第45話 これは兆だけの問題じゃないのだ

きざし。入るのだー」

「……おう」

 カーテンの端から顔を出すと、兆の三白眼がこちらを向いた。グロッシーブラックの瞳はどこか上の空で、水底に沈んだガラス玉のようで。誰かが座っていた形跡のある丸椅子を引き、腰を下ろした。軽く肩をすくめ、視線を伏せる兆。

「……」

「……」

 ひどく重い沈黙が落ちる。佳代の視線がリノリウムの床を撫でていく。その脳裏をよぎるのは、先程聞いた圭史の言葉。『Rising Dragon』の絶対の掟、選択を迫るような言葉。それらを脳裏で反芻しながら、兆を視線で捉える。


「兆、勝浦先輩には会ったのか?」

「……圭史さん?」

 不意を突かれたように三白眼を見開き、兆は佳代のアーモンド形の瞳を見返す。ぱちぱちと幾度か瞬きをし、彼は白い布団に視線を落とす。グロッシーブラックの瞳は夢の中にいるかのように左右して、どこかぼんやりとしているようで。

「ああ……丁度佳代と入れ違いで、見舞いに来てくれた。……それでその時……」

「……選択を迫られた、というわけなのだな」

 重石のような佳代の声に、兆は思わず顔を上げた。かすかに見開かれた三白眼に映るのは、言葉を探しあぐねているかのような佳代の瞳。彼はその表情にどこか申し訳なさそうな色を称え、口を開いた。

「……実は、僕も勝浦先輩から話を聞いていたのだ。チームの掟のこと」

「……」

 俯き、兆は白い布団を握りしめた。その指先は震えていて、まるで迷子になった子供のようで。かすかに蒼白になった頬、躊躇うように揺れる瞳。それらを一通り見つめ、佳代はそっと口を開く。新品の蝋燭ろうそくに、そっと火を灯すように。


「それで……兆は、どうしたいのだ?」

「……?」

「勝浦先輩や国近や、他の仲間たちと一緒にいたいのか。それとも……彼らと手を切って、僕と一緒にいることを選ぶのか」

「……っ」

 静かな声には、ペーパーナイフのような銀色の光があった。その声をゆっくりと耳に溶かしながら、兆は目を閉じる。仲間たちか、幼馴染か……絶対の掟を承知したうえでチームに入ったのだから、両方を選ぶことは許されない。

 だけど、と彼は顔を上げた。佳代のアーモンド形の瞳と視線を合わせようとして、思わず逸らしてしまう。彼の瞳はいつだって、あまりにも真っ直ぐすぎて……直視するには耐えられなくて。白い布団に視線を落としたまま、兆はぽつぽつと語りだす。

「……ケジメはしっかりつけろ。そう言われた……」

「……」

「佳代とチームと、どっちも大切で……どっちか片方しか選べないのはわかってるけど、それでも、どっちも捨てたくねえんだ……っ」

 佳代は兆の手元に視線を注ぎながら、ただ黙って彼の声を聞いている。口を挟むことも、急かすこともせずに。無骨な指先が布団に深いしわを刻み、耐えきれないというように震える。その声も、まるで水に落ちた鳥が羽ばたこうとするかのように。

「俺は……再会してから、佳代にはずっと救われてきた。けど……それより前に、孤独だった俺を圭史さんや『ライドラ』の連中が受け入れてくれたのも事実だし……まだ、恩を返せてねえんだ。圭史さんに……仲間たちに……拾ってくれた恩を、俺の居場所でいてくれた恩を……ッ」

「……」

 兆は耐えきれないというように顔を覆い、深く息を吐いた。その肩は子供のように震えていて、まるで越えられない壁に出会ってしまったかのようで。

「……そんな我儘わがまま、通らねえのはわかってる……けど、だったら尚更、どうすりゃいいってんだよ……ッ!」


 ……限界を知ってしまったかのような声。哀れな子供のように震える肩。それらを、佳代の揺れる瞳が見つめていた。兆にとっては、どちらも同じくらい大切で、選ぶことなどできようはずもなくて。引き裂かれそうなほどの想いが空気を震わせて、佳代の胸を打った。荒れ狂う海のような感情が反転して、佳代の中で渦を巻く。

 ――『それはお前と兆の選択だ』。圭史の声が耳元に蘇って、佳代はかすかに息を呑んだ。お前と、兆の。つまり、選択の権利は佳代にもあるということ。一度深呼吸して胸中の渦を鎮めると、彼は静かに視線を伏せた。

(……僕の、気持ちは……望みは)


「兆、聞いてくれるのだ?」

「……なんだよ」

 ゆっくりと手を下ろし、兆は佳代に視線を投げた。その目元はどこか潤んでいて、今にも泣きだしそうなのを堪えているのがありありとわかって。そんな彼の瞳を掬い上げるように見つめ、佳代は静かに口を開く。

