第43話 帰幽
抱きすくめられた身体を引き離そうと、いつきはつかんでいた胸ぐらを小刻みに叩く。そのたびに、パイドパイパーが馬鹿にしたような笑い声をたてる。
「アヤナちゃんに、謝れ!」
渾身の力を込めて、パイドパイパーに体当たりをする。
鉄柵の当たり所が悪かったのか、急に咳き込み出して、いつきを捕獲していた腕の力が弱まった。
その隙に、重心を前にかけ、パイドパイパーの肩甲骨から上を柵に乗り出させる。
「結構力があるんだね。火事場の馬鹿力ってやつかな?」
それでも余裕たっぷりに笑うパイドパイパーに、いつきは言った。
「あなたにも霊力があるんだったわね。じゃあ、見えるでしょう。私の後ろにいる者たちが。白い半紙で顔を覆った、
パイドパイパーの顔から笑みが消えた。
「ギロチンにかけられる前の罪人に、ときどき死を恐れない者がいたんですって。群衆はその蛮勇を讃えたらしいけど、あれは罪人が、自分と死を結びつけられなかったからですってね。……そもそも他人の死の痛みを自分に引き寄せて考えられないんだから、自分の死も想像できなかったんでしょう」
いつきはパイドパイパーをつかむ腕に力を込めた。
自分以外の力が加わっているのを感じる。おそらく、アヤナが。
「あなたは、どの時点で自分の死を予感できるかしらね。まだ? まだ足りない?」
パイドパイパーの片足が浮く。
腕だけでは力が足りない。いつきは抱きつくようにして全身の重みをかけ、じわじわとパイドパイパーの身体が柵を乗り越えて海へと落ちるよう仕向けた。
アヤナに謝ってくれるのなら、このまま二人とも海に落ちてもいいと思った。
いつきの顔の左右、すぐ横に、あの面の者たちがいるのを感じた。
雨が降っているのに濡れることのない白い半紙が、パイドパイパーの顔にかかる。静電気が走ったような空気の亀裂が、いつきにも伝わる。
「ひ……」
パイドパイパーが短い悲鳴をあげる。
しかし、彼の顔には恐怖の色は浮かんでいない。
「ふふ。いいね、ぞくぞくするよ」
目を細めて笑うその表情は、恍惚という表現が近かった。
「がっかりしたかい? 僕が死の恐怖に怯えることで、アヤナを死に追いやったことを悔い、他者の命を思いやるようになるとでも?」
図星をつかれて、思わずいつきの腕の力がゆるむ。
「残念でした。そんな単純にいくわけないじゃん。……僕は生まれつき、恐怖や痛みを感じる能力が極端に低いんだよ」
パイドパイパーの冷たい指が、いつきの首をつかむ。
息が止まり、頭に血がのぼる。抵抗しようとするのに、腕に力が入らない。
あっという間にいつきの方が鉄柵に押さえつけられ、海を背にしている。
雨の音が、だんだん遠のいていく。
すぐ目の前に、パイドパイパーの顔があった。息がかかるほど近い。
そして、その両脇には面の者がいて、こちらを見ている。
(
雨に濡れて冷え切った身体が、さらに凍える。まつげに落ちた雨粒が、視界をぼやけさせる。
このまま意識がなくなってしまう予感に、いつきは底なしの穴に放り込まれたような心細さと恐ろしさを感じた。すべてが闇の中に閉ざされて、終わってしまう。
「ああ、その表情が『恐怖』っていうのかな? 僕にはわからない感情だけど、きれいな顔がゆがんで、目が裏返ったみたいになって、口も魚みたいにぱくぱくさせてて、最高に情けないよ! 興奮するなぁ」
鼻と鼻が触れそうなほど近くで、パイドパイパーがささやく。顔に息がかかる。
「死ぬ瞬間の顔を見せてよ」
すぐそこにヘーゼルナッツ色の瞳がある。子供のように爛々と目を輝かせて。
いつきは最後の力を振り絞って、パイドパイパーに唇を近づけた。
彼は笑いながらそれに応じてきた。
唇が重なり合う。
雨で冷え切り感覚がなくなっていたところに、わずかな温かみを感じた。
意識とともに身体から離れようとしていたいつきの気の塊が、パイドパイパーの体内へと流れ込んだ。
彼の中にたどりつき、気が絡み合い、体中を駆け巡る。
痛みや恐怖をほとんど感じず、罪悪感のない、荒涼としたあたたかみのない世界。
気の交換をした者同士は、相手のことを理解しやすくなる。
由良が言っていた。それならば。
いつきの首を絞めていたパイドパイパーの手が、ゆっくりとほどける。
止められていた血が一気に流れ出し、呼吸が戻る。
いつきはパイドパイパーから唇を離し、突き飛ばした。柵にしがみついて何度も咳き込み、大きく息を吸い込んで酸素を得ようとする。
地面に尻餅をつき、こちらを見上げるパイドパイパーの顔が、ゆがんでいた。
眉根を寄せ、肩をすくめ手で頭を覆い、防御の姿勢を取っている。雨に濡れてぺたりとした栗色の髪が額に張りつき、馬鹿みたいに口を開け、わなわなと震えている。
体内に入り込んだいつきの気の塊を通して、今までに味わったことのない感情を理解したのだろう。
にやりと笑っていつきが近づくと、パイドパイパーは悲鳴をあげてうずくまった。
このまま、心ゆくまでいたぶってやりたい衝動にかられる。
左肩が痛んだ。自分の中に巣くった暗い情熱を咎めるように。
パイドパイパーの気に惑わされてはいけない。自分は自分だ。
いつきは深呼吸をして、首を振った。
「あなたは死に値しない。楽にしてやるもんですか」
左肩の痛みが薄らぐ。
同時に、アヤナが姿を現してパイドパイパーに近づいた。
彼女は怯えて後ずさる彼を一瞥すると、背を向けていつきに向き直った。
雨が細くなっていき、やがて止んだ。
いつきの両脇にいた面の者が、ゆっくりとアヤナに近づいていく。
彼女は一礼をして、両手を
鈍色の衣冠をまとった面の者たちが、その手を取る。
彼らはエスコートするように、アヤナの手をゆっくりと引いて歩き出す。その様子に、禍々しさはない。
海上に、道ができた。
水平線から昇る太陽が水面に作り出したかのような光の道が、明石海峡大橋と平行に走っている。
アヤナたちは鉄柵をすり抜け、その道を進んだ。
道の中ほどでアヤナがこちらを振り返り、かすかにほほえんで会釈をした。
「
いつきは
彼らを乗せた光の道は水平線に達すると、一瞬大きく瞬いて、消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます