第17話 仕事
どれくらい、ハリは石琴を奏でていただろう。
蛍は我に返ったときには、あのお礼を繰り返す声は遠のき消えていき、部屋にほのかに響いていた微かな音の振動もなくなっていた。
代わりに、女性のすすり泣く声が続いている。依頼人である赤羽夫妻の、妻のほうの声だ。
「……その指輪が、母の結婚指輪だったことは、最初にお会いしたときにもお話しましたが……母はそれを、亡くなる瞬間もずっとつけていたんです。父と母はは昔からとても仲が良くて……父が亡くなったときは、それはもう落ち込んで……それからすぐに、体を壊して……」
そしてすぐに、意識がほとんどなくなってしまったのだと彼女は語る。
病気が元で脳に障害が起こってしまい、起きている状態であっても体を動かすことはほとんどなく、声を発することもなくなっていった。最後は時々目が動くだけの状態で丸一年、病院のベッドの上で過ごし、静かに息を引き取ったらしい。
最後の一年、何度も会いにいった。なんとか意識を引き止めようと様々な話をした。けれどそれが弱った母に届いているのかもわからないまま、辛い気持ちばかりが積み重なってしまって。そんな精神状態の中で母を見送ったものだから、ずっと気がかりだったのだと言う。
「私の話なんて、母には聞こえていなかったんじゃないか。あんなに必死になっても、意味なんかなかったんじゃないか。……私が時々、疲れた顔をしていたのを……うんざりしていたのを、母に見られていたんじゃないかって……」
そう思っていたとき、母親の結婚指輪がひどく濁って変質していたのを見つけて、知り合いのジュエリーショップ経営者に相談に行った。そこでハリを紹介され……想輝石のことを聞いた。
母の思いが入っているのなら、最期の一年の母の『本当』の気持ちが聞けるのではないかと、そう思って依頼をした。
蛍は後ほど、ハリにそう補足説明を受ける。
「辛かったとか、寂しかったとか……苦しかったとか……声にできなかった母の気持ちが聞きたかったんです。私を叱る内容でもよかった。弱音でも、遺言でも……なんでもよかったのに……」
ああ、と妻は両手で顔を覆い、わあと泣き出してしまう。
その背を夫が慰めるように何度も撫で、さすっていた。
蛍はトレイを抱えたまま、すでに光ることも鳴ることもやめた小さなルビーの指輪を見つめる。
真っ赤な宝石の奥のほうには、ちらちらと遠くの星が瞬くような、微かな光が見えていた。あれが、彼女の母親の気持ちなのだろうか。
今にも消えそうな光は、声の印象によく似ている。本当に、掠れてしまいそうな気持ちだったのかもしれない。
そんな気持ちが石に溶け込んで、残した言葉は……ただただ、感謝の言葉だけだった。
ひとしきり泣いたあと、奥さんのほうは落ち着きを取り戻し、夫に支えられながら帰っていった。
「ありがとうございます」
玄関で並んだ夫妻は深くハリに頭を下げていた。ハリは穏やかな笑顔で見送る。あのリングケースは、大事に奥さんの鞄の中にしまわれていた。
車の音が完全に聞こえなくなったところで、ハリは腰をさすりながら踵を返した。向かったのはリビングだ。
「はー、腰が痛い……薬忘れてたよ。藍さん、ごめんねぇ」
苦笑するハリへ、わかっていますとばかりに藍が水の入った小さなグラスといくつかの錠剤を差し出した。
ハリはそれを受け取って、腰を痛めている人とは思えぬ勢いのよさで飲み込む。そうしてからまた改めて、痛いと腰をさすった。
「ああそうだ、今日は早かったんだね、蛍」
思い出したとばかりに振り変えられて、蛍は小さく飛び上がった。
ぼうっとしていたから、驚いた。
「あ、ああ……うん。午後の講義、なくなったから。連絡しないで来ちゃってすいません、藍さん」
言葉の後半は藍へ向けて。
藍は大丈夫だと言う代わりに、微笑を浮かべて首を横に振る。
「そうだったの。お昼これからだけど、一緒に食べてく?」
「いや……買ってきちゃった。そうだ、ポテト買ってきた。あとクリーニング」
