第2話 目覚め

 長い長い眠りに揺蕩い、意識が浮上しかけるたび、イレアナは目を覚ますことなく再び深く深く眠りに落ちた。目覚めたくない、というわけではない。

 ただ、冷たくも静かで心地よいこの眠りを、いつまでも続けたい。眠り続けていたいという気持ちが強かったのだ。

 どうしてここで眠っているのかはわからない。

 そもそもここがどこなのかさえイレアナは知らず、目を閉じたままなので自分が横たわる寝台はどんなものか、部屋の様子さえ知らなかった。

 

 けれど、それでいい。

 

 眠りは心地よく、目覚めは望まない。

 ずっと、ずうっと、このままでいい。そう思っていた。

 しかし。

 

 突然、何かがイレアナの頬に触れた。

 身をよじって抵抗すると、唇に触れられ、そこから熱い何かが入り込んでくる。

 拒絶しようとすると、恐ろしいほどの力で口を押さえつけられて。

 ごくり、と、何かが与えた得体の知れぬものを、嚥下させられた。

 瞬間。


 あれほど気怠く、夜の空気のように冷たく横たわるばかりだった体に熱が入る。

 体中を駆け巡るその熱に驚いて、思わず目を開け、体を起こした。

 見えたのは石造りの遺跡めいた建物内部。燭台に灯されたいくつかのろうそくだけでは、高い天井を照らしきらず、壁に下がる蔓性の植物とその影が静かに揺れている。

 格子窓の向こうに見えるのは、煌々と照る満月だ。

 そうして――


「行くぞ」


 声とともに手を差し出される。

 だが、その手の持ち主の顔も、体も、闇に紛れてわからない。

 けれど、その声は信頼できた。いや、むしろ何故か、手を引いてくれるのだ、と嬉しく思って。


「はい」


 かすれた声で答え、立ち上がって手を握る。

 それは今しがた熱を受け取ったばかりの自分よりもずっと冷たい。

 でも自分はその冷たさを知ることさえ、嬉しくて。


「あの、貴方は?」


 手を引かれ、歩く。だが依然として相手の手以外は見えず、問いかけに答えもない。

 夜でもなお瑞々しい植物が古い石造りの建物を覆うように茂る建物内を抜け、満月が照らす森にでも変わらないままだ。

 そうしてざくざくと道なき道を歩いているうちに、それは、唐突に消えた。

 まるであたりの闇に溶けてしまったように。


「道が……?」


 月明かりを頼りに、見えた道へと足を進める。

 随分と眠っていたせいか、足取りはおぼつかなく、歩みはひどくのろまだ。

 道に立つと、もうそれだけで息が上がって。

 道の向こう、暗闇の奥に輝く月明かり以外の、小さな光に気が付くと思わず気が抜けた。


「なっ……?!」


 ああ、この声も覚えている。そう思ったとたんに膝から崩れ落ち――意識を失ったのだろう。

 以後のことを、イレアナは覚えていない。ただ再び落ちた眠りの中、これまでとは違い明確な自分の意識を感じる。

 体がひどく重くて、指先を動かすのでさえ億劫だとか。

 そのうえひどく頭が痛むから、冷たいものでも飲んですっきりしたい、なんて思っていると。


「で、陛下からは?」


 不意に聞こえた男の声に、イレアナは驚いた。

 が、重い体は跳ねることもなく、ただ続く会話を聞き続けるだけ。


「それが、相変わらず何もない」

「何も?」

「いや、人狼の森はどうだったか報告せよというお言葉はあった。お前の危惧していた『枯れ』の状況はどうだ、とな」

「今回の訪問は『枯れ』の調査と確認のためだったってことか? それとも裏の意味が――」

「フェルディ、これは仮説だが、陛下も彼女が目覚めたことを、ご存知ないんじゃあないだろうか」

「なに? じゃあ一体誰がこいつを起こしたんだよ。何のために」


 彼らが話していることは耳に入ってくるが、それがどういう意味なのかは理解できない。

 声が、言葉が、右から左へと通り抜けていく。

 ああ、水。冷たい水が欲しい。イレアナは重い瞼を開けて、手を伸ばした。

 瞬間、二人の男が同時に彼女を見つめる。


「目が覚めたのか!」


 先に声を上げたのは紺色の上質なコートを纏った男だった。

 彼は嬉しそうにイレアナの手を握っている。

 一方、紫色の制服に身を包んだ男は傍らの丸テーブルに置かれていた水差しからグラスに水を注いで、イレアナへと差し出した。


「手を貸そう」


 紺色のコートの男がグラスを受け取り、それからイレアナの背に手を入れて上半身を起こす。

 イレアナはされるがまま、自身の口にもどかしいほどゆっくりと注がれる水を飲んだ。

 体の中に冷たさと心地よさが広がっていく。が、欲しいものが得られたはずなのに、物足りなさを感じる。

 もっと、もっと、欲しい。でも、それは水ではなくて――


「イレアナ、具合はどうだ?」


 紫色の制服の男が問う。イレアナは彼を呆然と見上げた。

 どうやら彼が言う「イレアナ」とは、自分の事らしい。だが、それに続くはずの家の名を、イレアナは思い出せない。

 それどころか自分がこれまでどうやって生きてきたのかも、なぜ眠り、目覚め、ここにいるのかも、わからない。


「あの、」

「フェルディ、無理をさせるな。もう少し眠りたいか? それとも、血を用意させようか?」

「血?」


 紫色の制服の男は「フェルディ」というらしい。だが名前を聞いても彼のことを何も思い出すことはできず、初対面、という感想しか出てこない。

 ただ紺色のコートの男に反芻して口にした「血」という言葉に、胸が熱くなる。

 男の首に目が行って仕方なく、口内に涎が湧いて、意味もなく唇を開けてしまう。

 でも血を飲むなんて、普通の行為ではないはずだ。最近はそういう医療が流行っているのだろうか?


