第11話

「なるほど。そんなことがあったのねぇ」

「はい……。今朝は何でもないふりをしたんですけど、あまり黒峰くんの顔を見れなかったんですよね……」


 お昼後の落ち着いた時間帯。コンビニのバックヤード。あたしは事務作業を行っていたオーナーに相談していた。この間の休日、車から守ろうとした黒峰くんに抱きつかれたこと、それから胸の高鳴りが収まらないこと。そしてエロ本について。

 黒峰くんが自殺志願者であったことは伏せている。


「うふふ、間違いなくリクくんは彩奈ちゃんに好意を寄せてるわね」

「え、えぇえええ! いやでもそんな……。黒峰くんがあたしのこと好きなんて……っ!」


 一瞬で熱くなった頬を冷却するように、あたしは冷えた両手を自分の頬に添える。この反応が良くなかったかも。オーナーはいたずらっぽくニヤリと笑い、さらに追撃してきた。


「男はね、惚れた女のためなら迷わず命を投げ出せるのよ。つまり彩奈ちゃんの盾になろうとしたリクくんは彩奈ちゃんが好きってこと!」

「く、黒峰くんががががが……っ」

「極めつけはエロ本ね。彩奈ちゃん似のエロ本を隠し持つってことは、それだけ彩奈ちゃんを求めているってことよ!」

「も、もとめ……求めって……っ!」


 言葉にはできないような、あらゆる想像が頭の中をグルグルと駆け巡る。エロ本がフリとして効いているせいか、余計に意識させられた。


「彩奈ちゃん、顔がゆでダコみたいになってるわよ。もうほんと可愛いわね。純情な乙女って感じ。……その様子だと彩奈ちゃんもリクくんが好きなのね」

「え、いや……そんな……っ。あたしたち、知り合って間もないし……」

「恋に時間は関係ない。つまり初恋ね!」

「いえいえ! あたし、黒峰くんのこと好きじゃないですよ……多分。それに黒峰くん、他に好きな人居るんですよね」

「あらそうなの」

「いえ、その……振られちゃったみたいなんですけど……」

「なら今こそチャンスじゃないの! 失恋の傷を癒してあげるの」

「そんな……弱みにつけこむような……」

「違うわ。もう一度言うけど、傷を癒してあげるの。きっとリクくんの心はズタボロなはずよ」


 そう言われてあたしは、黒峰くんの学校での振る舞いを思い出す。

 春風さんに心配をかけないように、黒峰くんは無理をしていた。自分を振った相手なのに……。あれは見ているだけで辛かった。


 黒峰くんが落ち込む原因には、言い方が悪いけどいつも春風さんが関わっている気がする。というより、黒峰くんにとって春風さんが全てのように感じられた。

 しかしそれは当たり前のことなのかもしれない。

 事故で家族を亡くした黒峰くんは天涯孤独の身。本当の意味で心を開ける相手は、幼馴染の春風さんしか居ないに違いない。その春風さんから振られてしまったら、自暴自棄になるのも理解できるというもの。


