み、ふっと目を伏せる。彼は口の中だけで何かを呟き、再び前を向く。
病室を出て行く足音を、兆は頭を下げたままで聞いていた。どこか引きつったままの口元を見つめ、佳代は唇を引き結ぶのだった。
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