「こいつはあんま血が好きじゃねえんだ。ここの無駄に広い庭で、一番新鮮ででかくて活きがいい花をいくつか持ってきてくれ」

「花?」


 フェルディが紺色のコートの男に指示を出す。

 が、どうして「血」の次が「花」なのだろう。

 『人間』は野菜や果物は食べるが、花は食べないはずだし、血もそうだ。

 記憶はないが、なんとなく世間の常識や生活の仕方というものは覚えている。

 自分が寝ているのがベッドというものだとか、視界の端で風に揺れているのがカーテンだとか、目の前の人間二人が男で自分は女であることだとか。

 けれど、それらは全部自分の勝手な思い込みで、自分の名前や過去同様、忘れているだけなのだろうか。

 イレアナは混乱しながらも、彼らに問うた。


「あの、どうして血や花なんですか? 私は普通の食事で構いません。ただとにかく喉が渇いて変なんですが、私は何かの病気ですか?」

「なに?」


 フェルディが顔をしかめる。構うわけあるか、と怒り顔で言って、彼は背中を向けた。そのまま部屋の出入り口に向かい、廊下で待機している侍女に何か言いつけている。

 紺色のコートの男はそばの椅子に腰かけ、こめかみのあたりに指を当てていたが、ふと思い立ったような顔をすると右手を差し出した。


「挨拶がまだだったな。私はハーヴェイ。ハイランズ家の嫡男だ」

「……あの、」

「どうすべきか忘れたのか? こういう場合は、名乗り返すのが礼儀だが」

「いえ、そうではなく……」


 名乗られたら名乗り返す、それが当たり前の常識だ、ということは理解している。

 抱えているのはそれ以前の問題だ。

 イレアナはおずおずとハーヴェイを見、口を開く。


「すみません、私……覚えていないんです。自分の名前も、貴方がたがどなたで、ここがどこなのかも」


 戻ってきたフェルディが、顔をしかめる。

 ハーヴェイは「やはりそうか」と頷いて、コートの懐から手帳を取り出した。


「我々……いや、森で馬車に出会ったことは? その前、起きた時に誰か傍にいなかったか?」

「馬車のことは、覚えています。起きた時は……誰かが私の口に何かを入れて、手を引いて……それから……森を歩いて……」

「誰かの姿は覚えているか? 性別や、何か特徴だけでもいい」

「手以外は、見えませんでした。とても暗くて、」


 長い長い眠りの影響か、未だに頭がぼうっとしている。

 だが自分が、求められる答えを得ていないことだけはわかって、イレアナは無意識に「ごめんなさい」と謝罪を口にしていた。

 瞬間、ハーヴェイは「気にしなくてもいい」と苦笑を浮かべて。


「貴方のことは、私が面倒を見る。貴方を目覚めさせたのが何者なのか、その目的が何なのか、調べさせてほしい。私には優秀な部下がいてね」

「……」


