霧のセレネイド

DONZU

第1話 満月の夜に

「陛下、失礼を承知の上で、ひとつだけ質問をしても?」


 軽く挙手をして許可を求めた青年を見、女王は鷹揚に頷いた。

 生まれた時から今日までの成長を、玉座あるいは宮廷から見守り続けてきたせいか、彼が何を言わんとしているのかがわかって、ほんのわずかに苦笑を浮かべる。

 その様子に青年は帝国紳士らしいポーカーフェイスをわずかに崩しつつも、立ち上がって背を伸ばし、胸に手を当てた。


「人狼の森へ向かうには、少々時期が悪いと思うのですが」


 やはり。

 そう思うと同時に、感心と誇らしさがこみ上げる。

 人狼の森へ向かうよう言いつけた今日の夜、空に輝くのは満月だ。そのうえ、帝国にしては珍しく朝から快晴の空が広がっていて、夜も煌々とした月明かりがあたりを照らすであろうと想像できる。

 そして人狼は、満月の夜になると理性を失う、とされている。加えて言えば、青年は護衛兼相棒として一匹の人狼と行動を共にしており、その生態にも詳しい。

 女王は再び鷹揚に頷き、それから口を開く。


「人狼の性質については、わかっています。ですが、森の調査はもとより人狼たちが望んでいたこと。放置しているわけではないと、そろそろ示しておく必要があるでしょう。お前の友人は、今晩動けないのですか?」

「いえ」

「ならばいつものように、二人で向かうといいでしょう。人狼のことは人狼に。調査すべきところも、彼から聞くように。報告は明後日のこの時間を空けておきましょう」

「御意」

「ではさっそく支度をするように。私より先に退室することを許します」

「はっ」


 丁寧かつ洗練された一礼をして、青年が部屋を出ていく。

 女王は目を細め、それからわずかに息をついて。


「これで、よろしいのですか?」


 大陸から西、海峡に隔たれた小さな島を本国としながらも、大陸――果てはその東部にまで影響を及ぼす大帝国、その女王となればこの世界の最高権力者の一人と言っても過言ではない。

 だが、この時の問いかけからは、女王らしい尊大さは失われていた。


「ああ」


 代わりに玉座の後ろ、ビロードのカーテンの向こうから傲慢そうな返事が響く。


「これでようやく駒を進められる」


 傲慢さに加えて、どこか愉悦を滲ませたようなその声色は、夜霧のように冷たく澄んだ男の声だった。女王はわずかに身震いをして――それから再び、小さく息をついた。






「うっ」


 ガタン、と石に乗り上げて大きく揺れた馬車の中。

 座席でうずくまるように背を丸めていた男は、上質な藍色のコートの襟に半ば縋るようにして顔を寄せた。

 いつもはきちんと撫でつけらている濃い金髪は、ここまでの悪路を物語るかのように乱れ、やや白いが健康的な血色をしていた顔色も、今は青白くくすんでいる。

 髪と同じ色の細めの眉はきつく寄せられ、いつもはきりりとしたターコイズ色の瞳にはうっすらと涙が滲み、余裕のある微笑みを湛えていることが多い口元は、哀れに引き結ばれていた。


「お貴族様にはきつかったかねえ。大丈夫ですかい? 閣下」

「悪いが、お前のおふざけに付き合う余裕はない。まだ着かないのか」

「四つ足になって走りゃあ、あっという間なんですが」

「フェルディ」

「へーへー。酔い止めは飲んだんだよな?」

「当然だ」

「女王陛下の覚えもめでたいハイランズ家のご嫡男、ハーヴェイ様の苦手なものが馬車だなんて知ったら、社交界の女性たちはなんて言うかねえ」


 額にうっすらと浮かぶ嫌な汗をぬぐいつつ、どうにか話すのが精いっぱいな貴族の男、ハーヴェイに対し、向かいに座った男はむしろ快適そうな調子で笑って見せる。

 短く刈り込んだ髪はハーヴェイと同じ金色だが、やや色素が薄い。そのおかげで、日に焼けて濃くなった肌の色が際立っている。

 悪戯っぽく輝く瞳は、緑がかったハーヴェイに対して青みの強いセルリアンブルー。そうして最も特徴的なのは、健康そのもの、それどころか頑健とも言えるほどに逞しく鍛え上げられた、その体つきだった。


