第5話 青のかなた

待ち合わせ場所は、早朝のとあるビルの展望台。


 ふきぬけで、腰までのガラスの壁に身を任せ手を広げている彼女は、まるで何の支えもないように、空にただ一人立っていた。

 10月も最初の週までは夏日をいくつか残していたのに、11月に入ってからすっかり空気は変わってしまった。指に吹き抜ける風が冷たく、頭の芯を刺していくが、清々しい。


 澄んだ空気が街と空の境界を映し出していた。

 高いところは好きじゃない。昔から足が竦む。それよりも今は、かなたがどこか遠くに飛んで行ってしまいそうな気がして少し怖かった。

 羽もないのに。


『どうして僕を呼んだの』とは名波は聞かなかった。

 何故かはわからないけれど、彼女との関係は、はっきりと言葉にしたくは無かった。問いは先送りにして、まだ彼女を知りたかったから。


 早朝の東京の片隅は静かで、まだ眠っていた。--大半は。

 

 白い空。


 二人とも、まるで海の底の砂のように、空を仰いでいた。彼らは不思議と同じことを考えていた。その確信は、

「私たちも、海の生き物みたいに、空を泳げたらいいのに」

 とかなたが言ったからだ。

「海の生き物にとっては、私たちの方が下にいるのかもしれないでしょ? 私たちの正解なんて、大したことないのよ、きっと」

 返事は風に持っていかれた。


 彼女はギターを背負っていた。

「楽器、やるんだね」

「うん」


『僕もさ、やっていたんだよ』

 が口から出てこない。

『もうやめたんだけどさ』

 過去にしてしまうのも、過去にしがみつくのも、

『音楽じゃ食っていけないしさ』

 恰好悪い。

 諦めている自分も、まだ何も始まっていない自分も。

『誰も自分の歌を求めていないなら、僕は何のために生きればいい?』

 誰かに教えて欲しかった。


 かなたは空を見たままそれ以上なにも言わなかった。名波についても何も聞いてこなかった。否定も肯定も。それが彼にとっては心地よかった。

 代わりに、名波をある古書店へ連れて行くと言った。


 先導するかなたの後姿を切り取って、なんとなく、名波の田舎を背景に当てはめてみる。

 きっと彼女の青く染めた髪は、目立つだろう。

 軽やかに世界をスキップするような足取りも。

 今二人が歩いている街では少しくらい変わっていたって誰も気に留めやしない。

 誰も見ない。

 それが心地よくも、寂しくもあったりする。


 自分には「それ」しかないと思ってずっと打ち込んでいたことが、「食う」為には何の役にも立たないことだった、と身を持って知ったのがつい最近だが、全て意味のなかったことだと捨ててしまうには重い。

 今を受け入れて新しく始まりに戻るには歩みすぎてしまった。

 それでもそんなに不幸で無いから、感情の責任を誰にも何にも転嫁できないから困ってしまう。

 

 町中を歩くのは嫌いだ。

 みんなから認められた音楽しか流れていないから。耳にしたくない情報が溢れている。

 欠点を探して、つかの間の優越に浸りたいわけでもないのに。

 

 ほら。

 また『彼女』の曲が町中を流れた。いまでは毎日彼女の名を聞かない方が稀だ。

「この曲、どこでも流れているよね」

「――名波は、この曲、好き?」

「僕は音楽、好きじゃないんだ」

「でも、あの日、歌を歌ってた」

「正直に言うと、好きかどうかもよく分からないんだ。色々な感情が邪魔をするから」

「それ、ちょっとわかる気がする。私たちは毎日変わるもの。――あの日は、少し好きな気持ちだったのね、きっと」

「そうなのかな」

 ――君には言いたくない。情けないんだ。嫉妬が邪魔をするなんて。その感情の正体も良く分かっている。醜くて、汚いんだ。

 

 自分より、音楽が好きな誰かが今日もステージで求められる。

 どういう気持ちなんだろうな、世間と自分の需要が合っている、というのは。

 世界から自分の声が必要とされている、というのは。

 嫌だ、そんなこと、考えたくない。そこに努力も苦しみもあるのは知っている。


 重い眠りを引きずるような気の進まない名波の手をかなたは引っ張っていく。

 東京に住んで5年目になるけれど、神保町をちゃんと歩いたのは初めてだった。

 積み重ねられた本が店内にとどまらず、外にまで置かれている。

 足を止めずに通り過ぎる人々。雑多な景色。

 狭い路地を通り抜けて奥まった小さな古書店に入る。

「……本は苦手なんだ。会話のかみ合わない人とひたすらしゃべってる感じでさ」

「そう? 私は大好き。特にこんなの」

 指を泳がせながら選んだ一冊には、いつかの購入者が見開きの一番初めのページに、買った場所と日付と名前を書いていた。

 かなたは有名な人のものでもない、ただの名前を指で大切そうになぞる。

「どこのだれか、今生きているかも分からない誰かが居た証。この人がたどった文字を、今度は私が読むの」

 そう言って大切なもののように胸に抱えた。

 店の奥に居た店主のおじいさんは、かなたの友人の様で親し気に話しかけてきた。かなたが手に取った本に懐かしそうな笑みをこぼすと言った。

「この本は、私たちにとっては普通の本だけれど、国際情勢の影響で出版までに長い時間がかかったんだ。人気の無い意見は、誰も聞いてくれない時代だよ」

「それは、きっと今も変わらないけれどね」

 かなたはその本をおじいさんから買い取ると名波に渡した。

「普通も、常識も、良いも悪いも、好きも嫌いも多数も少数も、全部変わるの。この本が歩んできた時間みたいにね。すべてはただそこにあるだけだから。……ねえ、これ、読んだら私に返してね」

 

 彼女はまた名波に再会の魔法をかけた。

 

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