第3話 朝
さらりと頬に涼やかな風が当たって、イレアナは目を覚ます。
随分長い間眠っていたような、一瞬だったような、時間の感覚があいまいだ。
ともかく辺りはもうすっかり明るくなっている。身支度をしなければ、となんとなく焦って身を起こした瞬間、声がかかった。
「起きたのか。顔色は……まあまあだな」
「貴方は……フェルディ?」
「ああ、そうか、自己紹介がまだだったな。俺はフェルディ。フェルディ・フェンリル。人狼の森のフェンリル群の生まれ育ちだ。今はこうして帝都でお坊ちゃんの護衛やら、街の警らなんかをしてるんだが」
「人狼?」
「ああ。姿を見たいか?」
やや日に焼けた濃い色の肌に、青空のように澄んだ瞳。
体は大きいが身のこなしは軽く、俊敏な獣を連想させる。
彼が狼に転じたら、きっと大きく逞しく、それは立派な獣になるのだろう。
想像だけにとどめて、イレアナは首を横に振った。
「窓を、開けてくれたのは貴方?」
レースのカーテンが穏やかに揺れている。
朝露を含んだ涼やかな風が肌に心地よい。
だがふと、イレアナは苦笑して「そんなわけないわね」と一人呟いた。
ハイランズ家がどういう家柄かは思い出せないが、身なりや立ち振る舞いからしてハーヴェイは明らかに貴族階級の人間だ。
人狼だと言うフェルディの階級はわからないが、彼も立派な軍服、或いは制服を着ているところから見るに、世話を焼かれる立場の人間だろう。思い返せば昨日、フェルディは廊下に控えていた侍女に花を持ってきてもらっていたではないか。
だが、それにしては随分静かな気がして。
「いや、俺だ。メイドとか下働きの奴らは、しばらく暇を出させてもらったんだ」
「えっ」
「お前のことを漏らされるとちょっとヤバいからな。でもちゃんと給料は出してるから、あっちにも損はないし、生活の心配はいらない。だから大丈夫だ。あ、いや、俺たちが自分で自分のことをやらなきゃいけないって問題はあるけど、まあ、俺とあんたは大丈夫、だろ?」
自分がここにいることは、どうやら秘密にしておきたいか、ともかく、知れてはいけないことのようだ。
でも、突然解雇されたわけではなく、きちんと生活ができるよう保障されていると聞いてほっとする。
フェルディの問いにこくりと頷いて、イレアナは辺りを見回した。
「ここは……別荘か、何か?」
よく手入れされ、清潔にされた広い部屋ではあるし、家具は上質なものがそろっているのがわかる。
だがここには、調度品と呼ぶべきものがほとんどない。
貴族の本邸だとすれば、常日頃から使われることがなくても、それぞれの部屋には家柄と格に相応しい調度品や装飾で飾るものである。
別荘と言うにも少し殺風景な気はするが、最近借りたばかりならば物が整っていなくてもおかしくはない。
「惜しいな。ここは秘密基地だ」
「秘密基地?」
にやり、とまるで悪戯をする少年のような笑みを見せて、フェルディはベッド近くの椅子に腰を下ろす。
「あー、じゃあまずはこの屋敷と俺が仕える坊ちゃんの事から話そうか」
「ハーヴェイ……えっと、ハイランズ卿ね?」
鮮やかな金髪に藍色のコートを纏った紳士のことを思い出す。
「当たり」とフェルディは頷いた。
「でもまだあいつは当主じゃないから、ナントカ子爵だか伯爵だかそんなんだけどな。まあそういう細かいことは置いといて、だ」
高名な家柄では、爵位を重複して持つことが多い。
当主は基本的に、最も高い爵位を名乗り、相続権を持つ子供たちが残りの爵位を名乗るのだ。
昨日はそこまでの紹介はされていない。フェルディは「気にすんな。あいつのことはハーヴェイでいいから」と笑って続ける。