「僕は……昔みたいに、兆と一緒にいたいのだ。折角近くにいるのに関われないなんてことになるのは……嫌なのだ、辛すぎるのだ」

「……でも、佳代」

 兆の言葉を、佳代は片手を伸ばして遮った。全てわかっている、というように首を横に振り、静かに言葉を紡ぐ。

「それでも……兆の願いを、彼らに恩を返したいという願いを、ドブに捨てることはできないのだ。僕は、兆と彼らの絆とか、そういうのは知らないのだが……それでも、兆が彼らのことを大切に思っていることは、よくわかるのだ」

「……」

 キャンバスに空を描くような言葉に、兆の呼吸が静かに止まる。佳代はどうしようもなく強いようで、実はあまりにも弱い。無慈悲なリアリストのふりをしながらも、お人好しな面を捨てきれないままで。だけど……そんな面倒くさい佳代だからこそ、兆は。


「なぁ、兆……チームの内部にいなければ、彼らに恩を返すことは、本当にできないのだ?」

「……は?」

 三白眼をかすかに見開き、兆は佳代のアーモンド形の瞳を見つめる。彼の視線は一振りの長刀のように真っ直ぐで、そのくせ言っていることは荒唐無稽でしかなくて。理解を求めるように幾度か視線を細める兆に、佳代はガラスの皿を洗うように言葉を重ねる。

「同じチームにいなくても、同じ高校に通う仲間だということは変わりないのだ。なにもチームにこだわる必要はないと思うのだ……いや、もしかしたらチームから抜けたものは迫害されるとか、そういうのがあるのかもしれない。だが……それでも、僕は思うのだッ」

「……?」

 佳代の声がかすかに震えた気がして、兆は思わず息を呑んだ。佳代の瞳が宿すのは、海に映る月のような光。静かに、しかし堪えがたいように揺れるそれを見つめ、兆は言葉を噛み砕き、ゆっくりと飲み込んだ。佳代は一度ぎゅっと目をつぶり、蝶が羽を広げるように、そっと開く。

「兆には、昔みたいに遠慮なく笑っていてほしいのだ……昔みたいな兆の笑顔が、僕はまた見たいのだ。今みたいに、しがらみに囚われてる兆は、見てて辛いのだ……」

「……そんなことは」

 言いかけて、兆は静かに口を閉ざした。自分で気付いていないだけで、昔よりも笑い方がぎこちなくなっているのかもしれない。もし、それで佳代が悲しんでいるのなら……そんな考えが脳裏をかすめ、思わず両手を握りしめる。自分はどれだけ、彼に心配をかければ気が済むのか。手のひらに爪が刺さり、痛みがじわじわと両手を……胸を冒す。全身に細い針が刺さるような感覚の中で、佳代の声だけがフルートのように。

「兆は、もっと自由であるべきなのだ……なにも願いを叶える手段は、ひとつだけではないのだぞ。やりようはいくらでもあるのだ」

 アーモンド形の瞳が兆を捉える。空に架かる虹を指さすように。思わず息を呑む兆の手を、佳代はガラス細工を扱うように握る。小さな手には白熱灯のようなあたたかさがあって、兆は思わず三白眼を見開いた。

「兆がいちばん幸せになれる道を選んでくれ。自分を追い詰めるような真似は、頼むから……もうしないでくれ、なのだッ……!」

 ……冷静なふりをして、嵐の海のような色を孕んだ声だった。佳代の瞳は兆を真っ直ぐに映しながら、耐えきれないとでも言いたげに揺れていて。子供のように柔らかい手の感触に、兆は静かに拳を開く。彼のためにここまで心を動かしてくれる人は、いつだって彼を想ってくれていた人は……子供が抱えるぬいぐるみのように、あまりにも。


「……心が、決まった気がする」

 佳代の頭に手を伸ばし、そっと撫でる。羊のように柔らかい髪質も、昔から変わっていなくて。不思議と安心感がある感触を味わいながら、兆は静かに口を開く。まるで幼子が、風船を強く握りしめるように。

「……やっぱり俺、佳代のことが大事だ……離れたくない。けど、だからってチームを簡単に捨てられるほど、俺、強くないんだ……」

「……」

 揺れ動く天秤のような声。紙飛行機のように揺れる三白眼。海に映る月のような視線を感じながら、兆は静かに言葉を紡ぐ。

「……今度、圭史さんと話してみようと思う。その時、佳代にも一緒にいてほしい……一緒に、話をしてくれないか?」

「……ああ、勿論なのだ。これは兆だけの問題じゃないのだ。僕たち二人の意思を、望みを、伝えてみようなのだ!」

 ゆっくりと頷き、佳代は堂々と兆の手を握る。彼の笑顔は真っ直ぐな輝きを纏っていて、兆の心臓が、空へ伸びる向日葵ひまわりのように脈を打った。

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