囁き

AKIRA

第1話

 尾崎洋子おざきようこが最初に聞いた悲鳴は子供達の遊び声のようだった。しかし今聞こえてきたのは男性の怒号に近く、洋子は壁時計を見上げた。10時16分。昼休みの時間であれば毎日のように子供達の歓声が響いてくるが、それにはまだ早い。


 コの字型に並ぶ住宅の私道を入り、一番左奥にある家。駐車場はいびつな四角形をしているがその横には小さな庭もある。洋子は夫との2人暮らし。


 以前、畑だったこの辺りは5年程前から更地から建て売り住宅へと変わっていった。今その半数以上が小学生のいる世帯だ。夫婦2人だけの世帯は洋子達を含めても3世帯しかいない。それでも洋子はほとんどの住民、特に子供達の親や兄弟は何人いるのかまでもちゃんと覚えていた。


 レースのカーテンをそっと開けてみる。辺りに人影はなく5月の心地よい晴天が広がっている。


 歓声とは違う緊迫感のある悲鳴がまた聞こえてきた。それも複数の。


 私道正面にある窓から校舎を見ることはできないが、通りに出て歩けばすぐ右側に校庭が広がる。洋子は外に出て様子を見たほうが良いかと考えているとインターホンが鳴った。


 子供を一人抱えた女性と、その女性を取り囲むように子供達が数人、インターホンの画面に映っている。皆、怯えたような表情を浮かべ、キョロキョロと辺りを警戒していた。


 洋子は戸惑い、何事かと驚きながらも応える。

「はい?」

「すいません、中に入れてもらえませんか?子供達だけでもお願いします。男に追いかけられていて…」

 洋子は返事もせずに急いで玄関へ向かった。



「小学校に男が…包丁を持った男が追いかけてきて」

 息を切らしながら女性が洋子に言った。招き入れた全員がソファの前に固まって座り、女性を中心にして子供達はぴったりとそばを離れずにいる。

「警察には?」

「たぶん、職員室の誰かが電話していたはずです。あ、私は教師ではなく事務員で」

「怪我は?」

「だ、大丈夫だと思いますが…」

 女性に抱かれていた子供は体操服を着ていて、呆然とした表情をしている。その他の子達は泣き出しそうではあったが声を出したらいけないと思っているのか押し黙っていた。


 洋子は皆の表情を見て嘘ではないことを確信すると同時に、子供達の中に知っている子が一人もいない事にはなぜかホッとしていた。


 とりあえず自分にできることをしなくちゃ。


 洋子は居間から出て廊下をウロウロしながら警察へ電話をかける。携帯を持つ手は震えながらも一部始終を何とか説明し終えると、玄関に散らばる靴を揃え始めた。上履きが4足と女性と子供用のスニーカーが2足。同じサイズの靴を揃える。


 視界の隅に白い靴下が見えたと思った次の瞬間、頭をグッと掴まれ首の左側だけが鋭い痛みに襲われた。

 思わず手で首もとを押さえるとヌメリを感じる液体、それは自分の血液で、しかも大量だと分かると洋子は愕然とした。


 声は出ず、コポコポッと喉の奥から音がした。


 何が起きたのか理解できなかった。玄関の冷たいタイルに手をつき身体を支えようとしたが力は入らず、そのまま崩れ落ちた。




 窓の近くには何度か見かけたことがある6年生の子が、他の皆は折り重なるように居間のテーブルとソファの間に倒れている。

 小学5年生の下川悠莉しもかわゆうりだけが皆を見下ろすように立っていた。手も、服も血だらけになったまま、ずっと肩で息をしている。


 最初は大人から。力がいるし、抵抗されたら時間がかかってしまう。


 小さな子達は恐怖からなのか、逃げようとはしなかった。6年生の子だけは窓際へ逃げたけれど、なぜ?という顔をするだけで抵抗する間もなかった。

 カーテンは全て閉めたせいか部屋は薄暗い。血の匂いと悠莉の息遣いだけが聞こえる。

 握りしめていた右手を開くとナイフは床に落ち、ごとっと音が部屋に響いた。




 悠莉の母親、下川美里しもかわみさとは囁くのが得意だった。人混みの中からでもその相手を見分ける事には長けていて常に探しているわけでもなく、半年間何もしない時もあれば1ヶ月に2度囁く時もあった。大抵は昼間に出会った人、特に悠莉と一緒に歩いている時や公園でベンチに座っているとふいに動きが急に止まり、その相手を見つける。