「ハイランズ侯爵家の現当主は女王のご学友でな。侯爵夫人も女王の個人的な友人として名が知れている。あいつはそんな家の嫡男のくせに、未だにつがいも持たず街をプラプラしている放蕩息子だ」
「放蕩……」
庶民には決して得られぬ高い地位と、恵まれた財産。だがそれを持つがゆえに、貴族にはまた特別な役割が与えられている。
領地の円滑な運営であったり、従軍であったり、議員であったり。その家ごとに役割は様々だが、それをこなさず遊び歩いている者はたいてい「放蕩者」と呼ばれて、社交界のうわさの的になるのだ。
イレアナはなぜかじくじくと痛み始めた胸をそっと抑えた。物理的な痛みではなく、おそらくは精神的な痛み、あるいは不安だろうか。だが理由がわからず、ごまかすようにため息をついて。
「まあ確かにプラプラしてはいるけどな、女遊びはしないというかできないタイプだし、根は真面目なお坊ちゃんなんだ。プラプラしてるのも、半分は本人の意志じゃない」
「半分?」
「まあその辺はそのうちな。ともかくそういうわけで、ハーヴェイ坊ちゃんには街でぷらぷらするための隠れ家がいる。そのひとつがここだ」
「彼は、あまり贅沢を好まない方なのかしら?」
「まあ、そうだな。必要でなければあんま興味ないみたいだ。まあ、ここは隠れ家だからな。殺風景なほうがそれっぽくていいだろ?」
「そうね」
にっと笑って見せるフェルディにつられて、イレアナも小さく微笑んだ。
隠れ家らしい、という以上に、このくらい殺風景な方が落ち着く気がする、とイレアナは思う。
「まあもともと、ここに務めてるのは守秘義務を守れるようなやつらを選んでたんだけどな。知られちゃ困ることもそれなりにあるし」
「困るようなことをしているの?」
「ああ。でも悪いことじゃあない。女王命令なんだ」
「女王、陛下の……?」
帝国を支配する、偉大な王。今は女王で――それ以上のことを、イレアナは思い出せない。だが、女王の命令で動いているというからには、何か重大な任務が与えられているのだろう。
「ハイランズ卿がプラプラしているのも、女王陛下の……?」
「そこは秘密なんだ。悪いな」
ほとんど答えを言っているようなものじゃない、と苦笑しつつイレアナは頷いた。
フェルディはあっさりと秘密を打ち明けているが、そもそもイレアナにはその秘密を漏らす相手がいない。
「ともかく、ここにはもう俺とハーヴェイしか来ない。食べ物なんかの荷物を運んでもらうときも、あんたは姿を隠していてくれ。応対は俺がする。ハーヴェイも、実は出入りしてるのをあんま見られないようにしてるんだ。ここは名目上は、俺の巣ってことになってるからな。だからそもそも来客なんてめったにないと思うが、万が一来たとしても絶対に出ないでくれ。最悪そいつが乗り込んで来たら、どっかに隠れていてほしい」
「わかったわ。クローゼットの中、あたりで大丈夫かしら?」
質の良い家具こそ揃えられているが、必要最低限の物があるだけなので、人間一人が隠れられそうな場所と言ったら、クローゼットくらいしかない。
フェルディは「そうだな、」と小さな唸り声をあげてあたりを見回した。
「主寝室まで行くと隠し部屋があるんだが、ここからだと少し遠いか……。まあそこは相談しておく。つうわけで、一通り屋敷の中と設備の説明だけしとくか。それがわかれば、大丈夫だろうしな」
うんうん、と一人頷くフェルディは、イレアナのことをよく知っているようだ。
自分の身の回りのことが一通りできる、となると、自分は中流階級の人間だったのだろうか。
問いかけてみるとフェルディは「まさか!」と笑って。
