第36話 藍


 バスと電車で自宅とハリの家の最寄り駅までくると、すぐさま自転車に乗り返る。冷たい風に背中を押されながらハリの家へとたどり着いた。


 今日は藍がいる日だった。どうぞ、と声になっていないほどかすかな声で招き入れてもらって、まずはと温かいお茶をすすめられた。

 ハリはどうやら応接間で、誰かと電話をしているらしい。

 顔も見せずに勝手に石琴せっきんに触るわけにもいかない。蛍は、はやる気持ちを抑えてダイニングテーブルについた。


 今日は陽の差さない曇りだ。ダイニングはだいぶ薄暗くて、オレンジ色の照明が天井から室内を照らしている。

 差し出された湯呑に入っているのは、熱いほうじ茶だった。一口飲むと、寒さで緊張していた体が一気に緩むようだった。


「はー……ありがとうございます。美味しいです」


 蛍が言うと、向かい合って湯呑に手をかけていた藍が柔らかく微笑んだ。


 廊下のほうからハリの、なにかを説明する声が聞こえる。まだ電話は少しかかりそうだ。


 藍と一緒にその声を振り向いていた蛍は、やはり藍とほとんど一緒のタイミングで互いへと視線を戻す。

 ハリのいる応接室に対して、ふたりも人がいるのにダイニングは静かだった。


 数秒、どちらも黙ったまま茶を飲んでいた。


「……あの」


 藍との沈黙は不思議と気まずくない。ぼうっとしていたら何時間でもこうしていられそうな、ゆったりとした空気が流れる。

 それを揺るがせて切り出したのは、蛍だった。

 藍が視線を上げて、言葉なく先を促す。


「藍さんも……石琴、弾くんですよね?」


 調石師ちょうせきしなのだからそれはそうなのだろうが、蛍はまだ藍の作業を見たことがない。藍がどんな石琴を使っているのかも知らないから、想像ができなかった。そもそも石琴がどれくらいデザインの幅を持っているのかも想像できない。


 蛍の問いに藍は浅く頷いて返事をした。


「どう、やってるんですか? あ、いや。使い方はばあちゃんに教えてもらったんですけど。その通りにやってるつもりなんですけど。なかなか、その……進まないというか。声が聞こえてこないのが、なんでかなって……コツとかあるのかなと思って」


 ただ聞いてみたいと思っただけなのに、なんだか言い訳するような調子になってしまった。少し恥ずかしい。蛍はつい視線を湯呑に落とす。茶色い水面が揺れる。


 すぐに返答はこなかった。かすかな不安にかられて視線だけ持ち上げると、藍は指先をほおに添えて思案しているようだった。

 盗み見ている視線に気付かれて、目が合う。


「あ、その」

「私も……」


 反射的に漏れた蛍の弁明の入り口と、ためらいがちにささやかれた藍の言葉は同時だった。蛍は大袈裟な仕草で口を閉じる。どうぞ、と手を差し出す。

 藍がはにかむような笑みを挟んだ。


「私も、あまりうまくはできません。ハリさんはすごいです……とても、お上手? ええと……得意……とても早く、音を見つけて、しまいます」


 言いたいことに合致する言葉を探しながら、藍は話す。


「私はまだまだ、とてもできません。少しずつ、少しずつです。……蛍さんもそう……ですか?」

「は……はい。本当に少しすぎて……不安になります」

「そうですね。私もなります」


 ちょこん、と胸元に手を添えて藍が微かな笑い声を漏らしたのが聞こえた。

 スリムで背が高く、綺麗な女性だからか、初めて見たときは落ち着いていて大人っぽく思えていたが、笑って肩を持ち上げる仕草はどこか幼く見えた。幼いというより……なにも知らない少女のような、とでも言うのだろうか。


(そういえば藍さんっていくつなんだろう……)


 さすがにいきなりそれは聞けない。


「だから……今も少しずつ、です。大事なのは……やめてしまわないことだと、ハリさんから言われたことがあります」

「やめないこと……。それは、そうですよね。やめたら、できないわけだし」


 石琴を弾くのをやめたら、その石は音を発さない。音を発さなければ声にもならない。そこにあるのはただの物言わぬ石でしかない。


 藍が噛みしめるように頷いた。


「私にはとても、難しいことに思えました。なにも成果のない日もありますし……自分には向いていないと痛感することもあって……そういうとき、やめたくなります」


 そう思ったときのことを思い出してか、藍がわずかに眉尻を下げた。

 自分を情けないと思うときの表情だ、と蛍は思う。ここにはいない過去の自分を見るような眼差しに覚えがあった。


「やめようと思ったこともあって……。でもそのとき私を引き止めてくれたのが……今、言った」


 ハリの『大事なのはやめてしまわないこと』という言葉だったと、藍は言う。


「立ち止まっても、休んでも、目を背けても。また始めれば……それは『やめた』ことにはならないと思うよ、って。そう言ってました。私はそれに……とても励まされて……。なにもできない日も、できるだけ『やめなかった』と思えるように……すごせたら、いいと……ええと……」


 言葉に迷って、藍は自分の唇に触れる。困ったような顔をして、蛍を窺った。


「……これは、私の感想……ですね。蛍さんは、アドバイスをお求めだったのに……すみません」

「へ? い、いえ、全然そんなことないですよ! ためになります、参考にも、なります。なんとなく……わかるくらいの、感じですけど」


 蛍は慌ててぶんぶんと手を振った。その拍子に手が湯呑に当たって倒しかけたが、慌てすぎたあまり大仰おおぎょうに反応した反射神経により、すんでのところで支えらえた。


「……すいません」

「いえ。倒れなくて、よかったです」


 今度は蛍が謝った。

 藍はなだめるように微笑んでくれる。


 改めて見合ってみれば、よくよく表情の動く人だ、藍は。もっとクールな人かと思っていた。動じず、穏やかで、そつのない。

 けれど彼女の珍しく貴重な声を聞いてみればみるほど、思っていたよりずっとやわな人なのだという印象を受ける。


 やめようと思ったこともある、という発現には驚いた。

 そんな悩みを抱くような人には見えていなかった。もっと完璧な姿をイメージしていた。彼女の外見がそうであるように、乱れのない怜悧れいりなイメージだ。


 でもそうじゃない。

 意外さは蛍に、彼女への親近感を覚えさせた。


(藍さんでも……うまくできないって、悩むんだ)


 悩まないと思っていた。

 なぜか。自問はすぐに、簡潔な答えに行きつく。

 悩むのは自分だけだと思っていたからだ。


 できないと嘆いたり、進まないとじりついたり。そういう気持ちは自分の中にしか存在しないと、そんな考えでいたのではないか。

 いや、間違いなくいた。だって今まさに、藍も己の無力を嘆いたりするのだろうかと、して当たり前だろうことを考えているのだから。


「……すみません」


 なんとなく、蛍は謝った。相手に見えていないのはわかっているけれど、自分の思考が失礼だった気がした。

 案の定というか、当然、藍は不思議そうに首を傾げる。


 そこに、電話を終えたらしいハリが入ってきた。

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