「そうだな、貴族かつ人間というものは繊細だからな。筋トレ中毒な軍人かつ人狼に都会は狭く生きづらかろうと同情してくれるだろうよ」

「いやぁ、俺はきっと“まぁ! ハーヴェイ様ったら、そんな一面もあるのね! お可愛らしいわ~”なんてお言葉を頂くと思うけどな」

「お前が女のマネをしても、ちっとも可愛く思えん」

「そんなぁ~ん! ひどいわ、ハーヴェイ様ってばぁ~!」


 くねくねと体を動かすフェルディに呆れたため息をつき、ハーヴェイは車窓を見上げた。

 だが窓から見えるのは、自分のコートよりもなお深い藍色の夜の闇だけである。

 一刻も早く目的地にたどり着いてくれ、と再びため息をついて、うなだれた。


「第一、弱みにつけこんで可愛らしいなどと言うような女性には興味が持てん」

「だからお前はモテねえんだよなあ」

「私はいずれ、女王陛下と両親が決めたしかるべき人、或いは両者に認められるような女性と結婚しなければならない。社交界の女性など――うっ!」

「げっ! 待て! まだ吐くなよ?! ったく! 国の先頭に立つお貴族様がこんなに弱っちくて、よく“帝国”になんてなれたよなあ?!」


 世界の中心である大きな海洋から見て、この土地は西の端に当たる。

 そこに存在する、比較的小さな島国を『本国』として存在するこの帝国は、現在女王として国を治めるヴィクトリアから数えて三代前の時代に、国から見て東の海峡を挟んで面する大陸に点在していた小国を次々と飲み込み、島国でありながら『帝国』と名乗るほどに領土を広げた。

 現在では征服した国々に自治権を与え、女王はあくまで元首として重要な国事に参加する程度だし、大陸の諸国とも友好的、平和的なかかわりが続いている。

 かつては先んじて前線に立ち、勇猛果敢に戦うことを求められた貴族たちの役割は、政治的に頭を働かせたり、与えられた領地経営をうまくこなして帝国に利益をもたらすことへと変わっていった。

 故に、貴族が屈強である必要はもうないのだが、これからもたらされるであろうしかるべきものを治める紙袋を慌てて取り出しつつ、フェルディは「お前ももう少し鍛えろ!」とハーヴェイを叱咤する。


「人間と人狼を一緒にするな。まず体の出来が……うぅッ!」

「わかったわかった! ったく、せめてもう少し走るのが早けりゃ、馬車なんか使わずに済むんだけどな」


 島国でありながら、大国に領土を広げている帝国はそれ以外にもひとつ、大きな特色を持っている。

 それは『魔族』と呼ばれる不思議な特徴を持つ人種が、そうでない人種と共に暮らしていることだ。

 大抵『人間』と自称する種族は『魔族』を恐れて彼らを隔離したがる。一方の『魔族』たちも、自分たちより能力は劣れど数は多い『人間』を嫌って、或いは見下して、別の国を形成したり、ひとつの国の中でも町単位で固まって暮らしていることが多い。

 しかし帝国では、元来本国に多くの『魔族』がいる特殊な環境のせいか、特に首都である帝都には公然と『魔族』が住み、『人間』である女王や貴族たちがその特異な力を頼りにすることもある。

 

 フェルディら『人狼』――その呼称の通り、人と狼、二つの姿を持ち、自在に変化し、両者の性質を受け継いで強く俊敏な種族――が帝都で暮らすようになったのはここ数年のことだが、それよりずっと前から帝都に根付きハーヴェイら『人間』たちと同じように、貴族の地位を得て暮らしている『吸血種』という種族もいる。

 フェルディからすれば、吸血種も身体能力的には劣って見える。実際、彼らの最大の特徴は他者の血を得ることで若く美しい姿のままに長い時を生きられることだ。長命なせいか、聡明であることも多く、実際帝都の吸血種を統治する一族の祖は、その頭脳でかつての帝王を支え、地位を得たのだとか。

 

「ないものを求めるな……それより、早くっ……! 人狼の巣とやらはまだなのか?」


 えずきを堪えながら言うハーヴェイの背中を撫でさすってやりながら、フェルディは顔を上げて鼻を動かす。

 平らに整備された道から森の奥へと続く悪路に入ってしばらく。馬車は未だに車輪をガタゴト言わせながら、走り続けている。

 人狼の森へ行くように、と女王からの命令が下り、支度を整えてすぐに帝都を出発したが、内陸にある帝都に対して、人狼の巣は大抵海からそう遠くない森にあるので、どうやっても時間がかかってしまう。

 だが空気に潮の匂いと人狼特有の『群れ』の匂いが混ざってきていた。『群れ』の方でも、自分たちの縄張りに近づく馬車の音と、フェルディの匂いに気づいているだろう。

 もう少しでハーヴェイを休ませてやることができそうだ。

 フェルディがほっと息をついた、刹那。

 

