第34話
「ぐぐっ……いてぇ……っ」
男の人――ストーカーが殴られたのは鼻らしく、痛がりながら鼻を押さえていた。相当な痛みに襲われているらしく、黒峰くんの一撃がどれほどの威力があったのかを仕草だけで語っている。雰囲気からしてすぐには立ち上がってこれないように見えた。
「……」
黒峰くんは無言でストーカーをチラッと一瞥し、床に落ちていた折りたたみナイフを拾い上げ、刃の部分を折り畳んでズボンのポケットに入れた。それからあたしの下に歩み寄って来て、目線を合わせるように屈む。
「ごめん、星宮」
「……どうして、黒峰くんが謝るの?」
「必要とされるときにいなかったから」
黒峰くんは本気で謝っていた。申し訳なそうに顔を歪め、怒りやら悲しみやら……色んな感情が混ざっていそうな複雑な表情を浮かべている。
「そんなこと、ないよ……。あたしが突き放していたのに……来てくれたもん……!」
黒峰くんが来てくれた事実に胸がいっぱいになる。もうそれだけで満足だった。
「早く逃げよう。立てる?」
「な、なんとか……」
ストーカーが痛がって苦しんでいる間に、黒峰くんに支えてもらいながら立ち上がる。ふと黒峰くんの顔を見ると、普通の表情に変化していることがわかった。不自然なほどに普通の表情……。何を思っているのか、察することもできない。
そうして玄関に向かい、ドアノブに手を伸ばそうとした瞬間だった。
「ふざけんな! この――!」
後ろから怒りに震えた叫び声を放たれ、ビクッとしながらあたしは振り返る。
廊下の壁に寄りかかりながらストーカーが立ち上がり、上着のポケットから折りたたみのナイフを取り出していた。――もう一本あったんだ!
そういえば聞いたことがある。世の中には刃物を持ち歩く人が想像以上にいる、と。
「あ、彩奈ちゃんが……俺を受け入れてくれたのに!」
「そうは見えなかったけどな。無理やりだったろ」
「彩奈ちゃんが俺の期待を裏切るからだ!! 冴えねえ男を部屋に連れ込みやがって
……!」
冴えない男ってオレのこと? と、黒峰くんが呟く。きっとそう。
「てめ刺すぞコラァ! お、俺が本気になったら……人を刺すくらい、わけねぇんだ
ぞ!」
――っ。どす黒い狂気がそこに渦巻いていた。
ストーカーの目は血走っていて、ナイフを持つ手は必要以上に力が込められてフルフルと震えている。あたしはあまりにも怖くて、また目がじわぁっと熱くなって涙が出てきた。
けれど、すぐ隣にいる男の子は――。
「あぁ……刺すだろうな、お前は。まじで刺すタイプだよ、お前」
黒峰くんは事実を語るように淡々と言い、さらに言葉を続ける。
「コンビニ強盗のオッサンと違って、目に理性がない。雰囲気からして、自分のことしか頭にない身勝手な奴だとわかるしな」
「てめ、わけわかんねぇぞ!」
「オレも同じような人間だから、なんとなくわかるよ。親近感を感じる。オレとお前は、ヤバい側の人間だろ」
「お、俺はヤバくない! 彩奈ちゃんに受け入れてほしいだけだ!」
「わかるよ、その気持ち」
「適当なこと言ってんじゃ――」
「好きな人に自分勝手な理想を抱き続け、その理想が裏切られたら失望して自分勝手にキレる……オレもまったく同じだよ」
黒峰くん、自分とストーカーを重ねているんだ。全然違うのに……。
「星宮、逃げろ」
「え、でも……く、黒峰くんは?」
「オレは……いいや」
「何を言って――」
「俺の彩奈ちゃんと……話してんじゃねぇ!!」
狂気じみた怒りを吐き出し、ストーカーがナイフを手にして黒峰くんに突っ込んでいく。