「あんたは貴族の中の貴族だよ。確かに俺にとってはよく働く中流階級のマダムって感じだけどな」
「貴族なのに?」
「ああ。っていうか俺、あんたが貴族してた時のことは知らないんだ。たぶんそっちが、あんたの本来の姿だとは思うが」
「私の、本来の姿?」
くしゃり、と短く切りそろえた前髪を後ろに撫でつける仕草をして、フェルディは一度息をついた。
「どこから話すべきか……」そう呟く横顔が、かすかに曇る。
「あんたが長い眠りにつく前は、俺たちフェンリル群の巣に近い町の屋敷に住んでたんだ。そこもメイドなんかはあまりいなかったし、できることは自分でやるってあんたは言ってた。料理や庭いじりをしているところを、俺も見てる。あんたが焼いたクッキーも貰った」
「……」
「色々あって、まあこの辺もそのうち落ち着いたら話そうと思ってるんだが、ともかくあんたは長い眠りにつくことになった。でもその前、俺たちフェンリル群の命を救ってくれたんだ。巣の近くの森に「枯れ」って現象が起きてな」
「その「枯れ」について、聞いてもいい?」
「ああ。「枯れ」は文字通り、森が枯れる災厄だ。海から来た姿の見えない魔物に土地が侵されるとそうなっちまうらしい。そのせいで俺たちは飢え死に寸前で、病気まで流行っちまった。けど、あんたが食料と薬を与えてくれて、そのおかげでなんとか立ち直ったんだ」
「そうだったの……」
以来、俺たちフェンリル群はあんたを友として、長い眠りの間その身を守ると誓った。もちろん、起きた今もな。
フェルディはにかりと笑った。
「記憶がないのはやばいと思ったけど、習慣なんかは忘れたわけじゃないみたいだな。俺のことも、ちょっとは覚えてる」
「え?」
「俺と話すときのあんたの口調、ハーヴェイの時よりもずっと楽になってる。昔とおんなじだ」
懐かしげに目を細めたその仕草に、何故だか胸が切なくなる。
だが、悲しいのは彼の方だろう。打ち解けて話せるほどの仲の相手に、忘れられてしまったのだから。
イレアナは思わず「ごめんなさい」と謝罪した。
フェルディは「なんで謝るんだよ」とまた笑って。
「まあ、あんな状態からそこまで治っただけでも十分だろ。ええと、で、どこまで話したっけ?」
「フェンリルぐん?が、立ち直ったところまでよ」
「ああ、そうだ。フェンリル群ってのは、俺たちの群れのことな。で、あんたの群れ……いや、屋敷は本当はここ、帝都にあるんだ。本邸は別だって言ってたけど」
「邸宅と本邸があるなら、それなりの貴族だったのね」
「ああ、それもただの貴族じゃないし、夫人とかそんなんでもないぜ。あんたは帝都の吸血種すべての長であり、それらを統治するクリステア家の当主なんだ」
「えっ?」
国主が時折女王になることもあって、帝都は女性の当主には寛容だ。大抵は男性が家を引き継ぐが、事情があれば当然女性も家を継ぐことができる。
だから、当主であるということはそう驚くことでもない。だが。
「当主なら、家を守らなくてはいけないんじゃないの? 貴方たちの群れの森も、領地だった?」
「いや、あそこは別のやつの領地だ。森は俺たちのだけどな。でもまあ、ほら、色々あってな」
「……」
難しい話なのだろうか、フェルディは視線をはずして窓の外に目をやった。
イレアナはただ、不安に揺れる心を鎮めるように胸のあたりで手を握る。
事情はあれど、家を守るべき当主が邸宅を離れてはならない、はずだ。守られない家は、そこに住まう人々はどうなっているのだろうと、不安が募る。
家族の顔さえ、思い出すことができないのに。
「でも、今は後継者であるアンタの甥っ子が当主代理を務めてる。だから家の方は大丈夫だ」
