003

 和彦の着替えやオモチャなどの入ったリュックを渡され、最寄りの牛頭畷駅まで送ってもらう。国鉄で京都方面に向かい、交野で京大電車に乗り換えて牧丘に戻るのだ。


 電車で帰るにあたり問題になったのがチョビだ。


 チョビは盲導犬などではないため、電車に同乗させることができない。小型犬ならまだしもチョビは平均的な体格のゴールデンレトリバーだ。チョビを連れていては改札で駅員に止められる。――それでも電車で牧丘に帰ると決めた理由は二つ。

 一つ目は、交野から牧丘市駅に向かう路線の電車に、機関車のアニメがプリントされているものがあること。車内の広告も全てそのアニメのキャラクター紹介などのため、和彦の年頃の子供なら喜ぶだろうと言う判断だ。

 二つ目は、佐藤家の周囲に茂る竹林に猪が出るため。実りの季節を過ぎて食料が減ったのだろう、数日に一度は餌を求めた猪が庭に現れるとか。襲われたらただでは済まないため市役所に罠の設置を頼んだが「住宅街には設置できません」と断られたそうだ。何のための罠なのだ。銃を使わないためではないのか。

 犬の匂いがすれば猪が近づいて来なくなる――と良いのだが。


 かくして、哀れチョビは牛頭畷で三日過ごすことになった。早苗の言うことには、猪との戦いが起きるかもしれないのでリードを繋がずに庭番をさせるのだとか。レベルアップしたとはいえ犬が猪に勝てるのか――走り回ったりフリスビーをキャッチしたりという平和な訓練でレベルが上がったチョビだ、野生で鍛えられた猪に勝てるとは思えない。賢治はチョビが無事であるよう祈った。これから三日、あの家に猪が出ませんように。


 国鉄で牛頭畷から京都に向かう電車は、快速だろうが普通だろうが各駅停車だ。十分で乗り換えの駅に着く。河内駅で京大電車に乗り換えるのだが、国鉄の駅と京大電車の駅は三百メートルほど離れており、和彦の歩く速さなら十分足らずの距離だ。運良く機関車ラッピングの車両に乗る事ができた和彦のテンションは高い。


「トマス! トマスだ!」

「トマスの電車だね。良かったねぇ和彦君」


 両親が和彦とにこにこおしゃべりしながら列車内を見て回る姿を横目に、賢治は和彦の服とオモチャでパンパンなリュックサックを肩から下ろし座席に座る。両親も荷物を持っているとはいえ、財布が入ったカバン以外にあるのは三日間和彦の面倒を見るお礼という名のお土産だ。中身は牛頭畷のモールで買ったらしきバウムクーヘン。

 通勤通学以外にはあまり人が乗らない路線かつ昼過ぎという時間帯だからだろう、同じ車両には賢治らのほかに三人しかいない。和彦の歓声と車掌の案内だけが響く電車に揺られ、終点で折り返し駅の牧丘市駅に着いた。ここで京都方面に乗り換え、各駅停車の電車で二駅乗れば実家の最寄りである牧野に着くのだ。


 牧丘駅ではダブルデッカーの特急に乗りたがる和彦をどうにか押さえ、準急に乗り牧野へ。


 駅から家までは自転車で十五分ほどの距離がある。子供には長い道だろうが、橋を渡り片丘神社の横を通りと景色が単調ではないため、和彦も飽きることなく歩けたようだ。道がほぼ平坦だったのも良かったのだろう。


 賢治の家の門扉横にある、縦横高さがそれぞれ五十センチ以上あるプランターには枇杷の木が植わっている。季節になれば甘い実が成るそれには、今は枯れた茶色い葉が多い。

 門扉から敷地に入れば左手には梅の木。右手にはキイチゴの一種である構苺カジイチゴが何本も伸びており、結実の季節には甘い実を楽しめる。その構苺の奥、道に面した庭の自転車置き場側には月桂樹が立派に育ち、構苺と月桂樹を繋ぐように何本かの常緑樹と大人の腰より高い岩が二つ。賢治から見れば広い庭ではないが、三歳児が遊べる広さは充分あるだろう。