普通なら怖くて何もできなくなるに違いない。しかし黒峰くんは動揺することなくズボンのポケットに手を突っ込み――折りたたみナイフを取り出し、見せつけるようにゆっくりと下投げでストーカーに放り投げた。
「――っ」
放物線を描く折りたたみナイフに気を取られ、ストーカーは足を止める。視線は完全に黒峰くんから外れていた。その一瞬の隙を見逃さなかった黒峰くんは踏み込み――練習していたのだろう、綺麗な体重移動をもって右ストレートを放った。
「ぶはぁっ!」
見事に黒峰くんの拳を鼻に受けたストーカーは悲鳴をあげ、抗うことなく後ろに吹き飛んで床に倒れる。ストーカーの手から離れたナイフは空中を舞い、カチンと鋭い音を立てて床に落下した。
「ぎ、ぐっ……うぅ…………! いで……いだいぃぃ! お、俺の鼻が……鼻がぁあああああああ!!」
ストーカーにとって、人生最大の痛みに襲われているのかもしれない。鼻の穴からドロリと血が垂れており、その血を指で拭ったストーカーは狂ったように泣き叫んでいた。
「共感はするよ。でもな、星宮を傷つけたことは別だ。絶対に許せない」
「で、でめ……殺してや――――!」
黒峰くんは起き上がろうとしたストーカーの顔を再び殴りつける。「ビギャッ」という潰れたような悲鳴を気にすることなく、黒峰くんは床に倒れたストーカーに馬乗りになって拳を振り上げる。
「星宮に、何をしようとしていたんだよ。なぁ……クソ野郎」
冷静な言葉遣いとは裏腹に、黒峰くんは振り上げていた拳をストーカーの顔に叩き込む。今度こそ血が舞った。ストーカーは悲鳴をあげることも許されない。黒峰くんは間髪入れることなく右拳と左拳を交互に振り下ろしていた。
「鼻がなんだよ……。お前、星宮にもっと酷いことをしようとしたじゃないか」
「ま、まって――――ぶっ!」
「星宮、泣きながら怖がっていたじゃないか。この、クソ野郎が――」
黒峰くんは喋りながらも拳を振り下ろすことはやめない。
あまりにも暴力的な光景が怖くなり、あたしは両手で顔を覆った。しかし耳が現状を教えてくれる。人を殴る鈍い音と、ストーカーの許しを請う潰れた声……。
ついに音が止んだ。
ようやく終わったのかな、と思い見ると――黒峰くんはナイフを手にして振り上げていた。
「ダメだよ! 黒峰くん!」
何をする気なのかすぐに察する。あたしは反射的に黒峰くんに飛びついた。
「星宮……離してくれ」
「ダメ! それはほんとにダメ! 落ち着いて!」
「落ち着いてるよ。うん、自分でも不思議なくらい落ち着いてる……だから大丈夫、離してくれ」
「全然大丈夫じゃない!」
黒峰くんは静かに怒り狂っていると、ようやく気づかされた。
怒りを表に発散することなく、自分の中に溜め込んで静かに爆発させている。普通に怒鳴り散らす人よりも恐ろしさを感じさせた。それでも、その恐ろしさ以上に――。
「あたし……イヤだから!」
「……イヤ?」
「好きな人が不幸になるなんて……イヤだから!」
「――な」
「それをしたら……黒峰くんが不幸になるよ!」
自分でも何を叫んでいるのかわからない。とにかく、思いをぶつけた。
「……オレのこと、嫌いって言ってたのに」
「好きだよ! 大好きだよ! だから……やめて……!」
必死に黒峰くんの体にしがみついて止めていたあたしは、黒峰くんの体から力が抜けていくのを感じ取った。
「黒峰くん……人を傷つける人に……ならないで」
「…………わかった」
あたしの必死の想いが通じたのか――――。
力のない声で返事すると、黒峰くんは静かにナイフを床に置いた――。
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