第30話 踏んだり蹴ったり



 それから数日後のことだった。


「え……? それって、つまり……どういうことですか?」


 大学が終わる時間にスマートフォンに連絡が入って、蛍はハリに呼び出された。元々ハリのところに行こうと思っていたからなんの疑問もなくやってきたのだが、そこにさらに現れたのが……林だった。


 兄の遺品であるブレスレットを預けた男だ。

 いかにも体育会系の雰囲気をまとった彼は、やはり前回と同じく窮屈きゅうくつそうに着込んだスーツ姿で応接間のソファに座っている。

 表情は前に来たときよりもずっと暗く、重苦しい。そして表情以上に重苦しい声で、改めて言葉を変えて、思わず聞き返した蛍へ告げた。


「つまり、依頼を取り下げたいということです」


 林竜二が言う依頼とは、兄虎一のブレスレットを預けている件に他ならない。

 蛍は面食らって言葉に詰まる。

 自然と、ハリの作業部屋に置いたままになっている茶色と金の石をつないだブレスレットを思い描く。


 林が依頼を取り下げたら、当然あのブレスレットは彼に返却することになるだろう。そうなったら、蛍はもう石琴を弾いてあの小さな石の粒の音を聞くことはできなくなる。


 当然のことだ。あれは預かり物なのだから。

 だけどもう聞けないのだと思うと……。もう二度と、やっと聞こえ始めたあの音の続きを聞くことができなくなるのだと思うと。

 胸の辺りがきつく締め付けられる。


 だが依頼人がそうしたいと言い出したのなら、もう蛍にはどうすることもできない。

 先日のコンビニ前でのことといい……ああ、なんだかなんでもかんでも、うまくいかない。


「すみませんが、理由をうかがってもよろしいですかね?」


 蛍と共に、林を向かい合って座っていたハリが、やんわりとそう切り出した。

 言われて今度は林が面食らったように言葉に詰まる。その様子を蛍は、はらはらした気持ちで見守るしかできなかった。


「……縁石寺の住職に聞いたんです。あなたのなさることの詳しい内容を」

「調石のことですか?」

「名前は……すみません、忘れました。ですがあなたの仕事は、石の曇りを取るようなことではないとうかがいました」


 開いた膝の上で軽く拳を握って、林は揺るぎない新年を現しているかのように背筋をぴんと伸ばしている。

 対するハリの背筋もまた綺麗に伸びていて、蛍だけがソファの上で肩を丸めていた。


「湊ハリさん。あなたのなさる仕事は、石の中に入った持ち主の……声を聞くこと…てであるとか」

「ええ。そうです。ご説明が足りずに申し訳なかったですね。あなたは何より、あの曇りが気になっているご様子だったから」

「それは、そうです。その通りです。ですが……」


 先を続けたものかと、林が迷うように間を置いた。

 やがて一度唇をんでから、林は口を開く。


「勝手に、兄の声を聞かれるのは……困ります」

「そうですね。あたしが失礼でした。申し訳ないことです」

「いえ、その。謝ってほしいわけではないんです。誤解しないでください」


 ハリの言葉に、林が慌てて身を乗り出した。


「責めようと思っているのではありません。ただ、兄の声を聞くであるとか……そんなことになるのなら、依頼はもう結構だと……」


 これ以上作業を進めることなく、あれを返してくれと。そういう要求だった。


 数秒の静けさが通り抜けていく。

 一度依頼したものを取り下げることに、気後れを感じているらしく、林はぎこちなく決まり悪そうな物腰だった。


 そのさまを一通り眺めてから、ハリは小さく首を傾げた。


「あれこれ聞いてごめんなさいね。よろしかったら、お兄様の声を聞かれたくない理由を教えていただけないでしょうか」

「それは……」

「プライベートなことですから、聞かれたくないと思われるのは当然だと思いますよ。あたしたちはそれを、勝手に盗み聞きしてしまう。そのこともよくわかっています。でもだからこそ……聞かれる側である林さんのお気持ちが聞けるなら、是非ぜひ聞きたいの。そういうことを教えていただく機会は、あまりないですから」


 参考までに、というようなハリの物言いに、林がうろたえたように視線を彷徨さまよわせる。足元へと落ちた視線は中々上がってこない。


たとえばですけれど、あのブレスレットに入っているものが林さんのお兄様の声だったとして。それを聞いてみたいとは、思わない?」


 ハリがもうひとつ重ねて問う。

 林の眉間に深くしわが刻まれた。


 あまり言いたい話題ではないらしい。だが蛍も、ハリが尋ねたことには興味があった。

 どうして聞きたくのないのだろう。もうこの世にはいない身内の、遺言のような声が聞けるかもしれないのに。


 蛍が想像できた答えは『とても信じられないから』だった。石に持ち主の声が入り込んでいる、なんて言われてにわかに信じられる人は非常に少ないだろう。蛍だっていまだに半信半疑なことろがある。


 調石師についてたくさん教えてもらった蛍ですらそうなのだから、なにも知らずにいた林にとってはもっと信じがたい話だろう。

 眉唾の心霊現象に付き合わされると思われたって無理はない。


 だがしばらくの沈黙ののちに林が答えたのは、蛍の想像とは違っていた。


「……聞きたくないからです。兄が残した言葉はきっと、兄の苦悩の言葉でしょうから」


 林は一度まぶたを伏せた。感情をこらえるように。

 その瞼は微かに震えていたように見えた。

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