第49話
「リークちゃん。朝だよー」
優しく声をかけられ緩やかに意識が浮上する。
そっとまぶたを開け、隣に陽乃が寝ていることを確認した。陽乃は母親のような優しい微笑を浮かべ、こちらを見つめている。ふっと息を吐けば相手の顔にかかりそうな至近距離だった。
「おはよ、リクちゃん」
「…………おはよう」
「ふふ、まだ寝ぼけてるね」
クスクスと愛おしそうに笑う陽乃。あまりの安心感と嬉しさに、胸の中から温かい感情が込み上げてくる。素晴らしい一日の始まりだ。
陽乃と同棲生活を始めてまだ三日目の朝にも関わらず、オレたちの間には緊張感や気まずさといったマイナスの空気感が一切ない。数年前から二人で暮らしてきたような馴染みがあった。それも当然のことだろう。オレたちは幼馴染で、お互いに心を開いているのだから……。
「そろそろ朝の準備しよっか。学校に遅れちゃうもんね」
「…………」
そう言いながら起き上がろうとした陽乃の腕を咄嗟に掴み、引っ張ってベッドに寝転がらせる。わっ、と発せられた可愛らしい悲鳴を気にすることなく、抱き枕にするように陽乃をギュッと抱きしめた。胸元から漂う陽乃の頭髪の匂いに安心感を覚える。脚で陽乃の下半身を拘束することも忘れない。全身を使ってギューッと抱きしめた。
「り、リクちゃん!? あ、朝から男の子だねぇ!?」
「……もうちょっと……陽乃と寝たい」
「その気持ちはすんごく嬉しいけどね、学校遅刻しちゃうよ?」
「…………学校、サボる……」
陽乃を抱きしめたまま目を閉じ、本格的に眠る姿勢に入る。あぁ、幸せだ。これから毎日こうしていられる……。そう思うと陽乃を抱きしめる腕に力がこもった。
「リクちゃんたら……。もう、あと十分だけだよ?」
「…………うん」
苦笑いしながらも優しく言ってくれた陽乃にとことん甘えることにする。
陽乃を抱きしめながら眠れるという極上の幸せに浸りながら、オレは夢の世界に落ちていった。
〇
「リクちゃん急ぐよっ! 学校に遅れちゃう!」
結局、20分ほど寝てしまい遅刻の危機に陥っていた。
朝の平和な街中。舗装された歩道で小走りする陽乃を追いかけ、オレはボーッとする頭を揺らしながら小走りする。やっぱりサボりたい……。
そんな中、反対側の歩道で歩くギャル二人組に気がつく。楽しそうに喋りながらのんびり歩くその姿は遅刻を受け入れた猛者の姿だろう。ギャルから連想して星宮を思い出す。胸が張り裂けそうなほど痛くなり、思わず足を止めてしまった。星宮――っ。
「こらリクちゃん! なにしてるのっ」
「陽乃…………」
立ち止まったオレに気がつき、陽乃が慌てて引き返してきた。
「ちゃんとついてこなくちゃメッ、でしょ!」
「ごめん……」
「一体何を見て――――ふぅん」
陽乃の視線がギャル二人組を捉え、瞳に冷たい光が宿り、不満そうに唇が鋭く尖る。
「こんな可愛い彼女がいるのに、あんな感じの女の子が気になるんだー」
「……違う。なんとなく目についただけだよ」
「でも足を止めて眺めていたよね?」
「それは――――っ」
「気になるの?」
陽乃は嫉妬心むき出しの喋り方から一変させ、まるでオレの心を覗き込むような……何かを確認するような尋ね方をした。その雰囲気に居心地の悪さを感じたオレは首を横に振って否定する。陽乃さえいれば問題ない。
「そっか……。じゃあ学校に行くよ、リクちゃん」
「うん」
「はい、手」
陽乃がオレの手を握り、早歩きで先を進む。……子供扱いされているな、オレ。
〇
教室に着いたオレは誰とも話すことなく、そそくさと自席に向かい腰を下ろす。何気なく星宮の席に視線が向かった。当然のことだが誰も座っていない。星宮は未だに学校を休み続けている。今も家で苦しんでいるのだろうか――――。
「考えるな……考えるなよ、オレ」
星宮との関係はもう終わったことだ。お互いに距離を置いてやり過ごせばいい。そう自分に言い聞かせて感情の高ぶりを懸命に抑える。しかし僅かな苦しみも嫌なオレは助けを求めて陽乃の席に視線を走らせ――――「リクちゃん?」すぐ傍まで来ていた陽乃の存在に気づかされる。いつのまに来ていたのだろうか。
「陽乃……? どうして……友達と喋っていたんじゃ……」
「うんそうだけどね、リクちゃんが苦しそうにしていたから……」
「陽乃――――っ!」