「当主代理? 何故、私は次の当主を指名しないまま、こんなことに……?」
「まあそこも色々あってな。ともかく、クリステア家の当主は、吸血種を生み出す特別な牙を持っている。それを継承しない限り当主にはなれないし、それ以外にも特別なしがらみがあるみたいだ」
ふとフェルディの顔に影が差す。あまりいい話ではなさそうだが、自分の事なのだから知らなければならない。当主という重要な役割を投げ出し、後継者に引き継ぐこともなく帝都を離れたと言うのならひどい「放蕩者」だ。先ほど胸が痛んだのはこのせいなのだろうか。
「おいおいな、ちゃんと話すから。いっぺんに話しても頭がこんがらがるだろ? 今は何故あんたが目覚めたのかってことを調べるのが先だ。俺たち人狼もクリステア家も、あんたを起こすつもりはなかった。少なくとも、今のタイミングではないと思っていた」
「でも、私は誰かに起こされて……」
「ああ。だからそいつが何の目的であんたを起こしたのか調べなきゃいけない。何かに利用しようとしたのか、何のために利用しようとしたのか。少なくとも尻尾を掴めるまでは、悪いがあんたはここから出ないでくれ」
「それは構わないわ。むしろ、迷惑をかけてごめんなさい。私、ずっと眠っていた方がよかったわね」
いつから、どのぐらい眠っていたのかさえ、定かではない。だが、目を覚ますべきでなかったのは間違いないだろう。
イレアナは深いため息をついた。
「私に協力できることがあったら、何でもします」
「当面ここで普通に生活してくれるだけで十分だよ。ああそうだ、台所に摘んでおいた花があるから、朝飯はそれを食べてくれ。着替えはそこのクローゼット、それ以外の小物はドレッサーのところだな。ノートやペンはそっちの机のところに用意したが、他に必要なものがあったら言ってくれ」
「ありがとう」
指で示しながら言うフェルディにこくこく頷いて、イレアナは今日すべきことを整理する。まずは着替えて食事をする。屋敷の中を少し探索して把握しておいた方がいいだろう。
「って、話してたらもうこんな時間か! 悪い、案内は次だ」
部屋の掛け時計を見て慌てるフェルディに、イレアナは「いつでも大丈夫」と頷いて見せた。
「なんなら戻ってくるまでまた眠っているわ」と冗談めかして言うと、彼は「外に出ないなら一人で見て歩いても大丈夫だ」と笑い返す。
「俺はいったん出かけるけど、たぶん夜には戻る。ああ、そうだ、これを読んどけば一通り世情がわかるだろ。わからないことがあったら聞いてくれ」
「新聞ね! ありがとう」
渡された紙の束――新聞に、イレアナは早速視線を落とす。
一面を飾るのは「奇蹟の聖女、ダウンタウンに降臨す」という見出しだ。
片隅に「北方の吸血王族、滅亡か」という気になる記事もある。
「吸血王族……クリステア家の他にも、吸血種がいるのね?」
「ああ。そうだ、帝国史なんかの本なら、書斎にあるはずだ。気になるならそこを調べてみるといい。眠くなるから俺はあんま入らないけどな」
冗談めかして言うフェルディに、イレアナは思わずくすりと笑った。
やることは山ほどある。
フェルディを見送ると、イレアナは早速クローゼットを開けて着替えを済ませ、自分でも驚くほどスムーズに朝の支度を終えた。
そうして屋敷内を探索しつつ台所に行ってみると……。
「まあ、」
昨晩、或いは今朝使ったままの食器が、シンクの中に放置されている。
切ったパンくずも台の上にそのままだ。ひどい汚れが見当たらないのは、昨晩まで侍女たちが綺麗にしてくれていたからだろう。
「よしっ」
腕まくりをして気合いを入れる。新聞記事も書斎の本も気になるが、まずは掃除だ。それから料理!