 囁かれた人は翌日の新聞やニュースでまた見ることになる。「通り魔」や「殺傷事件」、「自殺」になっていることもあった。美里は必ず名前だけは聞き、家に帰るとその名前をカタカナでレシートやチラシの裏に書きなぐる。それからニュースや新聞記事で確認できるとすぐに捨てていた。


 悠莉は一度聞いてみたことがある。

「そういう人をどうやって見つけるの?」

「匂いで分かるのよ。遠くからだと見分けがつかない時もあるけど、近づくとすぐに分かるの」

 美里はにこりと微笑んだ。

「匂い?どんな匂い?」

「そうねぇ…古くなって汚れた障子の様な匂いかしら」

 何度か障子の張り替えを手伝ったことはあったが、悠莉はその匂いよりも古くなった障子を破ける楽しさしか覚えていなかった。


 父親は悠莉が産まれる前に居なくなり、美里には両親はいたが悠莉は一度も会ったことがない。家にテレビはなく、悠莉は公園で同世代の子と遊ぶことはできても会話は続かなかった。



 ある朝、いつものように散歩に出掛けるため玄関を出ると三人の見知らぬ大人が寄ってきた。2人の男性と女性が1人。

「近所から複数の通報がありまして」


 美里と三人はしばらく話をした後、家の中に戻ることになった。

 部屋に入るとすぐに、1人の女性が悠莉に近づく。

「ちょっとごめんね」

 と言い、悠莉の袖をまくる。手や腕の至るところに古い傷と新しい切り傷が見てとれた。

 お母さんにはもっと沢山傷があるよ、と言いかけて悠莉は止めておいた。美里が男性2人からの問いかけにうつむき、ほとんど喋らなくなっていたからだ。



「お母さんは少しの間、病院に行かなきゃいけなくなったの。悠莉ちゃんは1人じゃ住めないから、ここじゃなくて安全な場所にこれから行こうね」

 女性が悠莉にそう伝えると、アパート前に停まった車に乗るよう促された。


 それまで感情を出さなかった美里は悠莉が歩きだした所で涙ぐみながら隣に立つ男性に懇願した。

「お願い、話をさせて。少しでいいから」


 美里が駆け寄って来るのを見て悠莉は走った。両手を広げた母親の胸に飛び込む。ギュッと抱き締められ、暖かい息が首もとにかかる。それから悠莉に囁いた。

「ナイフの使い方は忘れないでね。合図を送るから。絶対に悠莉なら分かるわ」


 女性がそばに来ると、美里は悠莉の手を取り車に乗せた。悠莉が不安な表情を初めて見せながら美里の顔を見つめる。

「お母さん…」

「大丈夫よ。お母さん、いつも悠莉のこと見てるからね」


 車が動き出し、悠莉の姿が見えなくなっても美里は動かずにいた。




 小学校の回りは完全に規制されている。それでもマスコミや、野次馬が後を立たない。

 コの字型に並ぶ住宅の角には坂倉刑事と瀬田刑事が立つ。

「怪我人は36名です。一人は階段から落ちて骨折したようですが、他はほとんどが擦り傷程度です」

「所在不明者は?」

「あと18人です」


 厄介な事件だな、と坂倉は考えていた。白昼、小学校に刃物を持った男が現れ生徒らを追いかけ回したものの、数人の怪我だけで男は取り押さえられた。死傷者が多数出てもおかしくない状況だったが、目撃者の話では男は追い付いた生徒達には何もせず、また違う生徒達を追いかける事を繰り返していたという。

