第6話 条件

 さて、とハリがここだけはぎこちない動作で立ち上がろうとする。

 明らかに腰を庇っている仕草に蛍は反射的に手を伸ばして、その体を支えた。

 そのまま祖母を抱えるようにして、居間に戻る。


 よたつきながらも自力でソファに腰を下ろし、ハリは今度は蛍に頼みたい仕事内容の話を始めた。

 自分や藍では賄えない力仕事、日用品や食料品の買い出し、階段の昇降ができないハリの代わりに荷物の上げ下ろし。使いっ走りに、ちょっと体力のいる類の掃除……などなど。

 ようは雑用係だった。

 退院してからの数日は藍にお願いしていたが、藍は家政婦として来ているわけではないのだから申し訳なくてしょうがない、とハリは肩を落としていた。


 それを聞いていた藍本人は、気にしなくていいのに、という顔付きと態度だったが、そんなに甘えられないとハリは言う。

 腰も思ったより回復が遅くて、あとどれだけ藍の手を煩わせるかわからない。

 だったら安いバイト代で男手を雇おうと思いつき、話が蛍まで回ってきたとの経緯も聞いた。


「じゃ、週に3回、蛍がこられそうなときか、あたしが用事をお願いしたいときに……ってことで」


 バイト代は時給五百円ということになった。

 母から別途小遣いアップをしてもらうことも話したが、それとこれは別だとハリに諭された。少なくても報酬は大事。そういう信条らしい。

 代わりに、望めば夕食がつく。

 当日でも連絡さえすればキャンセルも、急なシフト入りもOK。来る時間、帰る時間も自由。なんだったら泊まったっていい。

 薄給だが、条件はいい。

 なにより職場は祖母の家だ。見知らぬ人の中で、社交辞令を並べながら愛想笑いをする必要もないし、客という立場を振りかざす面倒な存在に辟易することもない。

 制服もない。遅刻もない。体裁もない。ノルマもない。


(あと、唯一の仕事仲間は……かなり美人)


 藍のことだ。

 ちらっと蛍は藍を盗み見る。


 肌が白く、髪は黒い。ひとまとめにした髪は、後頭部で髪飾りによって留められており、ほっそりとした首筋が目を引く。


 体つきは細く、背が高い。蛍よりわずかに低いくらいだ。蛍の身長は百七十センチだから、彼女はそこから数センチ引いたくらいの背丈だろう。

 ひどく物静かで、びっくりするほど話さない。でも表情は豊かだ。声の代わりに顔つきがよく語る。

 細めの眉に、切れ長だけど二重の目。化粧のせいなのか唇は艶やかだ。

 首周りの開いた黒いニットと、タイトなロングスカートはどちらも無地で、その華やかさのない装いが逆にほのかに色気めいたものを匂わせる。


 うん。悪くない仕事だと思う。


「とりあえず明日は来るよ。大学、終わるの早いし。ついでに買ってくるものとかあったら、連絡入れといて」


 ハリと、それから藍にも言う。

 藍は今しがた、蛍の連絡先を登録したばかりのスマートフォンを握り締めたまま「わかりました」とばかりしっかり頷いてみせた。


「蛍も、なにかこっちに要望があれば遠慮なく言うんだよ。じゃないと面倒事も頼みにくくなっちゃうから。あたしに遠慮させないでくれよ」


「しないくせに」


「なーに言ってんだ、するよ。ちょっとくらいはね」


「ちょっとじゃん」


 蛍が苦笑すると、ハリはにんまりとする。

 嬉しそうに見えるのは、たぶん気のせいではないだろう。バイトという形ではあれど、孫が家のことを手伝いに定期的に来ることになったのだ。

 蛍は孫を持ったことはないが、祖母としてはたぶん嬉しかろうと想像する。


 そういう意味でも、このバイトは『悪くない』。

 祖母孝行もついでにできる。


「蛍が引き受けてくれて助かったよ。でも大丈夫なの?」


 不意にハリが思い出したように尋ねた。

 蛍は振り向いて首を傾げる。


「なにが?」


「バイトだよ。レストランでしてるんだろう?」


「ああ……」


 そういえばお盆のとき、バイトで来られないと母からハリに伝わっているはずだ。バイトの話を蛍から直接したことはなかったが、ハリが知っていても不思議はない。


 数秒言葉に迷ってから、蛍はつい苦々しい顔になって答えた。


「バイトはやめたんだ。ちょっと前に」


 なんで、と聞かれたくなくて蛍はすぐに顔をハリから逸らした。

 ハリはもちろんなにも聞かなかった。


「そうなの。じゃあちょうどいいね。あたしには都合がいい」


 むしろどこか嬉しそうに言って、マジックペンをペン立てに戻した。

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