第16話 声


 両手のふさがった蛍の代わりに、藍が応接室の扉を開けてくれた。

 その瞬間、向かい合ったソファの上で、腰を落ち着けていた全員が蛍を振り向く。


 いるのは三人だった。ひとり、手前のソファに腰かけているのはハリだ。かたわらには石琴がある。

 その向かいの席に、ハリと同じくらいの年だろう老夫婦が座っている。男性の方はがっちりとした四角い体格で、グレーの……といってもただグレーと呼ぶには質の違う色合いのある、上等そうなスーツを着ている。女性のほうは白いブラウスと黒いタイトスカートだが、こちらも多く飾りこそないものの、身に付けた装飾品とあいまって品のいい高級感をただよわせるよそおいだった。

 あの車、そして玄関のあの靴の持ち主として、あまりに違和感いわかんがない。


「し、失礼します」


 緊張に一瞬言葉が詰まったが、蛍はなるべく自然さを取りつくろって、ソファの間にあるローテーブルのかたわらにひざをついた。

 先日藍がやっていたさまを真似して、奥の席から紅茶のカップを置く。

 なにもなくなったトレイを小脇に抱えると、ハリのほうを見た。

 ハリは蛍を見て、軽く頷く。


赤羽あかばねさん。この子、私の助手なんですけれどね。少し同席させていただいてもよろしいでしょうか?」


 柔らかな物腰でハリが、客である老夫婦へ問う。

 身を寄せ合うようにして座っていた赤羽夫妻は一度顔を見合わせてから、めいめいに深く頷いた。


「ええ、もちろんです。構いませんとも。ですからどうか……急かしてすみません、どうかすぐにでも、聞かせていただけませんか?」


 妻の手を両手で握り締めて、夫のほうがわずかに身を乗り出す。

 妻の方はじっと机の上を見つめていた。そこには開いたままになっている、リングケースが置かれている。中央には銀色のリングがはまっていて、リングのてっぺんには真っ赤な宝石が輝いていた。

 ルビーだ。


「わかりました。……蛍、そこ座ってな」


 柔らかな物腰で赤羽夫妻へ言葉を返すと、ハリは囁くように蛍へ告げた。ぽん、と自分の隣を叩く。

 蛍は素早くそこに滑り込んだ。ハリのわずかな挙動も邪魔しないように。


 ハリは傍らの石琴を取り上げると、テーブルの上に置いた。数日ぶりに見たそれはやはり前と印象変わらず不思議な存在感をまとっている。

 規則性があるのかないのかわからないけれど、石の鍵盤が綺麗に並んでいる。その上に、ハリの指がそっと置かれた。


 右上の鍵盤を、薬指が軽く叩く。叩くというよち、指先を置くという感じだ。

 続けて右下、左下。その様はピアノの演奏によく似ている。けれどピアノで曲を奏でるほど、指先は忙しく動かない。

 ひとつ、ひとつ。石の鍵盤に触れて、耳には聞こえない音をたっぷりと鳴らす。それから次の音へ。また、次の音へ。


 部屋はとても静かだった。赤羽夫妻はどちらも息を殺して、リングケースの指輪を見つめている。

 蛍は盗み見るように、ハリへ視線を向けていた。


 不思議な光景だ。奇妙と言うほうが適切かもしれない。

 音が鳴るはずのない構造をした、おかしな楽器のようなものを、音が鳴っていないのに奏で続ける。


 けれど。


 ――――。


(音……)


 ポーンとも、トーンとも、リーンとも違う。けれど全部に似た音が、微かに蛍の聴覚を震わせる。


 ――――。

 ――、――――。――――……――。


 ひとつ聞こえると、次の音はもっと明確に耳に届いた。

 まるで耳の中で直接音が鳴っているかのような、不思議な体験だ。

 また次の音、次の音。

 ハリが石琴に触れると、わずかに一拍遅れてから音が聞こえる。


 それがいくつか続いたころだった。


 と……う。


 そう、聞こえた。

 蛍は思わず息を止めた。

 ソファの上で、赤羽夫妻も呼吸を止めたのがわかった。


 今のは音じゃない。声だ。石琴の音にとてもよく似た音質をしている。でも、人の声だ。女の人の。


 り……と、う。


 声が繰り返す。

 そのうちに、妻のほうが両手で口元をおおった。みるみるうちに、下がった目尻から涙があふれ出す。


(ああ……これ……お礼だ……)


 はっきり聞こえる前に、蛍はなんとなく感じとった。

 かすかな女性の声が聞こえるなんて、本当なら背筋を震わせて怯えるような出来事だ。なのに少しも怖い感じはしない。むしろ暖かい気持ちが胸にじわりと広がるようで、聞いていて、泣き出しそうになる。

 優しい声なのだ。優しい声が何度も何度も、弱くて今にも消えてしまいそうな声で、お礼を言っている。


 ありがとう。ありがとう。

 あなたたちに。みんなに。たくさん、ありがとう。本当に、ありがとう。ずっと、ありがとう。


 はっきり言葉が聞き取れるようになると、その声がどんな声なのかもはっきりしてくる。重ねた年を感じさせる、老女の声だ。しわがれていて、しぼり出すように語りかけてくる。

 口元に浮かべているだろう微笑みが目に浮かぶような、優しい語り口調だ。


「お母さん……っ」


 ついにむせび泣き出して、妻が震えた声でそう呼んだ。

 ハリは夫妻のようすを伺いながらも、まだ石琴を奏で続けていた。

 そのときようやく、蛍は気が付いた。ハリが石琴に指を置くと、微かな音に応じるように指輪のルビーの中で小さな光が浮かび上がる。炎がゆらめくような光だ。その光が融けて……あの声になる。

 ありがとう。


 これが想輝石か。

 蛍はそれを肌で感じる。


 誰かの想いが入り込んだ石。

 それを調律して、聞かせるのが……調石師。


 ハリがずっと続けている、不思議な仕事。

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