第18話 音
応接室に置きっぱなしになっていた石琴を回収し、蛍はハリと一緒に一回にある和室へ入った。祖母の家でバイトもどきをすることになった最初の日、石琴を見せてもらった部屋だ。
壁に沿わせて置かれた広い座卓の上には漆(うるし)塗(ぬ)りのような光沢を持つ小道具入れのようなものがあって、その上に、あの小さな緑色の石が置かれている。ハリの手製らしい、手の平サイズの座布団に乗って。
石琴を座卓に置いた蛍へ、ハリはその前に座るように言う。
どう座ったものか。一瞬まごついて、結局蛍は座布団に正座した。こちらは人間用のものだ。
座布団の綿は少しへたっていて、持ち主が……つまりハリが、長い時間ここに座っていたことを物語る。
「前は二階のあたしの部屋で仕事してたんだけどね。退院してからは、寝るのも仕事するのもここ。階段がきつくてねぇ」
「ああ……そっか。二階上がれないんだ。布団とかは?」
「押し入れの下に入れてるよ。車がついてるすのこを玉緒に入れてもらってねぇ。便利だよあれ」
とはいえ。そこから布団を持ち上げて敷(し)くのは決して楽ではないだろう。
「……来てるときは、敷いていくよ。俺ならいいでしょ。そっちがバイトの本来の仕事なんだから」
藍にやらせるのは悪い、それくらいはできる。そんな気持ちでいるのだろうことは、人の気持ちに鈍い蛍といえど察しがついた。
そういうところが母に似ていると少し思う。変なところで意地になるくせに、変なところでは気安い。
その気安さを覗かせて、ハリがにまりとする。
「そう? じゃあお願いしちゃおうか。せっかくバイト代払うんだしね」
「うん。二階の荷物下ろしてくるとかもやるから」
「ああそうだね、そっちは今度頼むよ。上げてもらいたいものもあるし。でも、今は……」
こっち、とハリが蛍の傍(かたわ)らに膝立ちになる。
座布団を譲ろうとしたが、必要ないと断られた。
「最初に、簡単に説明しておくよ。石琴は楽器じゃない。曲を演奏したり、誰かに音色を聞かせるためのものじゃないんだ。役割はどっちかっていうと、音叉(おんさ)に近い」
音叉、わかる? とハリが問う。
蛍は頷いた、小学校のときに音楽の授業で見たきり、現物に触れる機会はなかったが。
細長いU字に棒のついたような形状の金属製の道具だ。響かせると一定の音がする。それを目安に、楽器の調律を行う。そんな風に習った記憶がある。
「石の中でわだかまっている『想い』は、いわばどんな声で話したらいいかわからない状態なんだ。音がわからなくなった気持ちに、人の耳にも聞こえる音を聞かせてあげる。色々とね。この音はどう? この音なら聞こえるよ。こっちは? そんな感じに」
身振りを交えて話すハリの様(さま)は、どこか子供をあやすようにも見えた。
「そうやっていくうちに、石が少しずつ応えてくれるようになる。自分から音を出そうとしてくれるんだ。そうなったら、今度はこっちの音を近づけてあげる。石が出したい音に近い音を探すんだ。そのうち石も音に合わせてくる。そして想輝石と石琴の音が、ちょうど重なったとき、それは綺麗な音がするんだ」
おとぎ話を語る魔女みたいだ。徐々に説明に熱がこもってくるハリを見て、蛍はそんな感想を抱く。言ったら気を悪くするかもしれないから、実際には言わないけれど。
「そのときの音があたしはすっごく好きでねぇ。今でも聞くたびに胸が弾むよ」
「……なんか楽しそうだね。仕事なのに」
「楽しいから仕事にしてるんだよ。ばあちゃんになってもね。やめらんないんだ」
にっ、と唇の端を釣り上げて、ハリは頬にしわを刻む。
「蛍もきっと気に入るよ。いや、気に入ってくれると嬉しいねぇ。あたしの大好きなものを、あんたが好きになってくれたら、そりゃもうとびきり嬉しいだろうからねぇ」
「まあそりゃ、そうだろうけど」