冗談ではなく陽乃が女神に見えた。陽乃はオレに何かあればすぐに助けに来てくれるし、慰めてくれる。思う存分に甘えたくなり立ち上がって陽乃を抱きしめようとしたところで、「だ、ダメだよー。ここ、教室だもん」とオレの胸を押し返して恥ずかしそうに拒否を示してきた。
「教室でも構わない」
「私は少し気にするかな……。家でなら、いくらでもいいけど」
「…………陽乃、我慢できない」
陽乃の存在で心を満たしたい。とにかく今は陽乃のことだけを意識したい。
「う~ん、じゃあ頭ヨシヨシで今は我慢してくれる?」
「……うん」
あまり陽乃を困らせたくない気持ちがあるのも事実だった。
大人しく従うことにしたオレは渋々椅子に座り直して陽乃に向けて頭を傾ける。いい子いい子~と鼻歌のように言いながら陽乃はオレの頭を優しく撫で始めた。それとなく周囲から視線を感じるが、どうでもいい。頭で感じる陽乃の手に意識を集中させる。…………気持ちいいなぁ。
〇
「ちょいリク。今、いい?」
昼休みを迎えたので陽乃を誘って屋上に行こうとしたときだ。カナから声をかけられてしまう。カナにはお世話になったので断る気が起きず、頷いてカナについていく。連れて来られた場所は校舎裏だった。人気がなく二人きりになれる。
オレに振り返ったカナは一瞬の戸惑いを見せたが、意を決したように口を開いた。
「アンタさ、春風と付き合い始めたの?」
「…………うん」
「まじかー」
予想していたのに驚きを隠せない様子のカナ。う~んと唸り、何かを思案して次の言葉を選ぼうとしている。オレから言えることは何もないので口を閉ざして待つしかない。
「春風と仲直りしたんだ」
「まあ、うん」
「なんかもう、口もききたくないみたいな感じだったじゃん」
「…………」
「あれみたいな感じ? 母親にキレてしばらく口をききませんアピールする子供みたいな……」
割と的確かもしれない。何もリアクションできないオレを見て、カナは「あー……」と納得したように声を漏らす。恥ずかしく思うけど言い訳する気にもなれなかった。
「率直に聞くけどさ、彩奈のこといいわけ?」
ドクン、と心臓が跳ねた。
そのことを聞かれるだろうと予想していたが、それでも全身の血が冷たくなる。
「未だに事情がわかんないけど、彩奈は――――」
「もう終わったんだよ」
「……え」
「その話は……もう終わったんだよ」
カナの言葉を遮り、踵を返す。
「ちょっとリク!」
「もうその話はやめてくれ!」
「――――ッ!」
振り返らずに叫ぶ。背中越しに息を呑む気配が伝わってくる。
カナには本当に世話になった。感謝はしている。
しかし、それとこれとは別だ。
首を突っ込んでくるな――――。
「リク!」
カナを置き去りにしてオレは全力で駆け出す。陽乃……陽乃……。陽乃のことだけを考えて走って走り続け…………教室に戻ってくる。教室内を見回し、昼食を終えて友達と楽しそうに喋る陽乃を発見した。なにも躊躇わず陽乃に歩み寄る。こちらの存在に気づいたのは陽乃の友達だった。オレを見て「あっ」と声をあげ、つられて陽乃が振り返ってオレと目が合う。
「リクちゃん……? どうしたの?」
「陽乃、来てほしい」
「え、急に――――リクちゃん?」
このままでは星宮のことばかり考えてしまう。少々乱暴になってしまうが、陽乃の手首を掴んで立ち上がらせると、教室から連れ出して早歩きで屋上を目指す。
「リクちゃん、なにかあったの?」
「…………」
後ろから聞こえる陽乃の声を無視して階段をあがり、解放された屋上に出る。オレたち以外に人はいない。よかった。オレは気にしないが、陽乃はある程度人目を気にするようなので、できれば誰からも見られない場所が望ましい。
「どうしちゃったの?」
不思議そうに首を傾げる陽乃の前でオレは両膝を床につけ、陽乃の腰に両腕を回して力強く抱き寄せた。制服越しではあるが陽乃のお腹に顔を押し付けて存分に陽乃成分を摂取する。激しく乱れようとしていた感情が落ち着きを取り戻していく……。
「リクちゃん…………よしよし」
何も聞かず、陽乃はオレの頭を撫でる。
だから……だから、学校に来たくなかったんだ。
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