第38話 特別だから、かな?
「……やばい、全然わかんない」
窓のブラインドが閉められた、ひどく蒸し暑い夜更け。憲太郎の部屋に、困惑したように小さな呟きが響いた。夏休みはまだ前半だけれど、何となくやる気が出たから宿題をやろうと思ったらこれだ。真っ白な英語のワークを、緑色の瞳がぱちぱちと見つめる。しかし、ただ見ていても仕方ないよね、と息を吐き、教科書を取り出す。十数秒、目を通し……ばさり、と音を立て、机に突っ伏した。
「……ダメだ、全然わかんない」
こんなことになるんだったら、もっとまともに授業を聞いておくべきだった。授業中はいつも寝ていたことを、まさかこうして後悔する日が来るとは。肺の空気をすべて吐き尽くす勢いで溜め息を吐き、顔を上げる。派手な金髪を掻きむしり、気合を入れるように唇を引き結ぶ。
「憲太郎!」
「っ!?」
――唐突にドアが開く音に、憲太郎は思わず全身を震わせた。恐る恐る振り返ると、濡羽色をした髪が揺れた。ポップコーンのような笑顔を浮かべた兄が、彼の許可も得ずに部屋に侵入してくる。
「待って、兄貴、何してんの」
「なにって、遊びに来ただけだよ」
「えぇ……」
後ろ手に部屋のドアを閉め、憲太郎の勉強机に歩み寄る兄。そのまま彼の真後ろに陣取り、彼の首に手を回す。
「ん、何してたんだ? 課題?」
「そうそう……っていうか兄貴、受験生でしょ? こんなとこで遊んでていいの?」
「いいんだよ。っていうかワーク真っ白じゃん。お兄ちゃんが教えてあげよっか?」
「……」
軽口に、憲太郎は思わず唇を引き結んだ。正直に申告すると、教えてほしい。自分一人ではわからない。けれど、それを口にしようとすると、喉に小骨が引っかかるような感覚を覚えて。黙りこくっていると、兄は乱暴に彼の金髪を撫でまわしてきた。
「ちょ、やめて兄貴。髪型崩れるじゃん!」
「あっははは、ホント素直じゃないなぁ憲太郎は。いいよ、教えてやる」
あっけらかんと言い放ち、兄はふわりと手を離した。かわりに、長い指が金髪を梳かすかす感覚。何故だか胸の内までこそばゆくなっていくようで、憲太郎は思わず目を伏せた。
「……さんきゅ」
消え入りそうな声で呟くと、ひた、と兄の指が止まった。ゆっくりと金髪の中を滑り降りて、いなくなって、再び首元をそっと撫でて。心臓が逃げ出そうとうるさく跳ねるけれど、それを無理に押さえつけ、震える指先でシャーペンを手に取る。
「……問1からわかんないんだけど」
「全くったく、しょうがねえなぁ……それじゃあ、始めるぞ」
◇
「……さて、今日はこの辺にしてさ。寝よ!」
憲太郎の両肩を叩き、兄はあっけらかんと言い放った。1冊の半分くらい埋まったワークから視線を上げ、憲太郎は思わず問い返す。
「え、まだ1時じゃん」
「もう1時なんだよ。っていうか憲太郎、普段何時に寝てんの?」
「どうでもいいじゃん……俺も忙しいんだよ。『イソップ』のメンバーと遊んで、ソシャゲやって、動画見て……」
「ほぼ遊んでんじゃねーか」
笑いを含んだ声に、憲太郎はじっとりと彼を見上げた。濡羽色の瞳は相変わらず柔らかい光を宿していて、不思議と怒る気になれなくて。ふっと彼から視線を逸らそうとして……頬に、ひどく熱い感触。思わず視線を兄に戻すと、彼はどこか真剣な顔をしていて。
「……憲太郎、さ。何でカラコン入れてんの?」
「……」
ストレートに問われ、思わず視線を逸らす憲太郎。本当は、兄と同じ色をした瞳が嫌で、カラコンを入れていたけれど……そんなこと、言えるはずもなくて。
「……大した理由はないけど」
「ふーん……」
言い放ち、兄は頬に当てた片手をそっとスライドさせた。彼の目の周りをそっと撫でながら、囁く。
「俺は……元々の黒い目の方が、好きだけどな」
「え……っ」
唐突にかけられた言葉に、頬に熱が上がってゆく感覚。耐えきれずに視線を逸らそうとしても、兄の大きな手が顔を固定して、能わなくて。濡羽色の瞳に絡め取られたかのように、彼はただ兄を見つめることしかできなかった。ふと兄はもう片方の手を自分の口元に当てた。考えるように視線を逸らし、口を開く。
「ただ、周りの連中には見せたくないなぁ……そうだ、外出る時だけはカラコンつけててもいいけど、俺と一緒にいる時は禁止ね。そうしよう」
「な……なんで兄貴が勝手に決めるんだよ」
「ん?」
ふと兄は憲太郎に視線を戻し、余裕ありげに口元をほころばせた。彼の顔に触れる手をそっとスライドさせながら、甘く溶ける蜂蜜のような言葉をかける。
「……特別だから、かな?」
「……っ」
「それじゃ、ちゃんと寝ろよ。おやすみ」
ぽん、と憲太郎の肩に手を置き、兄はふわりと身を翻した。扉の向こうに消えていく姿をぼんやりと見送りながら、彼はほの赤く染まった頬をそっと掻く。胸の内がひどく熱いような気がして、深く、深く息を吐いた。
「……寝よ」
◇
リノリウムの床を、黒いスニーカーが踏みしめる。真っ白な病院の廊下を、異質な黒い姿が歩んでいた。黒いライダースジャケットとダメージジーンズ、胸元を飾るのは大きな十字架のペンダントと、病院から支給された面会証。その歩みに合わせて銀色の髪がそよぎ、その下で黒いマスクが顔を隠している。肩に大きめのショルダーバッグを下げた彼は、とある病室の前で立ち止まった。その名札に視線を向け、一つ頷く。
――
ゆっくりと扉を開くと、入院着に包まれた細い身体が目に入った。透き通るように白い肌が夏の日差しに輝く。淡い茶色の髪は緩やかなウェーブを描き、その輪郭を覆っていた。彼はやはり細い片手を上げ、淡い色をした花のように微笑む。丸眼鏡の奥の垂れ目がちな瞳が、春の日差しのように瞬く。
「……今日も、来てくれたんだ」
「当たり前……気にすることは、ない」
「相変わらず口下手だね……
「……」
あえて反論することはせず、
「……病状。大丈夫?」
「大丈夫だよ。今は小康状態……かな」
彼はそう言って、気丈に笑うけれど。槐はマスクの奥の唇を噛みしめて、それを悟られまいと深く俯いて。眩しい夏の日差しに影が落ちた。ふと、未南人の柔らかい声が降ってきて、
「
「多分……平穏。……風紀委員で色々あるけど、それはそれ」
呟き、彼は胸元を飾る十字架を握り締めた。体育祭の時に告げられた言葉を思い返す。確かに自分は風紀委員だけれど、なりたくてなったわけではないし……何より、と彼は未南人の笑顔を見つめる。
「……未南人。俺……このままで、いい?」
「え?」
きょとん、と彼を見つめ返し、未南人はぱちぱちと瞳を瞬かせた。
「大丈夫だよ、
「……未南人……」
マスクの下の唇を、ぐっと引き結ぶ。彼の笑顔は花のようにあたたかくて、そして儚くて。気を抜けば今にも倒れそうな彼だけれど……それでも、と
彼の手は、氷細工のように冷たくて……それが
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