第4話 青と芳香
彼らは水槽の前に置かれたベンチに座っていた。
彼女の名前はかなた、と言った。
「男の子みたいな名前だね」口をついて出た。女の子には失礼だったか。
案外彼女は得意そうに、
「どこにでも行けそうな名前でしょ」と言った。
まるで名波とは長年の友人であるかのように、かなたは思いついたことをぽんぽんと口に出す。最近覚えた魚の名前や、この水族館の飼育員さんと仲良くなったこと。
名波もいつの間にかかなたのペースに乗せられて、彼女の表情や言葉を楽しんでいた。
案外お互いを知らないから、この先が二人にあることすら考えていなかったから、思った言葉を素直に伝えられたのかもしれない。
だから、あんなに大切そうに抱えていた黒いスケッチブックを、置いて行ってしまったかなたには少し面食らった。そのまま少し待ってみたが戻ってくる気配もない。
名波は戸惑いながらも1ページ目をめくった。もしかしたら、住所とか、彼女の手掛かりが描いてあるかもしれない。
凄く上手い、というより、子供のピアノの発表会のように一生懸命に拙い印象だが、細かく色を重ねて、光をかき集めているように、一線一線大切に描かれていたのは塀の上の猫や水溜、白い部屋、小さい神社。どんな街にでもありそうな、終わっていった夏が描き溜められていた。
――この東京には、「東京にしかないもの」なんて存在しないように思えた。
パラパラとめくっていると、見知った風景を見つけた。
近所の喫茶店だ。
名波が運命なんか信じないから、彼女がそこに居るわけも無かった。
紅茶を頼んで店内の雰囲気を味わっていると、黒いスケッチブックを見て気が付いたのか一見渋い顔の口ひげを生やした店主は名波にもう少し待っているよう伝えた。
じきに慣れた様子でかなたはウインドチャイムを鳴らしてやってきた。
バラ色に染まった上気する頬、瞳は期待に満ちている。
彼女はピンク・レモネードを飲んだ。もう10月も後半で、寒くないか、と聞く名波に
「まだ夏に終わって欲しくないの」
と言った。
「もう秋だと思うけど」
「そう。もう秋、ね。……残念。うまくいくと思ったんだけどな。タイムワープは失敗したみたい」冗談とも、本気とも取れない神妙な表情だ。
「……冬が嫌いなの? 僕は冬のほうが好きだけどな」
「ときどき、たまに、時が止まって欲しいと思うことがあるの」。
窓の外を通る人々を展示物のように眺め始めた。
「これ返すよ、忘れていっただろ」
名波が忘れないうちに、とスケッチブックを差し出す。彼女は受け取ると、いたずらに口の端を上げてページをパラパラと捲った。そして何か書きだした。
「このノートにおまじないをかけたの。叶えるのは、あなた」
――ノートには、色鉛筆で、日付と場所が約束されていた。
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