来客中に乱入はしたけれど、頼まれたことはちゃんとやってきたのだとアピールしておく。
ハリは食卓の上に置かれたファーストフードの袋を見て、わあ、と目を輝かせた。
「ありがとう、蛍。時々無性に食べたくなるんだよねぇ、これ。藍さん、お昼これも一緒にいい?」
子供のように無邪気に問うハリへ、藍はゆっくり頷くと昼食の支度にとりかかった。といっても、今日の昼食はサンドイッチだったらしく、もうできあがっていたようだ。台所でサランラップをはずされた大皿が、食卓の中央に置かれる。
タマゴサンドとツナサンド、トマトサンド。それにポテトフライというメニューのハリと藍と一緒に、ハンガーガーとポテトフライを並べて蛍は昼食をとる。
食べながら問う。
「さっきの。ああいうの……ずっと仕事にしてるの?」
「赤羽さんのこと? まあそうだね。この前の、お兄さんのブレスレットを預けてくれた林さんみたいに、依頼を受けて。今日の赤羽さんみたいに、お返しする。その繰り返しだよ」
「みんな……」
みんな、ああやってお礼を言うのだろうか。泣きながら。もういなくなった人の声を聞いて。
蛍が問う言葉に迷っていると、ハリが先回りしてくれた。
「いつも感謝されるわけじゃないよ。聞きたくなかった言葉を聞かされる人だっているし……結局信じないで帰る人もいる。ペテンだって言われたことだってあるし。でも逆に、こっちが困るくらい感謝されたり、泣かれたりすることもある」
でもまあ仕事なんて、大袈裟にすればみんなそんなもんだろう、とハリは言う。
いい結果になることもあれば、悪い結果になることもある。思いがけない反応が来ることもある。良くも悪くも。
「そう……なんだ」
蛍にはまだわからないけれど。ハリが言うのならそうなのだろうとなんとなく思った。
「何年くらいやってるの?」
「もう何十年もだよ。三十のころに始めたから……ああ、でもまだ人生の半分とちょっとくらいか。まだまだだね、あたしも」
カラッと笑うハリの声はさっぱりしていて明るい。
「藍さんは? いつからなの?」
「藍さんは二年くらい前からだよ。色々あって、今はあたしのところに通いながら修行中だ」
「石を……藍さんも、調整、するの? さっきみたいに……」
ハリか藍か。どちらに問いかけているのか自分でもわからないまま、蛍は疑問を口にする。ちらりと藍を盗み見ると、こちらをちょうど見ていた藍と目が合って、彼女ににこりと微笑まれた。浅く頷かれる。
「まだ……あまり、上手では……」
微かな愛の声は、ないです、まで言葉にならなかった。
蛍はハンバーガーを大きく口に放り込んで、思案する。
思い、巡らせる。
赤い宝石の中で光っていたもの。石琴につられて聞こえていた声。あれを……ハリと藍はいくつ見たのだろう。いくつ聞いたのだろう。
どんなだった? なにを思った? どういう気持ち? それは……それは、誇らしいのか。虚しいのか。不服なのか。なにもないのか。なにかあるのか。
聞くより……。
「あのブレスレット……どっちが、直すの?」
口の中身を飲み込んで、湯呑にもらったほうじ茶を飲んでから、そう聞いた。
「まだ決めてないんだよ。あたしは今日まで、さっきのルビーで手一杯だったし。藍さんはまだ別の石を担当してる最中だ」
だからどう、とはハリは言わなかった。けどたぶん、蛍が言いたいことはもうわかっているのだろう。それでもそこまで、祖母の察しに頼るわけにはいかない。
「あのさ。この前言ってたけど……俺がやってみるっていうのは、まだありなの?」
聞いてから、窺うように蛍は視線を持ち上げた。ハリがどんな顔をするのか少し不安だった。ちらりと見やると、ハリがあのすくみ上がるほど真っ直ぐな目でこちらを見据えていた。
口元には、にんまりとした笑みを浮かべている。
「あたしの石琴を貸してあげるよ。減るもんじゃない。試してみたらいい」
そう言って、ハリは手慣れた仕草でポテトフライを口へ放り込んだ。
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