「気になるならリクくんの行動を注視しなさい」

「どうしてですか?」

「男はね、気になる女性の前では男らしい行動をしたくなるものなの。もしリクくんが普段と違った男らしい行動をしていたら、それは脈アリよ!」

「みゃ、脈アリ……っ」

「いい? もしリクくんが男らしい行動……つまり男アピールをしていたら、それを褒めてあげるの。とことん、やりすぎなくらい褒めて。そしてグイグイ距離を縮めなさい」

「ほ、褒めて……距離を縮める……っ」

「リクくんを癒せるのは――彩奈ちゃんだけよ」

「……あたし、だけ」


 恋愛感情は関係ない。今の黒峰くんを癒せるのがあたしだけなら頑張ってみよう。そもそもあたしの感情が、恋愛関連のものか判明していない。

 とにかく黒峰くんに元気になってほしい。今はその思いがあふれていた。


 ◯



「81……82……83……ぐ、ぅぅ……これが限界か……っ!」


 星宮の家に残っていたオレは腕立て伏せをしていた。

 もしかしたらオレとストーカーが直接対峙することがあるかもしれない。

 もちろん、そうなる前に手を打つのが理想だが、万が一に備えて損はないだろう。今から筋トレを始めても効果は薄いと思うけど……。

 だからと言って何もしないのは違う。1%でもいいから星宮を守れる確率を上げておきたかった。たとえ星宮から避けられていたとしても。


「こうなるなら空手でもしておけばよかったな」


 手元に用意していたタオルで額を拭いながら、スマホを手に取る。

 なにかしらの格闘術を身につけられないだろうか。

 休憩代わりにインターネットで調べていると、『男なら拳だろ!』という熱血的なブログに行き着いた。なにやらシャドーボクシングについて解説がされている。


「拳か……。ちょっとやってみるか」


 ブログを参考にしながら両手に拳を作り、それっぽく構えてみる。

 見様見真似だが意外とそれっぽいかもしれない。

 詳しくブログを読んでみると、右拳は顎を守るように置くなど、他にも肩幅や下半身の使い方についても解説されている。

 一通り目を通し、軽くジャブを放ってみる。次にストレート。


「やべ、ちょっと楽しいかも」


 ――――今ここに、天才ボクサーが誕生した。

 ……なんてな。

 新しいオモチャで興奮する少年のように、オレは夢中で拳を振り続ける。

 爽やかな汗を散らし、気づいた頃には昼を回っていた。

 ダラダラと垂れた汗をシャツが吸収し、上半身にピッタリと貼り付く。


「あっつ。熱いな……」


 シャツだけでも脱ぐか。オレは半裸になった。


「ただいまぁ。帰りが遅くなってごめんねー。オーナーと話をして――――っ!」

「あ」


 地味モードの星宮が部屋に現れた。オレの上半身を見て、ピキッと固まる。

 どうやらオレはシャドーボクシングに夢中になりすぎて、玄関のドアが開く音に気が付かなかった。


「な、なにしてんの黒峰くん! 女の子の部屋で半裸になって……しかも汗だくじゃん!」


 顔を赤くした星宮が、両手で自分の顔を隠しながら怒ってきた。

 しかし微妙に指の隙間が空いている。……見るんかい。


「さっきまで筋トレとシャドーボクシングをしていたんだ」

「どうして急に――――はっ! これが男アピールか~!」

「男アピール? 全然そんなつもりないんだけど」

「えと、こういうときは確か……。す、すごいね黒峰くん! 自主的に筋トレするなんて凄く偉いじゃん! 本当にもう心の底から尊敬しちゃうな~。男らしくて素敵!」

「バカにしてんだろ? 過剰なんだよ褒め方が……ッ!」


 ジト目で睨んでやると、星宮は「あ、あれ? 違ったかな?」と動揺した。……なんだよ。

 オレは女子の前で半裸でいることに恥ずかしく思い、床に置いていたシャツを掴む。


「ま、まって! 服を着る前に汗を拭かなくちゃ!」

「あ、あぁ。そうだな」

「あたしが拭いてあげるよ!」

「いや、そこまでは――――」


 止める暇もなく星宮はピューと洗面所に向かい、タオルを手に持って戻ってきた。


「さ、黒峰くん! 今から拭くよ!」

「……」


 恥ずかしそうに顔を赤くしているくせに、無駄に決意に満ちた表情をしてやがる……!

 あまりの気迫(?)に言葉を失ったオレは棒立ちのまま星宮を受け入れた。


「それじゃあ……失礼します」

「……はい」


 恐る恐ると星宮がタオルをオレの胸板に押し付けてくる。ゆっくりと上下に擦り始めた。どうしよう、めっちゃ緊張してきたんだけど。

 なんでオレ、星宮に汗を拭いてもらってるの?

 心臓がバクバク鳴り出しているのが自分でも分かる。余計に汗をかいてきた。


「つ、次々に汗が出てくるね。黒峰くんて汗かき?」


 それは違う汗だ!

 とは言えず、オレは無言で耐え続ける。


「ふ……んっ……ん」


 どこか艶っぽい声を漏らしながら、オレの首元から腹にかけてタオルで拭く星宮。

 なんだよこの状況……。頭の中がクラクラしてきた。

 少しでも冷静さを取り戻すべく、この場とは関係ない話を切り出すことにした。


「なあ星宮。昨晩のエロ本、どこにやったんだ?」


 実はもんもんに一日だけ返してと言われたのだ。なんでも資料として使いたいらしい。


「ま、またエロ本の話!? ……あ、これも男アピール!? すごく男アピール!」

「はぁ? 門戸さんが――――」


 オレが理由を説明するべく口を開いた直後だった。

 この上なく顔を真っ赤にした星宮が、オレの下半身に視線を落とした。


「た、たくましくて元気だねっ!」

「逆セクハラか!? なに言ってんだ!」


 自分で言っておきながら恥ずかしかったらしい。

 星宮は涙目になり、体をプルプルと小刻みに震わせていた。


「も、もういい! 汗を拭くのはいい!」

「ど、どうして!?」

「なんか今の星宮、わけわからんし」

「――――っ!」


 ショックを受けた様子の星宮だが、オレからすれば意味不明なのだ。

 アルバイトから帰ってきたと思ったら、過剰なベタ褒めからの汗拭きタイム。

 なにかしらの陰謀めいた何かを感じるのは当たり前だろう。


「まだ拭けてないところがあるんだってば」

「自分で拭くよ」

「いや、あたしが――――」


 後ずさりしたオレに詰め寄ろうとする星宮。

 しかし、足を絡ませて「あっ!」と短く悲鳴を発しながらオレに倒れてきた。

 反射的に星宮を受け止めるが、筋トレで疲れ切った体には重すぎたらしい。

 そのままオレは星宮に押し倒されてしまった。ドンッと背中を床に打ち付ける。痛いっ。


「……」

「……」


 視界いっぱいに映る星宮の顔を見た瞬間、尻の痛みが吹き飛んだ。

 星宮の吐き出した甘い吐息が鼻先をくすぐる。顔が近い。


「……」

「……」


 お互いの瞳を見つめ合い、微動だにできない時間が流れる。

 オレたちの体勢は実に危険なものだった。

 星宮がオレの胸板に両手をつき、オレを全力で押し倒してるような体勢……。

 その熱く潤んだ瞳が、こちらの瞳を至近距離から覗き込んでいた。


「…………」


 これは、どういう時間だろうか。

 心臓が破裂しそうなほど高鳴るこの状況において、オレは星宮の目から視線を外せなかった。

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