第45話

 雨に打たれ続けたオレたちは全身ずぶ濡れで、服を着たままプールに入ったかのような酷い姿になっている。他人から見れば事情を尋ねたくなるような二人組だろう。


 カナは何も言うことなく、強引にオレの手を引っ張って歩き出す。有無を言わさぬ雰囲気だ。そうして到着したのは、やはりカナの家だった。



「…………カナ?」



 オレの疑問に満ちた呟きに反応することなく、カナは鍵を取り出してドアを開ける。制服のスカートから滴り落ちる水を気にせず玄関に入り、廊下に突っ立っているオレに気づいて振り返った。



「……ん? なにしてんの黒峰。早く入んな」

「…………床が濡れるじゃないか」

「そりゃそうでしょ。なに当たり前のこと言ってんの?」

「いや……」

「変な気を遣うなってば。ほらっ」



 カナに右手を掴まれ、強引に家の中に連れ込まれる。傍から見れば誘拐に見えそうだ。



「早く靴を脱いで上がりな」

「…………」



 これ以上カナに迷惑をかけたくない。そのことを言えば怒られそうな気がしたので、躊躇いながらも言われた通りにする。廊下を歩いている途中、カナが脱衣所に寄ってタオルを持ってきた。それで自分の頭を拭くのかと思いきや、オレに向かって「屈んで」と言った。従うべきか悩んでいると、カナの目が鋭く尖っていくのが見えたので屈むことにする。



「こんなビショビショになって…………たくっ」



 カナは文句を言いながらオレの頭をタオルでガシガシと荒っぽく拭き始めた。ガクンガクンと頭を激しく揺さぶられて視界が定まらない。やるならもう少し優しくしてほしいな……。



「アンタさ、もうちょっと自分を大切にしなよ」

「…………」

「だんまりかい。ま、いいや…………なんかこの手がかかる感じ、犬っぽい」



 大人しく頭を拭いてもらっていたが、不意にカナの手が止まった。



「体、震えてんじゃん。さむい?」

「…………まあ」



 指摘されて自分の体が寒さで震えていることに気づく。一度気づけば急に全身が凍りついているように感じられた。何時間も雨に晒されていれば、体温が下がるのは当然だったか。



「黒峰、お風呂入りな」

「…………この家の?」

「当然でしょうが。当たり前のこと言うなっ」

「…………そこまで世話になるわけには……」

「いいから!」



 遠慮がちなオレに苛立ちを隠さず、カナは強引にオレの手を取って風呂場に向かう。簡単にシャワーの説明をしてくれているが、カナもオレと同じくビショビショだ。



「カナも……風呂に入った方がよくないか?」

「は、はぁ!? アタシたち、そういう仲じゃないでしょうが!」

「いや一緒にとは言ってないから。先にカナが入ってくれ」

「ああそういうこと……紛らわしい言い方すんな」

「全く紛らわらしくないだろ…………」



 勝手に勘違いしたのはカナの方じゃないか。さっきのオレの言い方もおかしくないと思う。という不満は心の中に抑えておいた。あまり反抗心を見せれば殴られそうな気がする。



「アタシのことは気にしなくていい。黒峰が先に入って」

「でも――――」

「入れ」

「………………はい」



 睨みを利かされた……。この女、本当に不良な気がする。



 〇



 温かいシャワーを浴びてあたたまったが、重大なことに気づく。

 着る服がない――――。

 さきほどまでオレが着ていた服は、絞れば滝のように水を放出する。もう一度着るなんて不可能だ。浴室からカナを呼んでそのことを相談すると、カナも「あちゃー忘れてた」と自分の額をぺチンと打っていた。お茶目かよ。


 裸でカナの家をうろつくわけにもいかず、大きめのバスタオルで全身を包むことになる。最悪隠すのは下半身だけでもいい気がしたが、カナから「上も隠せバカ!」と怒られたので、胸からバスタオルを巻くことになった。カナは星宮並みにうぶなのかもしれない。プールや海に行けば半裸の男だらけだぞ。



「あ――――」

「っ!」


 巻きが甘かったせいか、ハラリと体に巻いていたバスタオルが落ちる。

 オレの目の前にいたカナは昆虫顔負けの反射神経で顔を背けた。



「ば、バカ! ほんとバカ!」

「…………ごめん」

「アタシに変なもん見せたらマジで容赦しないから……!」



 オレを睨もうとしたのか。カナはこちらに顔を向けようとしたが、ピタッと止まって顔を背けたまま怒りの忠告をしてきた。意地でもオレの裸を見ようとしない。カナを怒らせるつもりは毛頭ないので、ささっとバスタオルを拾い体に巻いた。



