第41話 お前と、一緒だよ

「何故って、普通に勉強しに来ただけなのだ。きざしこそ、どうしてここにいるのだ?」

 無邪気に首を傾げてくる佳代に、兆の喉元で言葉が詰まる。真夏の日差しはひどく眩しく、夏風は溢れんばかりの熱気を運んでくる。本当のことを言っても、佳代は笑うような人間ではないはずだけれど、それでも口にするのはひどく気恥ずかしくて。視線をアスファルトに這わせて、浅く息を吸い込む。

「……お前と、一緒だよ」

 意を決して放った言葉は、馬鹿みたいに震えていて。ひどく無様な声に、ただでさえ羞恥で赤い頬にさらに熱が上がっていく。今すぐに逃げ出したいけれど、足に根が生えたかのように動けない。それでも恐る恐る佳代に視線を向けると、彼は。

「つまり……どういうことなのだ?」

 ……反対側に首を傾げていた。兆は一瞬肩透かしを食らったかのように三白眼を見開き、かと思えば別の感情で頬に熱が上がっていく。無事な方の拳を握り締め、脳を冒す熱量に任せて絶叫する。

「わかれよ!! 勉強しに来たんだよ!! 言わせんなよ!!」

「な、何で僕に怒るのだ!?」

「鈍感か!? 普通怒るだろ!! つーか周りに言うんじゃねえぞ、絶対笑われんだろ……」

 無事な方の手を顔に当てつつ、アスファルトに視線を移す兆。全身を満たす熱を吐き出すように、深く息を吐く。伺うように佳代に視線を向けて……彼は再び三白眼を見開いた。アーモンド形の瞳は、壮大な夢を聞いた子供のように輝いていて。彼は握りしめた拳をぶんぶんと振りながら、無邪気に声を上げる。

「笑いやしないのだ! やっぱり兆、根は真面目じゃないかなのだ! それでこそ兆って感じなのだ!」

「褒めてんのかけなしてんのかわかんねぇよ……」

「シンプルに褒めてるのだ。やっぱり変わってないじゃないかなのだ。僕は嬉しいのだっ!」

「……っ」

 悪意のない剛速球に、兆は思わず佳代の笑顔から視線を逸らす。彼の笑顔はあまりにも眩しすぎて、直視するには堪えなくて。無事な方の手で頬を掻く彼を見つめ、佳代はふとアーモンド形の瞳を瞬かせた。


「兆……ちょっと疲れてないのだ?」

「は?」

「目元にクマがあるし、心なしか顔色も悪いのだ。ちゃんと寝てるのだ?」

「……」

 アーモンド形の視線が突き刺さり、兆は思わず視線を逸らす。夏休みが始まってから……というかそれより前から、リハビリやら勉強やら『Rising Dragon』の活動やらで、まともに休めていない……気がする。しかし、と彼は誤魔化すように首を横に振った。

「……平気だよ」

「嘘つけなのだ。見るからにやつれてるのだ」

「平気だっつってんだろ……」

「そんな訳ないのだ! ちょっとこっち来るのだ!」

「はぁ!? ちょっと待……ッ!」

 抗議する暇もなく、無事な方の手を強引に握られて。子供の手のような柔らかさに、兆は思わず息を呑んだ。反射的に手を離しかけるけれど、佳代の手は彼を逃すまいとばかりに強く握りしめてきて。こんな小さくて柔らかい手のどこに、そこまでの力があるのか……そんな物思いが脳裏をかすめたと思えば、ぐっ、と手をひかれた。思わずバランスを崩しそうになって、慌てて踏みとどまる。

「お、おい佳代……どこ行くんだよ!?」

「ええっと、その、なんか……その辺なのだっ!」

「せめて決めてから行けよこの……っ」

 必死に反論するけれど、それが通じるような佳代ではないことは、兆自身が一番よくわかっていて。それに……こうして佳代に手を引かれているのは不思議と心地よくて、まるでトロイメライが鳴り響いているかのようで。繋いだ手を無意識に握り返しつつ、兆は佳代に連れられるままに歩いていく。……力の入らない脚を、無理やりに引きずりながら。



