第32話 助け舟


 蛍は大きく息を吸い込んだ。

 林が、実生活で関わりのない明確な『他人』でよかったと思っていた。

 もしそうでなかったら、内心でどう思っていようとまだ言葉を続けようとは思えなかっただろう。

 こんな風に反論しようだなんて思わず、全部飲み込んで、誤魔化ごまかすような笑みを浮かべていたに違いない。


 蛍はなるべく腹に力を込めて、言葉を返す。


「まだ聞いていないのに、そんな風に言わないでください。お兄さんはそんなこと、思ってないはずです。……恨み言なんて」


 きっとあの石は言わない。


 林が蛍を見返して、眉根まゆねを寄せた。


「だから、なぜ君がそう言い切れるんだ。兄がどんな生活をしていたのか、わかっているのか? 今の話を聞いていたのか?」

「林さん」


 わずかに強くなった林の語気が怒りをまとう前に、ハリが言葉をはさんだ。


「どうでしょう。もう一度、考え直してみてはもらえませんか?」

「……なぜです。考え直す必要は、私にはありませんよ。キャンセルができないなら、料金はお支払いします。だから……」

「その料金、あなたは最初、躊躇ためらいも見せずに契約書にサインなさった。そんな安い金額ではないですよ。石の曇りを取るだなんて、それだって音や声が聞こえる話と同じくらいあやふやで怪しいものです。なのに林さんはそうなさった」

「それは……」


 林の声が、狼狽うろたえるように力を失った。

 先を続けたのはハリだった。


「それは、あのブレスレットが大切だったからじゃありませんか。元の状態に戻った、お兄さんが愛していた形で受け継ごうとお考えだったんじゃないでしょうか。いえね、違ったらごめんなさい。すぐあれこれ勝手なことを想像していまうの」


 困った自分を笑うように、ハリが表情を柔らかくさせる。

 目元に刻まれたしわが深くなる。

 その表情を林は、どこかおずおずと見ていた。


 蛍は明らかにおずおずと見ていた。

 ハリが自分の擁護ようごをして、尻拭いをしてくれているのを感じていた。


「でももし、そうならね。差し出がましいことを言いますけれど、お兄さんのお気持ちも受け継いで差し上げたらどうでしょう。物言わぬ品に、優しい記憶を重ねて大切にするのももちろん素敵なことですが……実は物を言う品に誰も知らない思いを残して大切になさるのも、素敵だと思いますよ」


 なんて、勝手な話ね。

 ハリはそう言って笑った。

 トゲトゲしさのあまりにもない高齢な女性の物腰に、つられたのだろうか。林は勢いをそがれたように渋面じゅうめんになって、広い肩を落とす。


「私は兄の本音など……知りたくは……」

「この子の言うように、厳しい言葉ではないかもしれませんよ」

「だったらなおのことです。これ以上兄に、無理して励まされたくなどない。惨めなだけです」


(惨め……)


 喜び、励ます言葉に傷ついたこともあったのだろうか。

 蛍には想像に難くない。そういうこともある。身に覚えもある。

 人の好意や善意が突き刺さることもある。

 それは思いの外痛い。だけど。


「み、惨め、でも」


 それでも蛍は身を引けなかった。


「すいません。俺が言うようなことじゃないかも。でも。どうか、聞いてもらえませんか。俺、頑張りますから。きっとあの石の声を聞こえるようにしますから。あそこに残ってる、思い、みたいなものを……聞かないでなかったことにするのは……もったいない。せっかく」


 聞こえるようになるはずなのに。


 本当だったら絶対に聞こえない、もう二度と聞くことができない。すでに亡くなった人の気持ちが。


 それをもったいないなんて言葉で言っていいのだろうか。わからない。失礼かもしれない。

 だけどあの綺麗な音が誰にも届かずに……誰よりも近しい存在であるはずの林龍二に届かずに消えてなくなるのは、考えただけで胸が苦しい。


 林がまたいぶかしむように表情を歪めて蛍を見た。


「……頑張るって、君が、なにを?」

「あ……」


 目が合って、しまったと蛍は思う。そういえば蛍が作業を担当していることを、林にはまだ伝えていない。

 言ってはいけないことを口にしてしまっただろうか。ハリに不利益を被らせてしまうだろうか。失態しったい背筋せすじを硬くさせて横目に祖母を見ると、ハリは穏やかな調子のまま皺のある小さな手で蛍を示した。


「お兄様のブレスレットを調整しているのは、この子なんです」


 林が驚いたような顔をする。

 咄嗟とっさに蛍は立ち上がって、深く頭を下げていた。


「す、すみません、勝手に……!」


 やってみるかと持ち掛けたのはハリだ。でもやると言ったのは蛍だ。

 一度は気味が悪いなどと言ったのを、簡単に許してくれて。預けてもらったのだ。


 ああどうか、取り上げないでほしい。やめさせないでほしい。

 頭を下げながら、蛍はすがるような気持ちでそう考えていた。


 見えない方から、ハリの穏やかな声が続く。


「この子は私の……弟子でしてね。調石師として本当に駆け出しの、修行中の子なんです。林さんから預かったブレスレットは、とても柔和な石のようだったから。経験のためにも、この子に任せたんですよ」


 弟子はちょっと盛った話だ。まだ弟子入りなどしていない。

 ハリの言葉はどんな風に林に届くのだろう。不安で蛍は顔が上げられなかった。

 しばらく静かな沈黙が続く。誰かの呼吸の音が聞こえそうなほど静かだった。


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