「ッ?!」


 体を大きく跳ねらせ、その勢いのままフェルディは立ち上がる。

 貴族所有のそれとはいえ、狭い馬車の中だ。天井に勢いよくぶつけた頭を抱えてうずくまり唸り声をあげるフェルディに、ハーヴェイは怪訝そうな顔をした。


「どうした? まさか道が違っていた、なんて言うんじゃあないだろうな」

「いや、違う。知らない匂いが、して……」

「知らない匂い?」


 一瞬、強烈なにおいがした。

 まったく知らない未知のそれに、警戒心が一気に高まって思わず立ち上がったものの、思い返すとそれは、雨でどろどろになった黒土のにおいに似ていたような気がして。


「……?」


 だが考えてみると、霧の日の真夜中の匂いにも似ていたし、草刈りのあとの匂いにも似ていたような……。


「……わかんねえ。一瞬だったし、もう消えちまった」

「妙だな。誰かが私たちを追ってきているのか?」

「いや、それはない。追ってきているなら、とっくに俺の鼻が嗅ぎつけてる。アレは、初めての匂いだった。けど……」


 ひどく強烈で、色々なにおいがして、どこか懐かしく、同時に何故か恐ろしい。

 でも何故そんなことを思うのか、自分自身にもわからない。

 そんなにおいだった、とフェルディは思う。

 強い匂いならば強風でもない限り、そこに長く残る。人間にはわからなくても、優れた嗅覚を持つ人狼には嗅ぎ分けることができた。

 だが、そのにおいは、一瞬で現れて一瞬で消えてしまったように、欠片さえももう残っていない。

 幻のように、或いは古い時代にいた『魔族』が使ったと言う『魔法』のように、残り香さえなく掻き消えている。


「なんだったんだ?」

「疑問に思うのはわかる。わかるが……巣はまだか……」

「もうちっと我慢してくれよ、坊ちゃん」

「う……」

「仕方ねえ、速度を緩めてもらうか? そうなると、乗ってる時間自体は長くなっちまうが、ついでに換気もしたほうがよさそうだ。なんかすっぱい匂いがするぜ?」

「私はまだ吐いていない……っ」

「へーへー」


 先ほどの匂いについての疑問は残るが、まずはハーヴェイだ。

 人狼の巣ではやるべきことがある。ここで体力を消耗して、仕事になりませんでした、では済まされない。

 一旦気分だけでも紛らわせてやるべきだと判断して、フェルディは御者側の窓にかかったカーテンを開けた。

 生真面目な御者は真っ暗な森の中、フェルディの指示通りにしっかりと進んでいる。幸い空には満月が上がっていて、真っ暗ではない。

 フェルディはふと「満月の夜になると理性を失う」なんて話を思い出した。実際、月が満ちると自分の中の獣の部分がいつもより姿を現したくなって、それを発散させるために狼姿で野を駆け回る、なんてことはあるのだが、その程度で理性を失ったり、ましてや人間を喰うなんてことはしない。