調理台に置かれていた花を摘まんで自分の食事を簡単に済ませると、イレアナはすぐさま掃除に取り掛かった。
従者が厳かに扉を開くと、細身の淑女が静かに、しかし堂々たる足取りでやってくる。
ハーヴェイはすぐさま立ち上がり、臣下の礼を取った。
女性――帝国の王にして偉大な民の母、アン女王はゆったりと自席に腰を下ろすとハーヴェイにも座るように声を掛ける。
「話を聞かせてちょうだい」
ハイランズ家の当主夫婦は女王の幼馴染だ。知己の存在で、互いに気心知れているし、お忍びで何度も屋敷に遊びに来たこともある。
子供のいない女王にとってハーヴェイは甥っ子か何か、身内に近い感情を抱いているらしい。
堂々たる女王の振る舞いや威厳のある空気を幾分か緩め、優しく穏やかに、そして特別親しげに声を掛けてくる彼女を見るたび、ハーヴェイはなんだかくすぐったい気持ちになる。
「フェンリル群の森ですが、枯れはわずかに侵攻しておりました。正直、一刻も早い処置が必要、という状況ではありませんが、できるだけ早く対処するに越したことはないでしょう。それ以外は、平時と変わらず。人狼の子が二人、生まれておりましたが」
もしイレアナを目覚めさせたのが女王だとしたら、何か反応があるはずだ。
ハーヴェイは言葉を切って、反応をうかがった。
だが彼女は「そう、子が生まれているのは良い事ね」と言い、含みのある視線をよこすこともなければ、探ってくる様子もない。
ならば――ハーヴェイは続けた。
「クリステア家にも、もうすぐ子が生まれるそうだと言う話はお耳にしておられますか?」
「ああ、そうだったわね。当代からあの家は男児が子を、女児が家を引き継ぐことになったのでしょう? 子がきちんとクリステア家の血を継いでいればいいのだけれど。わたくしは以前の通り女児が子を産み、男児が家を引き継ぐ方がいいと思っているのよ。そのほうが血統がはっきりするもの。もっともわたくしの言葉を聞き入れる当代は、この場にはおりませんけれど」
どこか拗ねたような女王の言い分。
どうやら彼女がイレアナを起こしたわけではなさそうだ、とハーヴェイは判断した。
そもそも、女王がイレアナを起こす必要がない。
フェルディは「新しい跡継ぎが生まれんだから、今の当主代理に牙を譲ってやれっていうことじゃないのか?」と勘繰っていたが、クリステア家の当主が代替わりするのは帝国の王が代替わりするときと決まっている。
先代も、先々代もそうだった。吸血種は不老長寿。だが王家への忠誠を示すため、あえて人間である国主に合わせて代替わりを行い、引退した当主は田舎の領地で静かに暮らすという暗黙の決まりがある。
だから女王はイレアナが失踪してもそのままでいさせているのだ。
そして女王はまだまだ、代替わりなどする気はない。
「ところで、ハイグローブ卿はどちらへ? 最近姿を見ておりませんが……」
「さあ、わたくしも知りません。顔を見せずに、まったくどこにいるのかしら」
アルバート・ハイグローブは女王の弟だ。
だが女王はそっけない様子で言い「本当の放蕩者は誰かしらね」なんて呟いている。
ハーヴェイは顔をしかめた。
女王には子がいない。本人は健康で、まだまだ王であり続ける体力も気力もあるが、万が一ということもある。そうなれば次の王になるのは、弟であるアルバートだ。
だが王位継承第一位の座にある彼がどこで何をしているかさえ知らないなんて、と驚いていると。
「人狼の森の件については、お前が心配することはありません。海の魔物を払う王族の力を持つのは、私だけではありませんからね。私がほんの少し森が遠いからと足踏みしているのでは、なんて考えているのなら、安心しておきなさいとお前の従僕に伝えておきなさい。必ずお前の森を助けてさしあげると、この女王が約束していたと」
「御意」
