第19話 ぜってぇ、言わねえからな!
けたたましいサイレンの音。回転する赤色灯。すっかり閑散とした路地裏に、青い救急隊員の制服を纏った男性が数人現れた。彼らは佳代と
「大丈夫ですか?」
「ああ……痛ぇけど、大丈夫……つか佳代、このくらいで救急車呼ぶなよ」
「見たところ、外傷による軽い骨折ですね……確かに本来は救急車を呼ぶほどの重傷ではないようですが、どうしますか?」
救急隊員の言葉に、佳代はどこかばつが悪そうに俯いた。兆は三白眼を伏せ、ぼそぼそと呟くように口を開く。
「……辞退、します。ご迷惑おかけしました……」
「そうか、わかった。これからはこういう怪我をしないように、気をつけてくださいね。それでは、失礼します」
一礼し、去っていく救急隊員たち。やがて路地裏から去ってゆく救急車を呆然と見送りながら、佳代は服の裾をぎゅっと掴んだ。圭史がそっと兆に歩み寄り……その腕を、筋肉質な腕が唐突に掴んだ。
「……まだ終わってねえだろうが、勝浦圭史……」
「……
茜色に輝く金髪。それはどこか褪せているように見えて、緑色のカラコンがひどく空虚に映って。しかし、その血走った瞳はあまりにも雄弁に物語っていた。ゆっくりと彼に向き直り、圭史は静かに首を横に振る。
「今日はやめよう。立会人もなしにタイマン張ってどうする。兆、
「……待って、ください……」
「兆! 下手に動いたらダメなのだっ!」
佳代の制止も聞かず、兆は腕を押さえたまま憲太郎に一歩歩み寄った。その瞳は痛みに濁っているけれど、それでもはっきりと光を浮かべていて。憲太郎は黒い眉を跳ね上げ、緩慢に笑う。それはまるで、追い詰められたハイエナのように。
「……手負いの獣が一番恐ろしい、とは言うけどさ。今の君に何ができんの? 腕折れてんだよ? ここで退いとくのが賢明だと思うなぁ」
「……だからって、圭史さんを、置いていくわけには――」
「――兆」
鶴がいななくような声に、兆ははっと身をすくませた。唇を噛みしめると、ずきり、折れた腕が痛む。喉を震わせる無音の絶叫を噛み殺す兆に、圭史はアッシュゴールドの髪を揺らして向き直った。
「俺が信じられないか?」
「……っ」
その声は静かだったけれど、まるで尾びれを一打ちする海竜のようで。彼のはしばみ色の瞳から、目が離せない。それは鬼のように禍々しく、それでいて聖人のように輝いていて……兆はおもむろに、首を横に、振った。
「……申し訳ありません、圭史さん。あなたを、信じます」
「わかればいい。……勘解由小路、兆を病院まで送れ」
「了解なのです。行くのだ、兆」
佳代は折れていない方の兆の手を取り、歩き出す。傷に響かないようにゆっくりと歩いてゆく二人を見送り、圭史は憲太郎に向き直った。
「……わかるだろ、上原? あれは外傷、周りにはいかにもなヤンキー。誰かにやられたって救急隊が判断して、警察呼ばれるのは時間の問題だ。それでもやるか?」
「――ッ!」
氷柱のように冷徹で、液体窒素のように残酷な言葉。思わず息を呑み、憲太郎は一歩後ずさる。脳裏に浮かぶのはひどく能天気な兄の言葉と、紅い花のように残酷な父の声。それだけは、それだけは、絶対に避けたくて……歯を食いしばった瞬間、景色が反転した。
「――ッ!?」
茜色の空が視界いっぱいに広がる。一拍遅れて、乾いた音が響く。頬にじんじんと痛みが走り、チョークで書いた文字が消されていくように頭が真っ白になってゆく。呆然と圭史を見返すと、彼はただ静かに佇んでいた。はしばみ色の瞳は、どこか聖人のように静かに輝いていて。
「……お前も、辛かったんだな」
「……何がわかるってんだよ」
「目でわかるさ」
はしばみ色の瞳が、憲太郎の緑色の瞳を見返す。そこに宿る光は、どこかすべてを見透かしているようで。反抗することすらできない光に、憲太郎は唇を引き結ぶ。
「孤独な人間の色をしてる。信じる人間の色をしてる。居場所を欲してる人間の色をしてる」
「……」
「お前、
「……はぁ?」
思わず、憲太郎はかくりと首を横に倒した。圭史の瞳は子供のように真っ直ぐで、アッシュゴールドの髪が茜色にきらめいていて。ひくり、ひくり、喉が動く。だけど言いたいことをすべて飲み込んで、憲太郎は彼に背を向けた。スニーカーの音を重く鳴らし、歩き出す。
「……無理だよ。俺『イソップ』の頭だし。今更裏切るなんて、できねえ」
「……それもそうだな。すまなかった。気が向いたらいつでも言ってくれ」
「言わねえよ……」
路地裏の景色が流れてゆく。頬がじんじんと痛みを発する。だけど、と彼はふと足を止めた。おもむろに振り返り、茜色を浴びて輝く姿をじっと見つめる。すぅっと息を吸い、ゆっくりと口を開き――はた、と止まった。ニヤリ、緩慢に微笑み、悪童のようにからりと言い放つ。
「――ぜってぇ、言わねえからな!」
◇
「兆、大丈夫なのだ?」
「ああ、大丈夫……だといいけどな」
「しかしまさか骨折るまでやるとは……兆くんも無茶するな」
「……すんません……」
近所のクリニックを出て、圭史はすっかり暗くなった空を仰いだ。折れた片腕はギプスで固定され、適切な処置を受けている。心配そうに見上げてくる佳代と、呆れ顔の
「本当すみません、お兄さん。診療代まで出してもらって……」
「いや、いいよ、このくらい。適当に株やってたら儲けたお金だし」
「それに兆、多分治療費出せないと思うのだし……このくらい当然なのだ!」
「いや、俺の金だからな?」
何故か胸を張る佳代に、呆れたように肩をすくめる舜。未だにばつが悪そうな表情の兆の肩をポンと叩き、佳代は陽だまりのような笑顔を浮かべた。揺れるアイボリーブラックの髪色に、無邪気に笑う口元に、兆は思わず目を見開く。
「大丈夫なのだ、そう気にするななのだ! 兆には僕たちがいるのだ。な、僕たちを信じてくれ、なのだっ」
「……佳代……」
佳代の笑顔は子供のように無邪気で、空に架かる虹のように眩しくて。心臓が小さく疼いた気がするのは、錯覚ではないように、兆には思えた。
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