 そもそも人間はうまくないらしいしな、なんて内心ごちながら、御者に声を掛けようとして――

「待てッ!」


 焦って叫び、それからフェルディは激しく窓ガラスを叩いた。

 いっそ叩き割ってしまった方が、と考えかけたところで、御者が慌てて手綱を引く。

 どうやら御者にも見えたらしい。

 進行方向、人狼の巣へと続く悪路の真ん中。満月の光を背負って立つ人影を。


「ハーヴェイ、お前はここにいろ。絶対に降りるなよ」

「……降りたくても降りられん」

「なら都合がいいな」


 なんて軽口を叩き合いつつ、フェルディは再び御者越しに正面を睨む。

 人影はひどくふらついていて、今にも倒れそうだ。


「悪霊の類だったらどうすっかな」


 冷や汗が伝う。真夜中の森には子供を攫ってしまう悪霊がいる、というのは群れに伝わるおとぎ話――というか、子供を戒める寓話だ。

 そんなものがあるはずないとはわかっていても、得体の知れないものを前にすると神経がささくれ立つ。

 そのうえここは人里からも離れていて、なおかつ近隣の『人間』は大抵『人狼』を恐れていた。だから普通の『人間』ならば、こんな場所には立ち入らないはずで。


「……ん?」


 馬車のドアをそっと開け、匂いを嗅ぐ。深い森と夜特有の、冷たく湿った匂い。

 それに交じって届いたのは、懐かしい甘い匂いだった。

 ユリやバラ、チューリップにクチナシ……。

 様々な花の匂いが混ざりつつも嫌な感じのない匂い。だがその奥に感じる錆のような苦さ。

 そんな特徴的なにおいを、忘れるわけがない。が、その匂いがここにあるはずがない。

 フェルディは警戒心を高めて再び鼻を鳴らし、そろりそろりと馬車を降りた。

 瞬間、人影がぐらりと傾いて。


「なっ……?!」


 月明かりに、長く伸びた髪が揺れるのが見えた。

 同時に照らされた、白磁のような面差し。

 フェルディは警戒心も疑問も忘れて駆けだし、地面に衝突しかけたその体を抱きとめる。

 そうして腕の中で気を失った人影――女の姿に、困惑した。


「……なんだ? どうなってる? 女王が急に俺たちを巣に向かわせたのは、これのためか?」


 女の呼吸はか細く、今にも息絶えそうだ。実際、必要な処置を施さなければ、近いうちにそうなるだろう。

 そもそも女は長い長い眠りについていた。目覚めるためにはある条件が必要で、その条件を満たさない限り、彼女は延々と眠って「いられる」ことができたのだ。

 彼女が目覚めを願ったのだろうか。もしかしたら、女王が――フェルディは眉根を寄せる。


「ひとまず巣だ。アンタの他に、休ませてやらなきゃいけないやつがいてな」


 軽々と抱き上げながら、フェルディは女に話しかける。

 その声には懐かしさと親しみが滲んでいたが、女が答えることはない。

 馬車のドアを開ける前に女を抱えなおして顔を見、フェルディはぽつりと漏らした。


「アンタは、変わらないな。俺はすっかりでっかくなっちまったよ。アイツはもっとひでぇぞ」


 でも、アンタに会ったら喜ぶだろうな、なんて続けて、フェルディは女を抱えたまま馬車に乗り込んだ。

 ついでにそのままドアを開けて、新鮮な空気を入れておく。

 ハーヴェイはフェルディの腕に収まったままの女を、呆然と見つめていた。


「その女性は……?」

「知り合いだ。巣についたら詳しく話す」

「女王陛下が私をここに向かわせたのは、その女性と会わせるため、ということか?」

「まだわからねえ。だが――」

「ビビっと来た」

「はあ?!」


 ガタンと一度大きく揺れて、馬車が再び動き出す。

 真顔で訳の分からないことを言いだしたハーヴェイは、まだ顔色こそ青白いものの幾分か正気を取り戻し――いや、熱を孕んで爛々と輝く目は別の意味で正気を失いかけていた。

 フェルディは思わず腕の中の女の顔を、ハーヴェイから隠す。


「彼女を見た瞬間、これだと思った。守らなければ、支えなければ、彼女こそが私の運命だと」


 フェルディから女を奪いそうな勢いで、ハーヴェイは言う。

 頬に赤みがさしていた。

 調子が戻ったのはいいが、いや良くない。正直困る。


「冗談じゃねえぞ! お坊ちゃん、良く聞け? お前も名前だけは知ってるだろう? こいつは、クリステア家のご当主様だ」

「なんだと?」


 現在の女王、ヴィクトリアから数えて三代前のこと。野心高い当世の王は豊かさを求め、かつ国力を盤石なものとするため、大陸への侵攻を始めた。

 肥沃な土地、重要な交易地、港――征服は思いのほかうまく進んだ。だが彼は征服した土地に圧政を敷いた。結果、豊かな土地や交易地など栄えるのには有利な場所を数多得たにも関わらず、国を豊かにすることはできずにいた。

 それでは侵攻の意味はない。悪戯に他国を征服し、軋轢を生んだばかりではないか。

 悩む王に手を貸したのが、クリステア家であった。

 

 『人間』が治める島国にあって、クリステア家は『魔族』であった。

 それも人の血を口にして不老長寿を得る『吸血種』だったのだ。

 血を口にしなければ『吸血種』は長く生きられない。得に『人間』の血は、彼らの生きる糧だった。

 だが人々は彼らを恐れ、血の提供を拒む。或いは彼らを罵倒する。

 そんな中でひっそりと生きてきた彼らはしかし、悩む王に一族が長年『人間』の歴史を眺めて得た知識を提供し、持ち前の聡明さで以て彼を支え、王家に次ぐ高い地位を手に入れた。

 そうして今日まで、彼らは帝国、特に本国の社交界や政治の場において、強い力を持つ――のだが。


「彼女が、クリステア家の当主だと? 貴族としての役割はおろか一族を統治することさえせずに放蕩の限りを尽くしたあげく、教会の信徒だったかと駆け落ちをして失踪したという、あの?」