 十年前に付け替えた門扉はところどころ被膜が剥がれているが、まだ新しい。門扉を締めれば微かにきしむ音をさせる。

 歓声を上げながら家に入って行く和彦、父、母、賢治の順で靴を脱ぎ、玄関から入ってすぐにある居間に和彦の荷物を下ろす。


「和彦君、おててとお顔洗って、ガラガラペーしようね」

「ガラガラペーしたらお茶飲もか。おい賢治、お茶淹れてくれんか」


 和彦や双葉に甘い両親は和彦の手を引き洗面所に向かった。賢治は三人のうがいの音を聞きながら台所で手を洗い、水を捨てコンセントを抜いていた給湯器に蛇口の水を注ぐ。洗面所はまだ空いていないので、台所と居間を繋ぐ引き戸の片側を塞ぐように置いてある食器棚から急須を二つと湯飲みを三つ、プラスチックのマグカップを一つ。居間の食器棚から茶こしと茶筒。


 三人が居間に戻って来たのと入れ替わりに洗面所に行き、顔を洗ってうがいをする。鏡に映るのは二重顎のデブだ。下の顎を揉めばたぷたぷと脂肪が揺れる。

 いつになれば、何をすればレベルが上がるのだろう。チョビは何度もレベルアップしているのに、賢治の顎は二重のままで腹回りも太い。


 このままでいいはずがない。人間の屑がジョブに目覚め、それが火魔法使いだったら――せめて両親を抱えて逃げられる程度にはなっておかねば、家も両親も無くしました、などという全く笑えない事になりかねないのだ。

 溜息を吐いた背中に、沸騰を知らせる電子音が届いた。


 うち二人が年寄りとはいえ、常に三人の大人が傍にいる状況が良かったのだろう。和彦を預かってからまだ一日だが、その間にオモチャの破壊が二回、金属製のスプーンを曲げること一回、階段の壁を突き破ること一回――色々と壊されている。有り難いことに今のところは物損だけで人的被害はない。なおスプーンはトンカチで伸ばして直し、階段の壁は段ボールで塞いだ。

 まだ充分住める状態だからとずるずる建て替えを延ばしてきたが、そろそろ建て替えた方が良いかもしれない。


 二日目の今日は天気が良い。昼食後の和彦は賢治と二人、二階のベランダで日向ぼっこだ。この家は古いが管理が簡単で、平屋根に毎年ペンキを塗り直し、十数年に一度家の壁を塗り替える程度の出費しかない。そのお陰と言うべきかそのせいでと言うべきか、建て替えが延期に次ぐ延期となった理由はこの維持管理の簡単さだ。

 平屋根はベランダの柵を越えれば簡単に出られるうえ、勾配がないため落ちる心配がなく、塗り替えは賢治や子供でもできる。二階部分の屋根は流石に脚立がなければ登れないが、一階の屋根同様に平屋根だ。


 長兄が中学時代にワンダーフォーゲル部所属だったため家の押し入れに押し込まれていたシュラフ――寝袋にはまりこみながら、賢治は空を見上げた。晴れ渡る冬の空に冷たい風。脂肪に包まれた頬は冷えきっている。

 グラシン紙一枚隔てたような色の青空から沸き上がる感傷は、衣類の防虫剤の匂いが台無しにしていた。


「ベランダ狭いねー」

「そうねー」


 仲良くミノムシになっている叔父と甥だが、同じものを見ても感じることは違うようだ。広々とした家に広い庭を備えている牛頭畷の家と比べれば、たいていの家のベランダは狭い。しかし一般的にはこの家のベランダは広い方だ。冬に五人分の布団を干しながらその日の洗濯物も干せるのは充分広い。

 生まれた時から千坪の敷地で暮らす和彦の感覚は一般からかけ離れている。独立し一人暮らしを始めた時には苦労することだろう。


「屋根行く!」

「屋根行くの? あいよ」


 まだ三歳という年齢にしては落ち着きがありきちんと報告ができる和彦を有難く思いながら、賢治はミノならぬシュラフを脱ぎ捨てる。とても寒い。


 だいぶ老朽化が進んだ屋根の上はゆっくり歩かねばならない――賢治が歩くと屋根がギシギシ悲鳴を上げるのだ。

 屋根の上を走り回るのかと思いきや、和彦は梅の木と構苺に挟まれた短い道を屋根の上からじいと見下ろしている。何か代わり映えするようなものがあるでなし、しゃがんでいる和彦を賢治はぼんやりと眺めた。多少の破壊行為はあったが故意によるものではなかったし、今日が終われば明日の夕方に早苗が迎えに来る。平和裏に和彦を返せそうだ。――そんな気の緩みが呼び込んだのだろうか。和彦の体が前に傾く。このままでは落ちる。