 犠牲者がでなかったことは喜ばしいことだが、小学校を中心とした喧騒は終わりが見えない。


 教室から逃げ出した生徒の数が多く教師達は状況把握することに時間を取られている。事件を知り、子供を探す親達も次から次へと増えていき、警察も対応に追われた。


 瀬田の携帯が鳴り、短く通話を終える。

「7人、所在確認できました。残り11人です」


 やっと11人か。


 犯人が取り押さえられてから2間以上経つ。

 パニックになった子供達の多くは自分の家、親の職場などに逃げ込んだ。中には近所の家や倉庫に隠れたりする子供もいた為に110番通報が相次ぎ、その確認に時間がかかりすぎていた。


 私道の奥から2人の警察官が坂倉達に会釈しながら近づいてきた。


「ちょっと気になる家が一軒ありまして」

「どうした?」

「尾崎さんという家なんですが…一番左奥です。あの赤い車の奥にある1階の窓が見えますか?」

 警察官が指差した先には赤いセダンがあり、カーテンの引かれた吹き出し窓がわずかに見えた。

「指が見えるんです」

「指?」

「インターホンでの応答がなかったので、窓際も確認したところカーテンの境目の隙間から指が見えまして。女性か子供のような指ではないかと。掌は上向きで…」

 警察官が不安と興奮が混じったような声で話すのを坂倉は冷静に聞いていた。

「窓は叩いてみたか?」

「はい、軽く何度かノックしましたが応答ありませんでした」

「近所の方の話では、70代のご夫婦が2人で住んでいるそうです」


 坂倉は少し考えた後、落ち着いたトーンで話し出した。

「ちょっとここは慎重にいこうと思う。私達が正面からもう一度確認しに行くから君たちは裏に回ってほしい」

「はい」

「ただし、走るなよ。子供達を探してるようにゆっくり近づきながらで良い。マスコミに気づかれたくない」

「わかりました」

 2人の警察官は言われた通りに歩きだした。瀬田が坂倉の顔を見ながら言った。

「ただの人形じゃないですか?」

「たぶんな。でも、それならそれでいいだろう。確認するだけだ」

 警察官2人が角を曲がっていくのを確認すると坂倉はフッと息を吐く。

「行こうか」

 坂倉達は私道の奥へ向かった。




 美里と会えなくなった悠莉は養護施設に入り、学校に通うことにもなった。嬉しいという感情はなかったものの、入学する際にプレゼントされた白いレースの靴下には心が踊った。美里はいつも黒や紺、茶色の洋服ばかり着ていて悠莉に買ってくる服も同じだった。


 今度、お母さんに会う時はこの靴下を履こうと決めていた。白い色も似合うのね、と笑って抱き締めてくれるはず。

 悠莉はその日を待ち望み、一年近くが経っていた。


 その真っ白な靴下は今、血に染まっている。悠莉は血だまりができたその場所から動こうとはせずに靴下をじっと見つめていた。


 どうして今日なのだろう。朝、履いていくつもりだった靴下には穴が開いていて、天気も良く体育もない今日なら履いても汚れないだろうとこの靴下を履いてきてしまった。


 お母さんに会える時に履いていけない。


 その事実に心底落ち込んでいた。血だまりに悠莉の涙がぽろぽろと落ちていく。


 どうして今日なの?


 インターホンが鳴る。5分くらい前にも鳴り、窓ガラスを軽く叩く音も聞こえてはいたが悠莉は特に気にせずにいた。


 ドアを叩く音と男性の声がはっきりと聞こえてきた。

「尾崎さん、いらっしゃいますか?」


 悠莉は床に落としたナイフを拾い上げ強く握りしめると、玄関に向かって歩き始めた。

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囁き AKIRA @akirashan

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