 辿り着いたのは、ひどく狭い公園だった。背の低い木々が青々とした葉を茂らせ、熱風に爽やかな音を立ててゆく。ふと佳代の手がするりと抜けて、兆は思わず立ち止まった。まるで続きを求めるように、指が無意識に虚空を泳ぐ。佳代は申し訳程度に置かれているベンチに腰を下ろし、その隣をぽんぽんと叩いた。

「とりあえず兆も座るのだ」

「……ああ」

 言いながら、おずおずと腰を下ろす兆。途端、ひどく身体が重い感じがして、彼は深く息を吐いた。落ちそうになる頭を押さえ、視線を伏せる。そんな兆を見つめ、佳代は飲みかけのスポドリを投げてよこした。とりあえず受け取り、ペットボトルのキャップを捻る兆。

「……なんか、すまねぇな」

「気にするななのだ。僕らの仲じゃないかなのだっ」

「そう言われても気にすんだよ俺は……とりあえず、ありがとな」

 呟くように言い放ち、ペットボトルに口をつける兆。その横顔を観察しつつ、佳代はぼんやりと思考を巡らせる。やはり、三白眼の下のクマが目立つ。肌もどこか青白い感じがするし、心なしか声にも張りがないように思える。……どう考えても、疲れている。

「しかし兆、しばらく会っていない間にどうしたのだ? やっぱりリハビリとかで忙しいのだ?」

「……」

 問うと、兆はふっと視線を伏せた。ペットボトルから口を離し、ひどく緩慢な動作でキャップを閉める。思いを巡らせるように地面を見つめ、ふと顔を上げた。三白眼に鋭い光を宿し、ずいっと佳代に顔を近づける。

「……今から言うこと、絶ッ対に周りに言うんじゃねえぞ」

「言わないのだ。とりあえず聞かせてくれなのだ」

「ああ……」

 一旦背筋を伸ばし、視線を伏せる兆。その表情が徐々に紅く染まっていって、彼は表情を隠すように俯いた。その唇が開き、消え入りそうな声が漏れる。


「……んだよ」

「?」

「……進学……したいんだよ」


 その声は今にも消えてしまいそうにか細くて、それでも佳代の耳にははっきりと届いた。言ったそばから片手で顔を覆う兆に、佳代はしばらく瞳をぱちぱちと瞬かせ……ふと、表情に夏の日差しのような笑顔を浮かべた。

「……いいと思うのだっ」

「……は?」

 呆然としたような声。ゆっくりと顔から片手を離し、見開かれた三白眼が佳代を映す。何を言っているかわからない、とでも言いたげに瞬かれる瞳を正面から見つめ、佳代は兆の無事な方の手に自分の手を重ねた。

「それが兆の選んだ道なら……僕は全力で応援するのだ! 兆は根は真面目だし、きっと大丈夫だと思うのだっ!」

「……っ」

 雲間から差し込む光のような声に、兆は思わず唇を引き結ぶ。佳代という人間はどこまでも真っ直ぐで、穢れを知らぬ白い花のようで。重なった手の温かさを感じながら、憮然としたように彼から視線を外す。

「……ありがと、な……っ……」


 ――と、兆の頭が落ちる。糸が切れたように全身から力が抜け、半身がかしいだ。瞼が落ち、視界にノイズがかかったかのように景色が塗りつぶされてゆく。

「はっ、ちょっ、兆!?」

 佳代の声が耳元で反響する。柔らかい手が彼の身体を支える感触。縋ろうにも、身体が動かない。全身から生気が抜けていくような感覚の中、兆は縋るように、掠れた声を絞り出す。

「……か……よ……」

「大丈夫、大丈夫なのだ。気を確かに持つのだっ! えっと、救急車、911……!」

 混乱のせいか、わけのわからないことを口走る佳代。その声すらも急激に遠くなっていって、視界は訳のわからないノイズに侵食されて。


 重なったままの片手が、引き上げられるかのように強く握りしめられる。

 その感触を最後に……兆の意識は、緩やかに暗転した。

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