 賢治は慌てて手を伸ばす。だが手は宙を掴むだけで、子供の体が投げ出される。賢治の目にはそれがコマ送りに感じられた。落ちる。子供が。甥が。


「とべぇ!」


 無意識の叫びだった。賢治自身に向かって言ったのか、和彦に向かって言ったのかも分からない叫びだった。


 だが和彦はそれを指示だと受け取った。和彦の背中からダウンを突き破り伸びた翼が羽ばたき、小さい体を宙に舞わせる。ふわふわとダウンの羽毛が風に流され飛んでいき、まるで誘われるように近所のお宅の洗濯物に近寄ると貼り付いていく。とんだ迷惑行為だ。


 しかしその様子を賢治が見ることはなかった。そのとき賢治の四肢は突っ張っており、心臓は引き絞られるように痛んでいた。発光は瞬き二回の短い時間。四つん這いで荒い息を吐く賢治の顎周りは、少しすっきりしている。

 初めてのレベルアップ。ジョブに目覚めてから既に二週間、賢治はようやっとスタート地点に立った。


 賢治は万能感に包まれた。レベルアップしたとは自分は凄い。偉い。なにせ体重が二キロも減った。苦しい思いをした甲斐があった。

 しかし翌朝、早苗からの電話で目を剥くこととなった。夜のあいだにチョビが猪を倒したのだという。死闘を繰り広げた訳ではなさそうで、チョビは無傷らしい。


 五キロのダンベルを五回上げ下げしただけで疲れた賢治とチョビでは文字通りレベルが違うようだ。


「追い返してくれるだけで良かったんやけど……。びびったわほんま」

「まあチョビに怪我なくて良かったわ。あ、せや、猪肉あるんなら今晩ぼたん鍋にしたらどうや」

「あほか。田舎言うても猟友会の人が身近にいるわけでなし、こんなんうちらが捌けるわけあれへんやん。血抜きしよかなんて思えるような大きさとちゃうし……お墓作って埋めたらんとあかんわ」


 とりあえず賢治一人が電車で牛頭畷に向かい、駅まで迎えにきた早苗の車で佐藤家へ。


 十分近く上り坂を走り続けて着いた広い家。駐車スペースまで駆けてきたチョビを存分に撫でて満足した賢治は、斜面を上り――早苗の指差す方向を見た。転がっていた猪の体長は約1メートル50センチ。脂肪と筋肉に覆われた腹回りは太く、背の低い成人男性サイズの小錦と言い表すべき巨体だ。

 賢治は真顔になった。


「いやいやいや」


 賢治が想定していた被害猪ひがいししより倍は大きい。賢治は、これを無傷で倒したチョビにはもちろん、これが夜な夜な庭に現れる牛頭畷の住環境にも引いた。

 足元を見下ろせば見慣れた愛犬の姿。舌を出しながらハッハッと呼吸するゴールデンレトリバーの可愛い顔――あの巨大な獲物を狩った本犬には見えない。


「嘘やろ? やばいやろあのサイズ」

「嘘なら良かったのにね」


 文字通り、賢治とチョビはレベルが違った。五キロのダンベルで悲鳴を上げている賢治などチョビにかかれば即死だろう。

 表情を取り繕えない。賢治は呆然と立ち尽くした。


 賢治は理解した。自分はまだまだ底辺だ。たった一度のレベルアップで自信満々になっていたのが恥ずかしい。

 可哀想な猪の墓を掘るためスコップを握った賢治より、道具を使えないチョビの方が穴を掘るスピードが速い。レベル差というものはなるほど、こんな些細なところでも現れるのだ。


 賢治はため息を吐く。改めて、「現実」が賢治の心を揺さぶってならない――弱ければ、弱いままでは死ぬかもしれない。死ぬ可能性が大きい。

 せめて家族だけは。手の届く範囲にいる身内だけでも、危険から遠ざけなければならない。


 賢治は無職のニートだ。両親は月々三万渡すだけで炊事洗濯その他様々なことをしてくれるし、住み慣れた家の居心地は良い。早苗は少しうるさく可愛くない妹だが大切な身内で、甥や姪は可愛い。それを他人の悪意により奪われるなど……考えたくもない。


 猪の死体は、気が緩んできていた賢治の頬を張った。レベルを上げろ。強くなれ。

 でなければ、次に死ぬのは賢治か、賢治の身内なのだ。

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テイマーおじさん 南豊畝農 @14toshi

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