「報告は以上ね? では次に会うのは――テニスの大会にはお前は来ないのでしょう? 放蕩者だものねえ。ちょうど大会の頃に完成する温室付き公園でもふらつくに違いないわ」
帝国きっての名家、かつ、女王に近しい者として、両者の名に泥を塗らぬよう、ハーヴェイは幼いころから様々な勉強をしてきた。
社交関連のものはもちろん、歴史、教養、文学、言語、科学。貴族同士の腹の探り合いや、くだらない噂、悪意の類は好きではなかったが、それでもきらびやかな社交界で自身の知識を駆使して会話をすること、それによって認められることは嫌いではなかった。
しかし。
お前はもう、パーティに出る必要はありません。十回に一回程度にしておきなさい。その代わり、街に出るように。公園やカフェだけでなく、下町や、とにかく人の集まるところに行くのですよ。そして色々な話を聞いてきなさい。もちろん、護衛をつけましょう。
貴方は今日から「社交を嫌って行きたい場所へと好き勝手に歩き回る、放蕩者」になるのです。
ある日突然そう告げられ、そして聞いた話を女王に報告するのが役目だと聞かされた。
以来ハーヴェイはずっと、女王が望む通りの「放蕩息子」を演じている。
優雅さよりも無骨さの勝る人狼を昼夜問わず引き連れ、紳士たちが集まるお上品なクラブではなく、フィドルがやかましい飲み屋に通い、上流よりも中流の働く女性と親しくして、玉座からでは知れない最先端の情報を仕入れるのだ。
女王の口ぶりからするに、次は件の温室に向かってほしいらしい。ハーヴェイはパーティで女性をダンスに誘う優しい笑顔ではなく、いかにも放蕩者風の野性味あふれる笑いかた――フェルディを参考にしたなんて、本人の前では口が裂けても言えない――をしてみせた。
「そうですね。一度帰ったところで、従僕も草木が恋しくなったかもしれません。散歩にはちょうどよさそうだ」
「ええ、そうでしょうとも。ああ、でも、教会に近づいてはだめよ。寄付をしたり、慈善事業をするのはいいけれど。近づいてはだめ」
「聖女のことを、気にかけておられるのですか?」
「……わたくしが気にかけるのは、この国と、民のことです」
「失礼いたしました」
貴族と庶民の格差が公に取りざたされるようになって、もう何十年もたつ。
貴族に搾取され、働けども貧しいばかりか、満足な医療さえ受けられず喘ぐ庶民たちをどうにかしようと、女王はこれまで様々な政策を施してきた。
おかげで庶民の労働環境は格段に良くなり、かつてのように死ぬまで働かされることはなくなったが、医療の面では、まだまだ手が及んでいない。
一方の教会は、女王が庶民のための政策をするべく貴族たちを懐柔していた頃から、庶民に手を差し伸べていた。
積もり積もって現在では庶民の多くが教会に心を寄せており――女王は民の心が王室から離れることを懸念している。貴族と庶民が対立することも。
「また話を聞かせて頂戴」
「御意」
「ああ、それから、ヴィー」
立ち上がり、扉へと向かう。従者が厳かに開いたその前で、女王は足を止めて振り返った。
ハーヴェイは立ち上がって頭を下げたままの状態で、肩をピクリと震わせる。
幼いころから変わらぬ愛称で呼ばれると、むずむずするのだ。そして恥ずかしい。だが女王にやめてくれと言うほどの度胸もなく。
「わたくしはいつでも大丈夫ですから、もし紹介したい女性がいるのならば、速やかに連絡するように」
「はい」
要は早く結婚しろと言っているのだ。
世間的にはパーティにも出ず遊び歩く放蕩者、実際は女王の密命を受ける存在でありながら、結婚相手を探せなんて――面倒すぎる。
扉が閉じると同時に顔を上げて、ハーヴェイは長いため息をついた。
脳裏にイレアナの顔がちらつく。
記憶を失ったクリステア家当主と結婚したい、なんて言ったら、女王はどんな反応をするだろうか。
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