第38話 初めて


 日々が猛然もうぜんと過ぎていく。

 同じペースとはとても思えないほど早く、早く。気が付けば日付が変わっていて、気が付けば週が変わっている。

 どんどんその日の数字が大きくなっていく。


 いつの間にか、クリスマスは間近まぢかに迫っていた。


 寒波がどうとかテレビのニュースでやっていた。ここ数日、夜はひどく冷え込んで、外に出れば吐き出す息はいやおうなく白くけむる。指先はかじかんで痛むから、手袋無しでは自転車になど乗れやしない。


 ハリの家の玄関を開けた瞬間から、待ち構えていたかのような冷気に抱き止められて、蛍は大きく身震いする。今夜も寒い。


「大丈夫かい?」


 見送りに立ってくれたハリが、廊下で心配そうな声をかける。

 蛍はこくこくと頷いた。室内からの暖気が流れ込んできているとはいえ、玄関は寒い。なるべく早く温かい部屋に戻ってほしい。


「じゃあ、連絡待ってるから。ばあちゃん」

「ああ。明日になったらちゃんと林さんに連絡するから。安心しな」

「大体どれくらいで取りに来るの?」

「向こうさんのご予定次第だよ。そう急かさない」

「そっか。そうだよね。じゃあ……」


 ハリと並んで立っている藍へぺこりと会釈して、蛍は開きっぱなしになっているドアに手をかけた。


 藍が頭を下げる。


「今日はゆっくり休みなさい。それと、勢いで色々忘れちゃわないように。本番はこれからだよ」


 わかっている。わかっているが、ハリに言われるとどきりとする。

 蛍は数秒震えを忘れて、己に言い聞かせるように頷いた。


「うん。じゃあ、また」


 帰路を気を付けるようにとの言葉を受け取ってから、蛍はドアを閉めた。

 ほのかに感じられていた室内の暖気から完全に切り離されて、頬がピリリと寒さに強張こわばる。

 急いで帰ろう。蛍は停めてあった自転車にまたがる。

 寒さに驚いて身が縮こまっている間に家に辿り着かないと、ペダルをぐ力もなくなりそうだ。猛烈に眠くて仕方がない。


 時間は八時過ぎだ。さっきまで、藍とハリが作ってくれた夕食の麻婆豆腐を食べていたから、まだ胃袋だけはほのかに温かい。


 夕食の呼ばれる七時まで、蛍は今日も石琴の前にいた。

 ここしばらくずっと、毎日そうであるように、同じ作業を繰り返していた。

 ひとつだけ違うことがある。


 調石が終わった。


 最後の音まで響かせることができた。

 あの石の中に込められていた『想い』を最後まで、声として鳴らすことができた。

 穏やかな男声を聞いた。声は誰に聞かせるつもりもなかっただろう己の本心を、もう誰にも聞かせられなかったはずの石の中から聞かせてくれた。


 全部。たぶん、これで全部だ。


 明日、ハリが林に連絡をしてくれる。そこで、ブレスレットを回収する日時が決められる。

 その日になったら、蛍はこれまで繰り返し石の前で鳴らしてみせた音をもう一度、今度は林も同席する中で行い……声を聞かせる。


 この先どういう手順で事が進むのか、夕食の席でハリから一通り聞かされた。

 それを自分が行うのだと理解している。

 しているが、嘘のように現実味がなかった。


 ふと気が付いたら全部夢で、ぬくぬくと温まった布団の中で無力な自分がぼんやり目を覚ましそうな気がする。

 もしそうだったら落ち込む。これはとても落ち込むぞと思う。


 だって。

 未だに実感はないけれど。つい一時間とちょっと前の出来事なのに、すでに記憶が曖昧あいまいになっているくらい自らのことと受け止められていないけれど。


 初めてなのだ。こんな経験は。


 なにかをやりたいと、人の前で声に出して主張したことはなかった。

 やりたくて始めたことを、納得できるまでやり遂げたことはなかった。

 なにかに毎日毎日時間をつぎ込んで集中することもなかったし、そのことを負担や苦痛に感じずに過ごせたこともなかった。

 それが誰かのためになることだったこともなかった。


 自分で、自分のやったことに「やった」と自信をもって言えることなどなにもなかったのだ。これまでは。


 でも今は違う。今日は違う。これからは違う。


 ひとつできた。

 終えられた。

 それがどれほど嬉しいか、どんな言葉で誰に伝えたらいいのかわからない。


 ただ嬉しくて、誇らしくて。目茶苦茶に現実感がなくて。なんだか罪悪感に似ている、もったいなさのような感覚もある。


 達成感というのはこういう感覚なんだろうか。今まで蛍が味わってきた『達成感』とは少し味が違う。

 なんだろうこの感じ。なんなんだろう。


「……林さんに、ちゃんと聞こえるかな」


 そう遠くない日に彼の前で想輝石を鳴らすことになる。そのとき失敗するのではないかという恐怖もある。足がすくみそうだ。


 だけどもし失敗なく鳴らせることができたら、ついさっき蛍が聞いた林の兄の声を聞かせられることができたら、そのときはきっと今以上に嬉しいだろう。


 そんな瞬間がくるかもしれないなんて、とても信じられないことだ。


 早く聞いてほしい。でも失敗したら嫌だから、できるだけ遅くがいい。


(練習しないと)


 たくさん、たくさん。決して失敗しないように。

 練習したいだなんて思ったのも、初めてだ。


 月が遠くで真っ白く光っている。半分くらいの月だ。


 家に辿り着いた蛍は泥になって崩れてしまいそうな体を引きずって風呂に入ると、倒れ込むようにしてベッドで眠った。

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