第33話 温情
ややあってから。林の息を吸い込む音が聞こえた。
「……修行中、ということは。
それまでの不愉快さや苛立ちからは遠い、
蛍は下げていた頭を上げて、自分の中に深く息を吸い込む。
「そ、れは……」
意地や反射で答えていい場面ではないと感じていた。だから一度、考える。自分はハリの仕事を受け継ぐつもりで、林の持ち込んだブレスレットに向き合っているのだろうか。
答えはあまりにも単純で、意外性のない、つまらないものだった。
「わかりません。でも……やってみて……このまま続けたいと思っています。これっきりになってもいいから。始めたことは……これだけでも、最後まで……」
『はい』とも『いいえ』とも言えなかった。そのうえ自信満々に言えないどころか、
友達とどうでもいいことでどうでもいいように笑うときは、もっとちゃんと声が出るのに、本当に自分が思っていることを言うのはどうしてこんなに難しいのだろう。
そうしてまで口にしたかった、本当に思っていることは、どうしてこんなに力ない言葉ばかりなのだろう。
なけなしの自分をかき集めるような蛍の返答を
呆れたような、諦めたような素振りで何度も頷きながらため息と共に答える。
「わかりました。わかりましたよ。兄のブレスレットが、若い人のいい練習台になるのならそうしてください。そういうことならお預けします」
「え……い、いいんですか!?」
林の返答は蛍にとって思いがけないものだった。それじゃあどんな返答が来ると思っていたのかというと、特に具体的な想定はなにもなかったのだけれど。
とにかく『わかりました』とだけは返ってこないつもりでいた。
目を丸くさせてぽかんと口を開けている蛍を見やり、林はやれやれと言うように眉尻を下げた。
「君は、最後までやりたいんだろう? 契約書には湊さんが直々に手をかけてくれるという文言はなかったし、そのうえで依頼をしたのは私です。君が担当するということに文句はないし、そういうことに役に立つのであれば……いいですよ」
言って、ふぅと深く林は息をつく。
「あ……」
林が言うなにもかもがすぐに飲み込めない。信じられない。
「ご
深く深く温情への思いを込めて、ハリがゆっくりとお辞儀をする。
今度はそちらへ目を向けて、林は渋面と苦笑の間のような表情を作った。
「一度預けたものです。こうなったら、お任せしますよ。どういうものなのかわかりませんが……失敗したっていいです。ただし本当に、最後まで彼がやってください。君が自分で、やると言ったんだから」
最後の一言は蛍へ向けて、念を押すように言う。
蛍はどきりとした。ハリがやってみるかと誘ったときのような、あのときの感じとは比べものにならない重たい感情が、どしりと胸の真ん中に落ちてきたような心地だった。
これを責任とでも呼べばいいのだろうか。怖くもあったが、なんとも誇らしいような心地もある。
間にハリを挟まない、林から蛍へ託されたものだ。
「ありがとうございます」
もう一度、蛍は深く頭を下げた。
じわじわと熱のようなものが胸中に広がっていた。
ありがたい。とても。林の判断に、林自身の利はあまりに少ない。純粋に彼の温情によるものだ。
林龍二という人をさほど知らない。けれど今回の依頼人が彼で本当によかった。心底からそう思っていた。
「最後までやります。約束します」
林が言うように、失敗するかもしれない。うまくできないかもしれない。いつまでかかるかもわからない。
だけどきっと最後までやろう。どんな結果になっても、これだけは。
蛍が顔を上げると、林は生真面目な顔ながら笑みを浮かべて、ひとつうなずいてくれた。
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