「……まあ、色々あるんだ。俺も詳しいことは知らないけどな」

「まさか、今はお前の恋人だなんてことはないだろうな?」

「こいつは俺の母親ぐらいの年齢なんだぜ?」

「なっ……いや、そうか。吸血種ならば、そうなんだろう」


 ハーヴェイは軽く頭を振って自身を落ち着かせようとする。だがその眼差しはじっと女に向けられ続けていた。


「女王の目的は、当主なきクリステア家に当主を取り戻させることか?」

「当主がいなくても、クリステア家はうまくやってるけどな。一時は傘下の連中が金にモノを言わせて血を奪ったりしてたみたいだが、それも落ち着いてる」

「だが当主代理はまだ若い。私たちより十歳近く年下だろう?」

「それに吸血種でもない」

「継承を行え、ということか?」

「かもな。統率力のある新しい当主に替わってもらって、一族をさっさと立て直す。そんで元通りのバランスを取り戻したい、あたりが妥当か?

 陛下は相変わらず手練れだし、影響力も強い。でも相棒やってたクリステア家が、今じゃあ没落寸前だ」

「ああ。ハイグローブ公はともかく、教会がやっかいだ。最近では聖女が市井で妙に人気らしいしな」

「俺は昔っからあいつらが嫌いなんだよな。きなくせぇし」

「だが、自然の恵みに感謝して生きろという教義は、わからなくもないだろう?」

「んだけどなあ……」


 帝国以来続いていた、女王とクリステア家の密接な関係が終わろうとしていることはまだ構わない。

 クリステア家が没落したとて、所詮帝国内の一貴族が消えるだけのこと。女王に大きなダメージがあるわけではない。

 だが『教会』の方はやっかいだ。


「恵みに感謝しろとか、聖女様とやらが恵まれない連中に施しをするとかは、理解できんだよ。でもあいつら、貴族と庶民の対立を煽ってるだろ?」

「女王陛下も、そこを危惧なさっているのかもしれない。第一、彼らはお前たちを忌避している。彼らが力を得れば、吸血種だけでなく人狼も、肩身が狭くなるぞ」

「そりゃあ困るんだよなあ」


 今では一般的となった『魔族』という呼称も、元は『教会』が使う吸血種や人狼への蔑称だった。

 『教会』はどういうわけか普通の『人間』が持たぬ能力を持つ者を忌み嫌う。だから『教会』が遍く広がり政治的な力を持つ大陸では『魔族』はひどい迫害と差別の対象だ。

 場所によっては見つけただけで火あぶりになるのだとか。

 フェルディは腕の中で静かに眠ったままの女を見て、小さく息をついた。


「今更だけど」

「なんだ?」

「ハイランズ閣下、こちらはクリステア家ご当主のイレアナ・クリステア卿です。クリステア卿、こちらはハイランズ家ご子息のハーヴェイ閣下です。俺の上司で同僚で、悪友にございます」

「悪い友はお前だろう。お前のおかげで、覚えなくてもいいものを山ほど覚えたんだぞ」

「庶民的な酒場の安酒の味とか?」

「やかましいフィドルの音だとかな」


 片方が眠っているとはいえ、上流階級の者同士が出会ったのだから紹介は必要だろう、と気を使ってみたのだが、やっぱりおかしかったらしい。

 くつくつと男同士で笑い合ってから、フェルディはすんと鼻を鳴らした。

 ようやく仲間がやってきたらしい。

 窓を叩いて御者に馬を止めるように合図すると同時に、遠吠えが聞こえてくる。


「先に行って、寝床を整えてきてやるよ」

「ああ、頼んだ」


 イレアナを座席に寝かせ、フェルディは馬車を降りた。

 そうしてすぐそばに来ていた四つ足の仲間たちに挨拶をすると、自身もさっと姿を変える。人狼の変化は、それを初めて見る人間曰く「がっかり」するほど一瞬だ。

 空気が揺らめいたようにその姿が一瞬ブレたかと思うと、もう次の瞬間にはふさふさの毛に覆われた立派な狼の姿に転じている。


「……」


 狼たちに従って、馬車がゆっくりと動き出す。

 ハーヴェイは転ばぬよう慎重に立ち上がり、イレアナが眠る向かいの座席へと移動した。

 そうしてイレアナの頭を己の太ももに乗せ、艶やかなその髪に指を通す。

 夜露に冷えたそれは、しかし、撫でると朝露を浴びたような清廉な花の匂いがして。


「……イレアナ・クリステア」


 そっと名を呼び、ハーヴェイは苦しげに眉を寄せた。

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