 ハーヴェイが部下だと紹介したフェルディは、複雑そうな顔でイレアナを見下ろしていた。が、そんな様子にイレアナが不安げな顔をすると、彼はパッと笑顔を見せる。


「ま、忘れちまったもんは仕方ねえよな。何せ五年近く眠ってたんだし。こいつはいい歳してつがいも見つけないでふらついてる野郎だけど、無駄に知識だけはあるし、あんたに色々教えるにはちょうどいいだろ。調査は俺に任せて、あんたはゆっくりしたらいい」

「早速だが、資材の調達を頼む」

「あ? 早すぎね?」

「急ぎ必要なものだ」

「まあいいけどよぉ」


 ハーヴェイは手早くメモを書き付けたページをちぎると、フェルディに渡す。

 同時に部屋のドアがノックされた。

 フェルディがドアに駆け寄って何かを話し、振り返ると、その腕には花束が抱かれている。


「野菜も果物も花も、採れたて新鮮が一番うまいって昔あんたが言ってたんだぜ」

「……」

「詳しいことは後からハーヴェイが話すが、あんたは吸血種だ。人間の血を吸うか、花や植物から生命力ってやつを吸い取らなきゃ死んじまう。だからこれは、あんたの食事だ」

「吸血種……?」

「とりあえず腹ごしらえしなきゃな。頭も働かねえよ」

「……」


 水差しの横に、どさりと花束が置かれる。

 色とりどりのユリやバラ、マーガレット……。

 美しいと思う先に、イレアナはそれらを「瑞々しい」と感じた。

 そうしてごくりと喉を鳴らし、ハーヴェイの首に惹かれたように、自然と手を伸ばす。

 指先でそっと触れると、白く瑞々しいユリのふっくらとした花弁はたちまち茶色く変色し、くたりとしおれて――やがて何日も砂漠に放置したようにカサカサになってしまった。

 それを悲しいと思う間もなく、イレアナの手はバラに伸びる。

 丁寧に棘が落とされたその硬く強い茎を掴んで、花弁に口づけるように顔を寄せた。

 芳醇なにおいを胸いっぱいに吸い込むようにして息をすると、水を口にした時よりもずっと幸福な満足感が得られて、心地いい。

 案の定、バラは枯れ、茶色くかさついた何かになってしまったが。


「ごめんなさい、急に眠気が……」

「具合が悪いのか?!」

「腹いっぱいになったから眠くなったんだろ。ドアのところに侍女がいるから、起きたら声かけてくれよな」

「……はい」


 心地よい眠気に従って目を閉じる刹那、安堵したようにほっと息をつくハーヴェイの姿が見えて、イレアナは思わず微笑んだ。

 私のことを心配してくれるなんて、きっと良い人なのだわ。

 そんな感想を抱きながら、眠りに落ちる。






「どういうつもりだ?」


 イレアナの眠りを見届け、男二人で部屋を出るなり、フェルディはそう問い詰めた。


「言っただろう、彼女を目覚めさせたのは何者なのか、目的は何なのか、調べる必要がある。記憶が完全に失われているのか、或いは長い眠りで忘れているだけなのかはわからないが、この状態で放り出す訳にもいかんだろう」