「気に入らなかったら、それはそれでいいんだよ。玉緒なんかは興味もなかったしね。試しにやってみようって思ってくれただけでも、ばあちゃんは嬉しい」
「そ、そう」
ハリがあまりに無邪気な顔をするものだから、なんだか恥ずかしくて蛍はハリから顔を逸らした。仕事の説明をしているというより、趣味の話をしているみたいだ。
もっともハリにとっては、どちらもさほど変わらないのかもしれないけれど。
「さて、じゃあ。指を置いて。鳴らしてみて」
はやる気持ちがそうさせるのか、ハリは軽く蛍の背を叩いた。聞かせてくれとせかすようだ。
頷いてから、並ぶ石の鍵盤の上に手をかざし。指の行き先に迷って、一回握り拳にしてから。ハリがやっていたのを思い出しつつ、人差し指でつつくように、ひとつ石を叩いた。
コン、と鈍い音がする。
あ、違う。とすぐに思った。ハリが奏でた音とはまるで違う。これはただの物理的に生じた、小さな衝突音だ。
「もっと軽くでいいよ。指の先を置くような感じで。叩くのと触れるのの中間、って力加減かね。それと、指先を弾ませるみたいに離さないほうがいい。勢いが強くなりすぎて、強弱の調整が難しい」
「……わかった」
ピアノのレッスンでも学んでいるような心境だ。
蛍は言われた通り、今度は指先を離さずに石の鍵盤へ指を置く。
なんの音もしない。弱すぎたのかと思い、もう一度。ほんの少しだけ強めに。
「あ」
わずかに。ほんの一瞬だったけれど、それらしい音がした……気がする。
思わずぱっとハリを振り返った。
ハリは目を細めて、嬉しそうに微笑みを浮かべていた。
「いいよ。今の感じだ。もう少しだけゆっくり、触れてごらん」
言われた通り、ゆっくり。触れるのと叩くのの中間の力を、意識して。
――――。
音がした。震えていて、すぐに消えてしまったけれど。完全ではないと蛍にもわかるような音だけれど、それでも石琴の音だ。
「……聞こえた?」
ハリが尋ねる。蛍は細かく何度も頷いた。我ながら、目が輝いている気がして気恥ずかしい。が、赤面したときと同じで、自らの意志で堪えられない。
だがハリは優しい表情のまま、首を横に振った。
「あたしにはまだ聞こえてない。鳴った気配は感じたけどね」
「う……」
言われて、蛍は肩を落とした。即座に目の中から輝きが消える。
鳴ったと思ったのに。まだこれは、石琴の音と認められないものなのだろうか。
それはそうだ。誰にでもできることじゃないだろう。ハリだってきっとたくさん練習したのだろうから。
「なにを落ち込んでるの。そうじゃない、できてないんじゃなくて、あたしよりできてるってことだよ」
「……へ?」
ハリが蛍の肩を叩く。笑い飛ばすような強い勢いだ。
「あたしには聞こえてない弱い音でも、あんたには聞こえてる。やっぱりね。あんたは小さい頃から耳がよかったから。素質があると思ったんだ」
「いや、耳は普通だけど?」
聴力検査でも、特別いい結果が出たことはない。加えて絶対音感だとか、そういう感覚にも優れているわけではない。
「普通なもんか。他の音はそうかもしれないけど、あんた、石の音がよく聞こえてるよ」
「石の音……?」
なにも知らないうちに聞かされていたら、眉を顰めるような言葉ではある。石は話さない。自発的に鳴ったりしない。
だが今なら、ハリが言っていることの意味がわかる。
「調石師には大事な素質だよ。石の中の小さな音を聞いて、それを調整するんだからね。あんたには石の中の光がちゃんと見えてるようだけど。それも大事な素質のひとつ。音を聞いて、光を見て、それに合う音を探すんだ」
やってごらんよ。すぐにわかるよ、あんたなら。
ハリの力強い言葉が蛍の真ん中に太鼓判を押す。
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