第33話 信じてやれよ

「いよいよなのだ……!」

 タイヤウォーズの二つ前の競技は玉入れ。赤と白のかごに群がり、少年たちは地面に転がる布玉を掴んではぶん投げていく。空中で踊る玉を、佳代はどこか上の空で見つめていた。と、その隣で赤いメッシュが揺れる。国近が大きな瞳を瞬かせ、からかうように言い放った。

「あっれー、佳代ちゃん緊張してる?」

「何を言うのだ。これは武者震いなのだ」

「声上ずってるよー」

「ぬっ、そっ、そんなことはないのだ!」

「はいはい」

 やれやれ、と両手を広げ、国近は頭の後ろで腕を組む。と、佳代の肩に軽く手が置かれた。武骨な感触にはっと顔を上げると、きざしが佳代の方に視線だけを向けていた。アーモンド形の瞳を軽く見開き、彼の三白眼を見つめ返す。

「……兆?」

「ずっと見てた。佳代たちがあの手この手で頑張ってたの。……信じてやれよ」

「……っ」

 その声は、佳代の胸にすとんと落ちるようで。鋭い三白眼が、春の日差しのようにやさしく感じる。佳代はしばし彼の瞳を見つめ……風に舞う花びらのように、無邪気に微笑みを浮かべた。

「ありがとうなのだ。僕、絶対に勝ってくるのだ!」

「おう。頑張れよ」



 タイヤウォーズは軍対抗戦で、3分程度の試合を学年別に繰り返すといった内容になっている。何度かクラス合同での練習も行ったのだが、佳代が所属する白軍は佳代が司令塔となり、石ノ森と他クラスの生徒が遊撃を務める……といった作戦を取ることになった。

 駆け足で入場し、向かいに立つ紅軍生徒たちを眺める。その中心には相変わらず長袖長ズボンの指定ジャージに身を包んだ東堂がいて、不遜に口元を歪めたまま腕を組んでいる。フィールドの中央には色とりどりのタイヤ。それらの配置を頭に入れつつ、佳代は呼吸を整える。


 ピッ――と鋭い笛の音。同時に両軍の生徒たちは顔を上げ、声を張り上げた。

「――よろしくお願いします!」

 勢いよく頭を下げ、顔を上げる。同時にそれぞれ持ち場につき、片足を引く。息すら止めたまま、合図を待ち――張り詰めるような緊張感が、フィールドを満たしてゆく。


 やがて――ピッ、と鋭い笛の根が鳴り響いた。同時に両側から少年たちが走り出し、タイヤへと群がっていく。

「両端ッ!」

 佳代の叫びに、石ノ森は左側の端のタイヤへと駆けてゆく。後ろで結んだ後ろ髪が風になびく。しかし……向こうも同じ戦略をとっているのか、坊主頭の男子生徒が同じタイヤへと駆け出してきていた。

「……ッ!」

 タイヤの両側に結ばれたロープを掴んだのは、ほぼ同時。あえて身体を倒さず、真っ直ぐに背筋を伸ばしたまま、ロープを握り締める。その分両足で地面を掴み、タイヤを奪われないように、向こうに得点が入らないように。しかし……ザザッ、と砂がスニーカーの底を擦る。徐々に綱が紅軍の側に引き込まれていく。

(まずい……これは、諦めた方がいいか?)

 ロープを握る力を、かすかに緩めた時だった。


「――ッ!?」

 目の前に白い影が飛び込んできたかと思えば、広い背中が石ノ森の視界を覆った。筋肉質な腕がロープを握り締め、思い切り白の陣地へと引き寄せていく。間違いない……そこにいるのは、目の前で揺れる赤茶色の髪は。

八手はって……!?」

「わりぃな、遅くなって!」

 軽く振り返り、彼は白い歯を見せて笑う。それはまるで、味方のピンチに加勢に来た助っ人のようで。ギリ、と歯を食いしばり、石ノ森はロープをさらに強く握りしめる。

「なんで……なんでこっち来るんだよ。他のところに加勢行けばいいだろ!?」

「いーやっ!」

 笑顔を崩さぬまま、彼は前方を見据えた。短い赤茶色の髪が、夏の爽やかな風に揺れる。八手は石ノ森に広い背中を見せたまま、言い放った。


「――栄須えいすのピンチなんだ。放っておけるわけがないだろうが!」

「……ッ!?」

「だからさ、変なこと言ってないで、目の前の勝負に集中しようぜ! 勝つんだろ、栄須!?」

 その声は愚直というか、一本気と言うべきか。殴りつける拳のような言葉が不思議と心地よくて、栄須はふっと微笑みを浮かべた。不敵に、あるいは獰猛に笑い、八手の背中の向こうを見つめる。

