第4話 縄に託されたSOS

「お待たせしちゃって。いつきちゃん、あがって」


 西園のおばさんが、人なつこい笑顔でスリッパを出してくれる。

 失礼します、と一礼して、草履を脱ぎ、三和土に上がってから揃える。おばさんとは小さい頃からの顔見知りだが、仕事で来ているときはけじめが必要だ。


 座敷に案内されると、紙袋に入れてきた祭祀用の狩衣かりぎぬを白衣の上からまとい、烏帽子をつける。勺や大麻おおぬさなど必要なものを取り出し、準備をしながらいつきは考える。


(さっきのあの声、確か鈴の同級生の康博やすひろくんよね。ってことは、あの縄を作ったのは彼で、何か助けを求めてる……)


 おばさんが御霊舎みたまやの前に正座して待っている。今日も参列者は一人だけらしい。


「それでは、十月の月参りを執り行わせていただきます」


 手に持った大麻おおぬさを、さわさわと紙垂しでの音を立てながら胸の前に構えると、おばさんが一礼した。


 祓詞はらえことば大祓詞おおはらえのことばを奏上する間、二階の様子に耳を澄ませてみたが、物音は聞こえない。しかし、確かに気配を感じる。


 最後に四方祓をする。おばさんが平伏する中、東西南北の四方にそれぞれ、大麻おおぬさを振って場を清める。


 左、右、左。紙垂しでがシャッシャッという音を立てて空気を切るたびに、この家を覆っていたどんよりした気が祓われ、清浄さを取り戻す。これで少しでも、あの縄がまとっていた黒い靄が晴れればいいのだけれど。


「これを持ちまして、西園家十月の月参りを滞りなく執り行いました」


 ありがとうございます、とおばさんがお辞儀をする。

「いつきちゃん、どうぞこっちへ」


 立ち上がったおばさんが、襖を開けて、隣の座敷へと案内する。いつきは「ありがとうございます」と一礼し、狩衣を脱いで紙袋にしまい、来客用机の前に座る。


 しばらくすると、おばさんが謝礼を包んだ熨斗袋と、コーヒーとお菓子を持ってきてくれた。十分ほど世間話をするのが恒例になっている。ご近所の情報収集も大事な仕事なのだ。


 頂戴いたします、と言って謝礼を受け取る。勧められるままにコーヒーに口をつけ、渇いた口をうるおす。


「そういえば、玄関の花瓶が変わっていましたね。新作ですか?」


 淡いブルーに着色され、縁に花飾りのついた紙粘土製の花瓶は、かなり手の込んだものだろう。


「あら、気がついた? 自信作なのよ。紙粘土は乾いちゃう前に形を整えなきゃいけないから、時間勝負でね」


「いつもお上手ですよね。陶芸とかはされないんですか?」


「興味はあるんだけど、家をあけられないし」


「息子さん……康博くんは毎日大学ですか?」


 話好きなおばさんが、言いよどむ。

「え、ええ。大学には在籍してるんだけどね。……鈴ちゃんはお元気?」


 話をそらされた。

 ということは、大学には行かずに引きこもっているのかもしれない。二階から感じる気配は、彼のものだ。


「はい。大阪の大学に通ってます。通学が大変だってぼやいてますけど、毎日楽しいみたいで」


「鈴ちゃんはえらいわねぇ。高校でも成績よくて。赤点補習受けてたうちの康博とはえらい違い」


 小学生の頃は、康博と鈴はよく一緒に遊んでいた。思春期になると微妙に避け出したようだが、高校が同じこともあり、また普通に接するようになったはずだ。


「康博くんも頭よかったじゃないですか。妹がよく、数学の成績で負けたって言ってましたよ」


「あー……。あの子、理系だったのに、なぜか受験の時文系の学科を選択してね。好きな子でもいたのかしら。語学系の、なんだが難しそうな名前の学科だったけど、あんまり興味ないみたいで。一時は芸大に行きたいなんて言ってたから、それよりは就職先ありそうだけど」


 語学で思い出した。玄関のあの縄は、「キープ」ではないだろうか。


 文字を使わず縄の結び目で数を表すキープは、インカ帝国で使われていたものだ。沖縄でも、確か結縄けつじようという縄の結び目で、文字の代わりに記録を残していた。


 それ以上踏み込むことができず、世間話を続ける。「あらもう十二時」というおばさんの声を合図に、いつきは西園家を辞することにした。


 玄関で草履を履き、あいさつしようとしたとき、康博の声がした。


「助けて!」


 反射的に、いつきは紙袋を落とし、草履を脱いで再び家にあがった。

 廊下を走り、階段をかけあがる。のぼり切った手前のドアから、若い男性の気配がする。


「康博くん!」


 さすがに開けることはためらわれたので、何度もドアをノックする。


「あの……いつきちゃん?」


 後ろから、おばさんがおそるおそるといった感じで声をかけてくる。怪訝そうな表情が、こちらを見ている。


(しまった)


 あの「助けて」という声は、実際に発せられていない。康博の心の声だ。

 いつきがフィルターをはずしたままだったから、受信してしまったのだ。


 ドアが細く開く。


 隙間から、目が見えた。前髪に覆われた、うつろな目。


「何?」


 それでも、ドアを開けて声を発してくれるということは、まったく心を閉ざしているわけではないようだ。


「あ、その、ごめんなさい。空耳だったみたい」

 康博と、おばさんを交互に見る。


「助けて、って聞こえた気がして」


 ドアが、大きな音をたててバタンと閉まった。


「僕じゃないよ!」


 部屋の中から、物を投げる音が聞こえる。


「ご、ごめんなさい。私の聞き間違いだったの。失礼なことを言ってしまって」

 おろおろするいつきに、おばさんが暗い表情で言った。


「いいのよ、気にしないで。……まだお仕事あるんでしょ。うちはもういいから」


 促されて、再び玄関へと向かう。早く帰って欲しいという雰囲気が、棘のように刺さる。


 深々と頭を下げてもう一度詫び、いつきは西園家を辞した。


 自転車を押しながら歩いて振り返ると、家全体に黒い靄がおおい被さっていた。

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