第9話 彷徨の青
この町は常に新しくなって、きっとあっという間に私のいた形跡さえ消してしまうんだろう。
どこか余所余所しい、変わらずにはいられない町だから。
きっとみんな私を忘れる。私も忘れていく。
なにも持っていけないし、なにも置いてはいけないからね。
運命は、信じていない。今も。
だから、誰かが言った「何かが私を蝕んでいる」なんてことで、こんな白い紙と名前で、私は定義されない。
だけど、「人生」は信じてた。私に何か期待している、私だけの人生を。
公園のベンチで私は泣いていた。涙は出なかったけれど確かに心が泣いていた。
いままで何もかもうまくいっていたことが、意味のなかったように灰色に見えてしまうときってあるでしょう?
当時は男の子みたいに短髪で、染めてもいなかったから、あなたは水族館で出会っても私のことを思い出さなかったでしょうね。
ずぶ濡れでベンチに座っていた私に何も言わず傘を差しだした、桜色のネクタイ。
あの日も公園には青や紫、ピンクの紫陽花が咲き誇っていた。
あなたが何者でも、何も成し遂げていないと嘆いていても、毎日を充実させようと苦しんでいても、誰かを妬んでいたとしても。
私には傘をさしてくれた、あなたが大切だってこと。
目に見える形が無くても、大多数から拍手をもらったわけじゃなくても、
紛れもなくあなたが私を助けてくれた、ということ。
少しでも動いてしまえば、水越しのあなたは私に気づいて歌を止めてしまうことを恐れて、水槽に片手をついたまま固まっていた。
桜色のネクタイが、ぼやけて魚の群れのあとに残ったのを見ていた。
私の水色のワンピースは水に溶けて、あなたから姿を隠していた。
アクリルガラスを挟んで声はしっかり届いていたよ。
思いがけずまた出会えたことと、
不安で荒々しい、誰のためでもない、あなただけの秘密の歌に胸が高鳴った。
曲作りに行き詰まるとき夜の水族館は避難場所だった。
「みんな」の求める私の音と、私の追いかけたい音が一致しないような気がし始めていたから。
承認欲求が満たされたのはほんの一瞬だけだった。居てもいいと許してもらえているようなその許可を感じることが今は怖い。
自分の歌が、偶然多くの人に聞かれるようになって、世界が突然変わった。
私にとっての音楽は少し商業的で、お菓子のパッケージによく似ている。
求められるもの、人が見て美味しそうなものを作る様になったから。
それでも変化は嫌いじゃない。それも一つの形だし。
水族館の余韻が、火照る身体が、音楽を止めてしまう前に。
帰り道のスニーカーの足取りは、段々軽くなって、駆けだしていた。
水槽越しのあなたの影は、消えてしまいそうで、私はまだあなたに此処へ来てほしかった。
なんとしてもこの世界に繋ぎとめておきたかった。
変わり者には変わり者の勇気が居るのよ。
変な子だって思われるのは慣れているけれど、
あなたのことを知りたいと思えば思うほど、近づくのが怖くもあった。
どうしてそんな泣きそうな顔をしているの?
あなたはとても優しい人なのに。
私たち、きっと似ているから、あなたにもこの世界の青を見せれば、この世界にとどめておけるかと思った。
だからスケッチブックを渡したの。それしか、色のあるものが無かったから。
音楽は私を表現する大事なものだったけれど、不思議とあなたには、空っぽの私を見て欲しいと思った。
自分でも驚くほど、私は我儘みたい。
差し出してくれたミルクティー、甘くて温かかった。
未来のあなたに言っておくね。
私たちには忘れる特権がある。
哀しいことでも悪いことでもなくて、前に進むために。
それは無くなるわけじゃないから、心の奥に、いつか向き合える時が来るまで、眠らせておく。
私が歌い始めたのは、生きることが怖かったから。
終わりが見えているのに、まるでそれがないかのようにその一日一日を歩んでいくなんて馬鹿みたいでしょ?
だからこの胸の重みを抱えて、明日が来ることが怖くて、寂しくて、歌に縋った。
私も私のために歌ったの。
「僕はいつも君に与えられてばかりだ」
そう言ったね。
そんなことない、気づいていないだけ。私があなたにどれだけ救われたか。
――「今」は変わっていくの、だから、失っていくことに、今あることが無くなって全部意味のないように感じてしまうこともあるけれど、怖がらなくて、良いんだよ。――
一生懸命探したけれどこれだけしか見つからなかった。それでもこの一言が言いたかったんだ、私自身にも。
小さな苦い絶望を飴玉のように口の中で転がすの。
できることならこの苦さも含めて、今を留めておきたい。
またあなたに出会えるように。
青の彷徨 瑞浪イオ @io-mizunami
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