「とりあえず体を温めた方がいいかな。アタシのベッドに入って」

「……それはさすがに…………」

「今のアンタに気を遣うヨユーがあるわけ?」

「…………」



 正直、ない。

 返事をしないオレを見て、カナは「でしょうが」となぜか勝ち誇った。

 心理的に今のオレには選択権がない気がする。そう思わせるだけの空気をカナが無理やり作ったのだ。星宮や陽乃とも違う、力強すぎる優しさを感じた。

 

 もぞもぞとカナのベッドに潜り、気が引ける思いの中で枕に頭を置く。不思議と気持ちが落ち着く良い匂いと確かな温もりに包まれ、緩やかに眠気が襲ってきた。このまま寝ていいのだろうか……? 

 そう自分に問いかけながら、ゆっくりと夢の世界に引きずり込まれていった。



 〇



 大体二時間くらい寝ていたのだろうか。

 ふと目を覚まして頭を軽く起こすと、テーブルに器を置いているカナの姿が視界に映った。カナもオレに気づき、優しさのある微笑を浮かべて話しかけてくる。



「お、良いタイミングで起きたじゃん」

「カナ……何を…………?」

「おかゆを作ったから食べな」

「おかゆ…………?」



 バスタオルを落とさないように手で押さえながらベッドから起き上がる。テーブルに視線をやり、カナが置いた器から仄かに湯気が立っていることに気づいた。中は真っ白な一面にちょこんと赤い梅干しが放り込まれている。



「まさかアタシが作ったものは口にできない…………とか言うつもり?」

「……言わないってば」



 こちらが遠慮することを予想して先回りしてきた。

 オレはテーブルの前に腰を下ろし、カナから手渡されたレンゲでおかゆをすくって口に運ぶ。熱いし味が微妙に分からない。まあおかゆはこんなものだったか。そう思いながら一口が止まらなくなる。ここ最近、ろくに食べていなかったことを思い出した。どんどん口に運び、あっという間にカナお手製のおかゆを平らげる。



「めっちゃいい食いっぷりじゃん。見てて気持ちいいわー」

「……ごちそうさま。おいしかったよ」

「そりゃよかった」

「カナって料理ができたんだな」



 素朴な思いから吐いた言葉だったが、カナは心外とばかりに眉を歪めた。



「アタシを舐めんな。てか、おかゆくらいヨユーですけど?」

「そのおかゆすらカナは作れなさそう……いや、何でもない。余計なことを言いそうになった。ごめん気にしないでくれ」

「全部言ってんじゃん。こう見えてもアタシ、それなりに料理できるから」



 ふん、と鼻息を荒くするカナ。

 それと今気づいたが、カナはラフな私服に着替えていた。オレが寝ている間にシャワーを浴びて着替えたらしい。

 なんでもない時間が過ぎていき、ふと質問を投げかけられる。



「前から気になってたんだけど、なんでアタシのこと名前で呼ぶわけ?」

「カナの名字を知らないからだ」

「ふーん……ああそう……へー…………。ま、お互い様か」

「お互い様?」

「うん。アタシもアンタの名字知らないから、お互い様」

「…………何度も黒峰って呼んでないか?」

「呼んでないし。ずっとリクって呼んでるけど?」

「それは無理があるって。今さらそんな――――」

「リクって呼んでるから」



 オレの言葉を遮るように、語気を強くして言い放つカナ。これは負けず嫌い……でいいのだろうか。お世話になっている身で、かなり失礼なことを言った気がしたオレは低姿勢で尋ねてみる。



「悪かったよ。名字を教えてくれないか?」

「イヤ」

「ええ…………」



 まあ後で表札を見ればわかるか……。

 空腹が満たされたせいか、起きたばかりなのに眠気に襲われてくる。目に力が入らない。



「なんか目がトローンてしてんじゃん。もう一回寝たら?」

「…………ごめん、そうさせてもらう」



 這い上がるようにしてカナのベッドに潜り込み、目を閉じる。寝て食って寝て……自分のことながら子供というかダメ男だな……。ただ、この数日間の中で一番安心できる時間を過ごせている。何も考えず、再び意識を手離した。



 〇



 犬のように丸まって眠るくろみ――――リクを見て、アタシはホッと安心する。少しは立ち直れたみたい。こうして見ると可愛らしく見えるから不思議なものだ。



「これは長期戦になりそう…………」



 彩奈を心配する気持ちから生じてくる焦りを懸命に堪え、今は状況を見守るしかないと自分に言い聞かせるのだった。

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