第32話 キザッシーなんて普通の水で十分じゃん

「お疲れ様なのだ、きざし

「……おう……」

 ひどく緩慢な動作で長ランを脱ぎ捨てつつ、兆は小さく息を吐く。午前中の競技がすべて終了した旨を告げるアナウンス。それをBGMに、兆は無事な方の手で何度か喉をさすった。

「普通に疲れた……喉が死んでやがる……」

「おつかれちゃーん。佳代ちゃん佳代ちゃん、100円あげるから何か買ってきて」

「100円で買えるか!」

 兆の反対側から顔を出し、憲太郎がウサギ柄の小銭入れを取り出す。ツッコミを入れながらもそれを受け取り、中を検分し……ズビシッと憲太郎を指さした。

「って! これ、本当に100円しか入っていないではないか!! 普通の水すら買えないのだぞ!! 10円追加を要求するのだ!!」

「おい待て佳代、まず110円で買えるもの前提か?」

「キザッシーなんて普通の水で十分じゃん」

「は?」

 軽薄に言い放つ憲太郎に、兆は思わず三白眼を細めた。アーモンド形の瞳をぱちぱちと見開く佳代と、意地悪い笑顔の憲太郎を交互に眺め、彼は小さく息を吐く。

「つか、そんくらい自分で買う」

「うっわノリ悪っ!」

「暇だから僕もついていくのだ!」

「なんでだよ」

 呆れたように息を吐きつつ、兆は自分の席へと歩いてゆく。そんな彼と、子供のようについていく佳代を見送りつつ、憲太郎は校舎側の土手を振り返った。見知った姿を探して視線を左右させ……と、隣に一人の少年が立った。短い髪の毛先だけを青く染めた彼は、紺の学校指定ジャージに包まれた腕を組んだ。耳元で髑髏型のピアスが正午の日光に輝く。

「ん、どしたの志間っち?」

「どしたの、じゃねーよ。一緒に飯食おうぜ」

「……えー……どうしよー」

 ちらり、と緑色の瞳が土手の方向を見やる。誰かを探すような視線の動きに、志間はゆっくりと腕を下ろした。開かれた唇から八重歯が覗く。

「ケンタロー、こないだの抗争以来、なんか付き合い悪くなったじゃん。おまけにブラコンって噂流れてんぞ。『イソップ』の頭がそんなんじゃ、いずれ負けるぞ?」

「……別に兄貴と仲良くてもよくない?」

「いいけどさ。だからって、俺らのこと疎かにしないでくんない? それに前はあんなに風紀委員の文句言ってたくせに、今日やたら仲いいじゃん。『ライドラ』の奴とも。なんかあったの?」

「なんでもいいじゃん」

 言い放ち、憲太郎は緑色の視線を伏せる。その口元は複雑な笑顔を浮かべ、首元には一筋の冷や汗が流れる。現実逃避でもするかのように天を仰ぎ、再び志間に視線を向ける。

「……ごめん、今日だけは見逃してちょ」

「はぁ……ハー●ンダッツで手を打とっか」

「オーケー」



 ガコン、音を立てて自販機から飲み物が落ちる。それを回収し、顔を上げたのは七三分けに銀縁眼鏡の男子生徒だった。長袖長ズボンのジャージをぴっしりと着こなした彼に、佳代と兆は思わず足を止める。片足を引いて身構える兆をよそに、佳代は静かに口を開く。

「東堂なのだ?」

「やぁ、勘解由小路かでのこうじ君、法師濱ほしはま君。調子はどうだい?」

「まぁまぁ好調なのだ」

「法師濱君の方は喉が死んでいるようだけどね?」

「うるせぇ」

 言い放ち、兆は東堂を睨みつける。余裕の微笑みを見せる彼に、兆は三白眼も鋭く言い放った。

「テメェ……何か仕込みでもしてねえだろうな?」

「法師濱君、君はボクを一体何だと思っているんだ? このボクがそんな卑怯な真似をするはずがないだろう。手段はともかく、勝負はいつも正々堂々。それがボクのモットーだ」

「言ってることが矛盾してんぞ」

「そうかな?」

 大仰に腕を広げ、東堂は余裕の笑顔を見せる。それはまるで、神にすら挑もうとする科学者のようにも見えて。

「そんなことをしなくてもボクは勝てる。卑怯な手に頼ることは、弱い者のすることさ。ボクはそんなことはしない。わかっているだろう?」

「ふふ、わかっているのだ!」

「待て、佳代、話が噛み合ってない」

 兆のツッコミは誰に拾われることもなく消えてゆき、彼は想わず頭を抱えた。二人は火花すら散りそうな勢いで見つめ合い――先に口を開いたのは佳代だった。

「僕たちは今まで、たくさん練習してきたのだ。たくさんたくさん頑張ってきたのだ! 僕たちに倒せない相手なんていないのだ。君たちと戦うの、楽しみにしているのだ!」

「ふふ、嬉しいことを言ってくれるじゃないか。ただ……忘れてやいないよね? 君の敗北と同時に、風紀委員会の時代は終わりを迎えるということを……」

「ふん、知らん」

 堂々と腕を組む佳代に、東堂が息を呑む音が響く。兆が理解を求めるように、ぱしぱしと瞳を瞬かせた。佳代は堂々と胸を反らす、まるで破天荒な勇者のように。

「絶対に、僕たちの戦いは終わりにはさせないのだ! 首を洗って待っているがよいのだ、勝利をつかむのは僕たちなのだッ!!」



「……はぁ、つまんな……」

 木漏れ日を浴び、よく目立つ赤メッシュが輝く。桜の木の根元に腰かけ、国近は広い工程を眺めていた。青いラベルのスポドリを飲み干し、その辺に投げ捨てる。と、そんな彼の顔に影が落ちる。

「国近さん国近さん」

「コースケ? どしたの、それにエース君も。待って、俺挟んで座らないで」

 何故か国近を挟んで座り始める八手と石ノ森に、彼は苦々しく言い放つ。しかし二人はそれをガンスルーし、視線を交わし合った。八手が赤茶色の短髪を揺らし、ひどく真剣な顔をして口を開く。

「……あのさ」

「待って、なんか察した。しゃらっぷ」

「は?」

「え!?」

 二人の声が重なり、我に返ったように二つの視線が絡む。石ノ森の憎々しげな舌打ちに、体育座りで膝に顔を埋める八手。深く溜め息を吐き、八手は木の根から立ち上がった。半回転して二人を見下ろし、呆れたように腰に手を当てる。

「二人とも俺にありがとうって言おうとしたっしょ?」

「……なんでわかんだよ」

「いや、わかるから。そんな真剣な顔されたら嫌でもわかるし」

「おい八手」

「オレのせいかよっ!?」

 雷に打たれたように大きく震える八手を、石ノ森は半目で睨みつけた。そんな二人を両手を打ち鳴らすことで押しとどめ、国近は口を開く。

「でもさ、今それ言ったら死亡フラグじゃん?」

「……それもそうか」

「考えてよね。だからさ、言うなら体育祭全部終わってからにしてよ。それまでは適当にイチャついてていいから。俺がいないとこで」

「は?」

「イチャ……!?」

 半目の石ノ森に反し、八手はまたしても派手に体を震わせた。忙しいやつ、と肩をすくめ、国近はその場を歩き去ってゆく。


「……まぁ、勝ちたいし。とりあえず、頑張るしかないよね」

 ランタンの灯りのような言葉が、夏風に吹かれてゆく。

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