第39話 単純に、会いに来ただけ

「……はぁ」

 曇り空に煙草の煙が昇ってゆく。風のない廃ビルの2階は、ただただ蒸し暑い。華やかなアッシュゴールドの髪に軽く触れながら、圭史はビルの外を眺めていた。はしばみ色の鋭い視線が、路地裏を行く人々の頭上を滑ってゆく。ふと、その隣でよく目立つ赤メッシュが揺れた。国近がダイエットコーラを飲み干し、圭史の方を見やる。

「どうしたんですか、圭史さん? 何か悩み事ですか?」

「いや……なんでもないさ」

 呟くように言い放ち、再び煙草に口をつける。吸い込むと、鈍い刺激が舌を刺した。美味しくはない。むしろ、ひどく苦い。舌先から全身が壊死していくようにさえ感じる。

(いや……最初っから、人生ぶっ壊れてるようなもんだけどな)

 煙草を口から離し、煙を吐き出す。それは曇り空に静かに昇ってゆくけれど、それでも曇天をかち割ることは能わなくて。

 ……ふと、背中が鋭く痛んだ、気がした。


「おいお前、勝手に入んじゃねえ!」

「ここは『Rising Dragon』の拠点だぞ! 関係者以外立入禁止だ!」

「おい、聞いてんのかチビ助!」

 入口の方から響く大声に、圭史はふと顔を上げた。侵入者はそう頻繁にはいないはずだが、何かあったのだろうか。国近に目配せすると、彼は一つ頷いて歩き出した。



「何なに? 何があったの……って」

 階段を下り、入り口を警備していた男子生徒たちを押しのける――と、見覚えのある髪色が目を焼いた。鮮やかなピンク色。最近染め直したのか、頭のてっぺんまでピンク色に染まっている。能天気な笑顔に、国近は苦々しく口元を歪めた。

「……名女川なめがわ先輩、でしたっけ? なんでいるんですか?」

「なんでって、圭史に会いに来ただけだけど」

 あっけらかんと言い放つ陽刀ひなたに、国近は呆れたように肩をすくめた。前々から圭史が彼について話していた……というか愚痴っていたのを何度か聞いていた身として、覚悟はしていたが、まさかここまでとは。ふっと目を細め、ブリザードのような声で言い放つ。

「……アンタは、圭史さんのこと、なんだと思ってんですか」

「え、圭史は圭史でしょ?」

「そういうことじゃないんですよッ」

 炎が揺らめくように、声が震えた。目の前できょとんと首を傾げる影が、揺れる。相手の胸倉を掴みかけて、拳に爪を立てることで耐える。荒れ狂う海のような思いを噛み殺しながら、静かに、雷のような声を放つ。

「……アンタは、どうしてッ!」


「やめろ、国近」

 背後からかけられた声に、国近は弾かれたように振り返った。周囲で見張り役の男子生徒がひざまずく気配。視界に映ったのは、華やかなアッシュゴールドの髪色。はしばみ色の瞳が、じっと国近を睨んでいる。刹那、思考が凍り付いて、喉が増えのような音を立てて。

「……圭史、さん」

「そいつから手を引け。に連れて行く」

「っ!?」

 ――三階。それは特殊な客人などが来たときにのみ使われる、いわゆるVIPルームのような場所だ。そこに自ら連れて行くということは、つまり。唇を薄く震わせて、国近はゆっくりと目を伏せる。

「……わかり、ました」

「わかればいい。……行くぞ、陽刀」

 陽刀の小さな手を握り、階段を昇ってゆく圭史。その後ろ姿を見送りながら、国近は静かに拳に爪を立てるのだった。



「缶ビール……は切らしてるし、炭酸……はお前、飲めないのか。天然水しかねえけど、いいか?」

 クーラーボックスの中を検分しつつ問いかける圭史に、陽刀は適当に敷かれたタオルの上で一つ頷いた。しかし見えていないことに気付き、呑気に口を開く。

「いいけど……むしろなんで天然水あるの?」

「酒盛りした時の悪酔い対策だよ、っと」

 陽刀の横に腰を下ろしつつ、手のひらサイズのペットボトルを差し出す圭史。開け放たれた窓から熱い風が吹き込む。自分はサイダーのキャップを開けつつ、何気なく問いかけた。

「……で、何の用だよ?」

「別に用はないよ。単純に、会いに来ただけ」

「なんだそれ」

 言い放ち、サイダーを呷る圭史に、陽刀は小さく微笑みかけた。彼の耳元を飾るフェザーピアスに触れ、あっけらかんと言葉をかける。

「なんか、二高も変わりつつあるよねー」

「近ぇ」

「でも、なぁんか危うい感じもするんだよねぇ……」

 細い指がフェザーピアスをつついては揺らす。圭史はふっと目を細め、陽刀のぱっちりと大きな瞳を見つめた。窓から吹き込む風に、ピンク色の髪がふわふわと揺れていく。

「佳代ちゃんの尻馬に乗っかるのは楽しいけど、それ全部みんなのノリだけで動いてるみたいなもんだもん。もし、何かしらの理由で空気が変わったら……なんて思うんだよね……」

「……それでお前は、俺にどうしてほしいんだ」

「べっつにぃ? 風紀委員に協力してほしいとか、後ろ盾になってほしいとか、そういうこと言うつもりはないよ。ヤンキー集団の後ろ盾なんて、佳代ちゃんは望まないだろうし。だから別に圭史に何してほしいみたいなのはないよ」

 フェザーピアスからそっと手を離し、陽刀はすっと背筋を伸ばした。夏風にピンク色の髪がふわりと揺れる。彼は圭史からふっと視線を逸らし、天然水を口に含む。と、その辺に放置していた鞄に手を伸ばした。適当に漁り、緑色の箱を取り出す。

「……?」

「どうせ暇だし、お菓子でも食べてのんびりしようよー。ねっ!」

 彼の笑顔はひどく無邪気で、この世の闇など何も知らない子供のようで……そんな彼を拒絶することすらできずに、圭史は小さく息を吐き、緑色の箱に手を伸ばし――と、パーカーのポケットの中で、スマホが震えた。

「……っ」

「どしたの、圭史?」

「何でもねえ……ちょっと待ってろ」

 立ち上がり、スマホを取り出しながら部屋を出ていく圭史。陽刀はぼんやりとその後ろ姿を見送り……彼の姿が部屋の外に消えてから、ゆっくりと歩き出した。忍者のように壁に貼りつき、耳をそばだてる。


「……はい、父上。……特に、問題ありません」

 はしばみ色の瞳をふっと細め、陽刀は考えを巡らせる。相手は圭史の父親……どこか悲しい雰囲気を纏う彼の、秘密。それを握っているかもしれない人物。

「……わかっています……ですが、自分は……」

 荒れた海のような声は、電話の向こうから響く罵声に遮られた。圭史が息を呑む音が耳を打つ。陽刀は壁に触れていた片手をゆっくりと下ろし、視線を伏せた。断片的に聞こえてくる罵声に、ふと『勝浦連合』という単語が混じる。はっと顔を上げ、陽刀は再び壁の向こうの声に耳を澄ませた。もしかして……いや、もしかしなくても、彼は。


 陽刀はゆっくりと壁から離れ、歩き出す。何事もなかったように元いた場所に腰を下ろし、目を伏せた。佳代と違って、陽刀は演技がうまい方だと自負している。

(……いい? ボクは何も知らない。何も聞かなかった……だから、ね? 圭史が自分から話すまで……何も言わないでおこう?)

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