 さらりと言いながら書斎に向かって歩くハーヴェイの瞳に宿る、熱病にも似た輝き。

 それを認めながらフェルディもまた、淡々と返す。


「ならクリステア家に返せばいい」


 ハーヴェイが足を止め、振り返る。 

 自分を睨みつけるような――いや、拗ねる直前の子供のような視線に、嫌な予感がする、とフェルディは牙で上唇を噛んだ。

 人狼は特別勘に優れる、というわけではないが、こういう時の勘というのは、残念ながら当たるものだ。

 案の定。


「フェルディ」

「なんだよ」

「人間が、吸血種の女性を娶ったと言う話はあるか?」

「……聞いたことがないし、絶対に止めといたほうがいい、って進言させてもらうぜ。護衛としても、部下としても、ダチとしてもな」

「自分でも予想外なのだが」

「あ?」

「どうやら私は反対されるとムキになる性質のようだ」


 あー!と叫びだしたいのを堪えてフェルディは己の髪を掻きむしる。

 普段は聞き分けのいいおぼっちゃん、だが頑固な時は相当頑固で、何分生まれながらにそこそこ高い身分にいるから気位も高い。

 これはいよいよまずいな、と思いつつ、とりあえず反対するのはやめておこうと心して。

 

「女王陛下と両親が決めたしかるべき人、或いは両者に認められるような女性と結婚しなければならない、って自分で言ってたじゃねえか」

「そうだな。だが、私はこんな感情を初めて知ったんだ。どうしようもなく傍にいたい。彼女を守りたい。そうしなければならないと、心の底から衝動が湧き上がってくる」

「初恋は叶わないもんだ、ってのは人間の言葉だろ?」

「惚れた相手と冬前のエサは逃がすな、というのが人狼の言葉ではなかったか?」


 ふっと笑っていうハーヴェイは、今日ばかりは憎たらしい。

 フェルディが顔をしかめると、彼はいつも通りのポーカーフェイスを取り戻して、歩みを再開する。


「彼女は子供のようなものだ。このまま放り出すことはできない。失った記憶の代わりに十分な知識を与え、彼女自身が自分のことを正しく判断できるようになるまでは、私が匿う。悪いがフェルディ、お前はまずクリステア家が彼女にとって安全な場所か調べてくれ」

「クリステア家が安全だとわかったら、帰すんだな?」

「彼女がそう望むのならな」


 ターコイズの瞳が、力強く輝いている。恋に落ちただけではない意志をそこに見て、フェルディはため息をついた。

 彼の恋はおそらく叶わないだろうが、真面目でめったに我儘を言わない友人の珍しい我儘なのだから、せめて思うようにさせてやりたい。相手の意志を無視してまで手籠めにするようなヤツではないから、やるべきことをやって、きっぱり断られれば踏ん切りもつくだろう。

 それにこの件をきっかけに、これまで親や女王に放り投げていた自身の結婚相手について、自分でも考えるようになるかもしれないし。


「わかった。でも応援するわけじゃねえからな。異種族ってのを抜きにしても、イレアナは色々難ありなんだ」

「恋は障害が多い方が燃える、と言っていたのは何の舞台だったか。まあ、この件に関してはお前だけが頼りだ、フェルディ。『枯れ』の件については、女王に積極的な処置が必要だと進言しておく。お前の森が一刻も早く元通りになるように」


 緑深く、朝霧が瑞々しい故郷。そこに忍び寄る恐ろしい災厄を思い出して、フェルディは顔をこわばらせた。

 フェルディ含む人狼たちが、生まれ育った森を離れて帝都にやってきた最大の理由。

 『枯れ』――海から忍び寄る姿なき魔族によってもたらされる森の枯れを解消するには王族だけが持つと言う特別な力がいる。だが王族に進言や頼みごとを直接できるのは、貴族の中でも高位のものだけだ。

 例えばハイランズ家のような。


「わかった。俺の鼻もなんだかきな臭いものを嗅ぎつけてるしな。イレアナを起こしたのは誰なのか、その理由はなんなのか。あたりをつけたい」

「ああ、私も探りを入れてみる」


 森を離れ都会にやってきたときから、ハーヴェイはフェルディの主であり友であり、仲間だった。

 お互い目を合わせ、ただ頷き合う。そうしてそれぞれ行動を起こすべく、別の方向へ足を向けた。

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