「ああ……悪いな、八手」



(……現在こちらが取っているタイヤは2割、向こうは3割……)

 タイヤの一本を自陣に引きずり込みつつ、佳代は戦場を見渡す。現在は比較的こちらが劣勢。だが、これからの巻き返しは十分可能だろう……さて、次はどのタイヤを取りに行くべきか。分析を始めた瞬間だった。

「佳代ちゃん! こっちヘルプ!」

 国近の叫びが耳をつんざいた。はっとしてそちらに視線を向けると、中央の最も得点の高いタイヤに生徒たちが群がっていた。あのタイヤは是非とも取っておきたい。それに何より、そのタイヤには東堂がいて……捨ておくわけには、いかなかった。

「わかったのだ! 今行くのだ!」

 中央に向かって真っすぐに駆けだし、佳代はロープの最後方を掴んだ。他の生徒たちと掛け声を合わせながら、拮抗するロープを少しでもこちら側に引き込もうとしてゆく。しかし、佳代一人の力では大した足しにはならなくて――そこに、悪魔のような囁きが耳を打った。

「あっはっは、哀しいな勘解由小路かでのこうじ君。本当はわかっているんだろう? 君の力には限界があるだなんて! 君ごときができることなんて、何一つないということを! あぁ、救いようがないな、それでも足掻いてしまうだなんて!」

「……っ!」

 彼の声には、不思議と心を抉るような魔力が宿っていて。思わず歯を食いしばり、佳代は言葉を咀嚼そしゃくする。確かに今は劣勢だ。逆転の機はあるけれど、それでも劣勢は劣勢……砂色のフィールドに落ちた視線が揺れる。と――聞きなれた声が、拡声器に乗って届いた。


『おい佳代ッ!』

「っ……兆……!?」

 弾かれたように顔を上げ、佳代は応援生徒たちの方向に視線を走らせた。その中心、グロッシーブラックの髪と黒い長ランが夏風に揺れる。三白眼は珍しく燃えるような輝きを宿していて、佳代は思わず息を呑んだ。

『その程度の揺さぶりで揺れてんじゃねえ! !? 変わることは絶対にないんだろ!? だったらお前はお前らしくやれよ……信じろよ! ……ッ!!』

 感極まったように声が途切れ、どこか泣きそうな息遣いが耳を打った。その声はまるで激しい嵐を内包しているかのようで、佳代の背を荒っぽく押してくれる突風のようで。

「ったく……キザッシー、佳代ちゃん大好きかよ!」

 呆れたような国近の声が響く。そうだ……その通りだ。兆は佳代のことを信じてくれている。ならば、それに応える義務があるだろう。両手に力を入れ直し、顔を上げる。

「皆……! 僕は大丈夫なのだ、だから皆も大丈夫なのだ! 絶対に、勝利を掴むのだ――ッ!」

「おうッ!!」

 生徒たちの掛け声が響く。真夏の熱気を閉じ込めたかのように。じわり、じわり、タイヤが徐々に白軍の陣地に引きずり込まれていく。東堂の頬に一筋の冷や汗が流れ、真後ろの長い前髪の生徒が声を上げた。

「東堂くん! このままじゃまずいですって! このタイヤは捨てましょう!?」

「……っ……!」

 苦々しげに口元を歪め、東堂は叩きつけるようにロープを投げ捨てた。驚いたように長い前髪を揺らす生徒に、彼は獅子の咆哮のように言い放つ。

「皆、散るんだ! 他のタイヤを何としても死守しろ!!」

「了解――ッ!」

 蜘蛛の子を散らすように、他のタイヤへと散っていく生徒たち。佳代はタイヤの回収を国近に任せ、他の生徒たちに矢継ぎ早に指示を出していく。

 そして……その様を、兆は満足げに微笑みながら眺めていた。それはまるで、再び立ち上がるヒーローを見つめる相棒のような。

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