第37話 囁き
手慣れた様子でスマートフォンをいじりながら、リビングダイニングに入ってきたハリは、蛍を見つけて笑みを浮かべた。
「いらっしゃい。
「出さないとどうにもならないじゃん。まだ全然なんだし。この調子じゃいつまでかかるか……」
「焦ることはないよ。林さんのご依頼は、急ぎのものじゃない。期間はたっぷりもらうかわりに料金は控えめっていうコースだから」
コース。そう聞くとカラオケみたいだと思ってしまった。
しかし料金が控えめといっても、そこそこのお値段がしていたのを蛍は覚えている。
(それは俺がまだ学生だから、そう感じるだけなのかな……。社会人になったらもうちょっと身近に感じられる値段なんだろうか……)
もっと精力的にバイトをしている、例えば日比谷のような人からすれば、さほど
金銭感覚がわからない。やがて身に着くとも、今は思えない。
「でも、いつまでもかけていいってわけじゃないでしょ?」
半分ほどになったほうじ茶に口をつけて、蛍は当たり前だと思いながらもそう聞いた。
その間に、藍が立って新しい茶を淹れ始める。ハリの分だ。
「そりゃそうだ。そうだねぇ、冬にうちには、なんとか形になるといいんだけどね」
「……そんなにかかるもの?」
「石によるよ」
あとは調石師の腕だね。ハリは言って、にやりとする。
蛍は
「じゃあ、続きやってくる。石琴借りてもいい?」
席を立つとハリは頷いた。
「ああ。どうせ今日も来るだろうと思って用意しておいたから、存分に使いなさい」
「ありがとう、ばあちゃん」
蛍と入れ替わるように藍が戻ってきて、ハリの前に温かい湯呑を差し出す。
彼女の瞳が蛍を見て、細く微笑んだ。
「……がんばって」
「はい」
なんだか心強い。蛍は後押しされるような心地で、隣の作業部屋へと向かった。
石琴の、並ぶ鍵盤はどれも冷たい。石でできているのだろうから当然だ。部屋に暖房が聞いていても、その硬い内側から冷ややかさが
繰り返し指を置いているうちに、ほのかに表面に体温が移ることがあった。
けれどそれも、数秒もたてば元の冷たい肌に戻る。
冷たくて硬い、石の鍵盤。
指先が触れて、体温が灯ると、鍵盤もそれに応える石も微かな音を漏らす。まるでその瞬間だけ、吐息を漏らすように。
(この小さな音が、人間でいうところの息だとしたら……それがもっと大きくなって、声帯みたいなものが震えれば、声になるのかな)
深く吐き出すため息がときに音を帯びるように。
指を動かし、
眺めているだけならば、もしかしたら柔らかいのかもしれないとも思える色合いだ。今作業机にしている、年季の入った
でも実際に触れてみれば、その表面は硬い。
中になにが入っているのか、なにかが入っているのかも触っただけではわからない。表面から感じられる通りに冷たいのか、もしかしたら意外と温かいのか。
なんだかそれって、人と接しているときに似ている。
(ロマンチックか)
やれやれとため息を挟んで、蛍は自分の感想に内心でツッコミを入れる。
けれど茶化しきれない感想だった。
人の気持ちって、見ただけではわからない。蛍は日々、強くそう感じている。中にどんなものが入っているのかもわからない。
わからないから怖くて、目に見えているものを真似しようとする。
冷たくされれば、冷たく返す。笑われれば、笑い返す。
みんなそうだろう。みんなそうしているはずだ。
なのにどうしてこんなに自分は、誰かの中身がわからないのだろう。
みんなはもっと、わかるのだろうか。
石の中の温度がわかるように、人の中の色もわかるのだろうか。
どんな光があって、どんな音がするのか。
「……じ……」
石琴の音が続く。微かな音が返ってくる。
石琴の音が続く。微かな音が返ってくる。
「……れ……じ……」
音が続く。続いて。
「え?」
蛍は音を止めた。
今、妙な音が聞こえた気がした。最早聞き慣れた石琴の音と、ブレスレットからの跳ね返るように返ってくる小さくも伸びやかな音。その応酬の中で、いつもと違う音があった気がする。
「もう一度、最初から……」
どの鍵盤のどのあたりで音を出せば、どんな音が返ってくるか、繰り返し作業しているうちに覚えてしまっていた。
最初はこの音、次はこの音。その次がこうで、さらに次はこうで……。
「ん、れ……じ……」
声だ。
今、声がした。
(聞き間違えか?)
自信がないから、もう一度。
同じところで、同じように。
声が聞こえる。
普通に日常聞く声より、ほわほわとなにか柔らかいものか、眩しいものに包まれているような音声だ。不思議な反響がかかっている気がする。そのせいではっきり聞こえない。
けれどこれは単純な音とは違う。誰かの声……に、聞こえる。
一番最初に想輝石の話を聞いたとき、持ち主の想いが聞こえるなんて心霊現象のようだと感じたものだ。
だが実際自分の手で
不気味さはない。不可解さもない。じっとりとした不快さも、背筋にぞくりとくる寒さもない。
誰かが囁いている。
うっかり道端で耳にした独り言や、隣の席から漏れ聞こえてきた会話の断片に似ている。
ふと耳にした誰かの声。そんな声が……石の中から、跳ね返ってきた。
この感動は、石琴で最初に音を鳴らせたときのものによく似ている。
あのときのように、蛍は夢中で指を動かした。もう一度最初から。もう一度。ならばもっと先へ。
声が聞こえる。
この石の中に誰かの『想い』が入っている。
本当だったんだ。
そう思えた瞬間、なんだかいつもより耳がよく聞こえるような気がした。
微かな囁き声を返すタイガーアイのブレスレットは、ちらちらと金色の光を内側で瞬かせていた。
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