夕陽のような彼女
葉月 望未
「夕陽のような彼女」
中学1年生と中学3年生。全然違う、と私は夕暮れの美術室で笑い合う二人を見つめて思った。
先輩は、私の先輩じゃなかった。部活の先輩でも委員会の先輩でもなく、ただ学年が上だからというだけ。
先輩を見かける時、私は決まってクラリネットを持っていた。
吹奏楽部の練習が終わった後の自主練で、空き教室を探す前に美術室の中を覗く。それが習慣となっていた。
はじまりは美術室の隣の教室で練習をしていた、あの日。
見回りの先生に「そろそろ帰れ」と言われケースにクラリネットをしまっていたら隣の美術室から「できた!」と大きな声が聞こえてきた。
それまで静かだった美術室に、私はまさか人がいるなんて思ってもおらず、びくりと肩を震わせて壁越しに美術室のほうへ目を向けた。
恐る恐る扉のところから美術室を覗くと、明かりがついていて。
男の先輩が一人、筆を持ってある絵の前に立っていた。
上靴の青色ですぐに上級生だとわかった。
その横顔は、他の男子たちがする「嬉しい」をそのまま表情にした明るい笑顔ではなく、穏やかな達成感、喜び、といった感情が柔らかく表情となり笑みとなっていた。その横顔に、私はすっかりやられてしまった。
正直、その時、先輩がどんな絵を描いていたのかは全く覚えていない。
勝手な思い込みだけれど、先輩が女子と話すところなんて想像ができなかった。
ただ、絵を書いているイメージだけがあって。だから、先輩が同じ学年の女の先輩と美術室で楽しそうに話しているのを目にした時、何とも言えない気持ちになった。
昼間、友達の
先輩もそうなのかな?多分、そうなのかもしれない。
ああ、でも。先輩ってあんな風に、あんなにもあどけなく笑うんだ。と、私は結局、話したこともない先輩に心をきゅうっと締めつけられていた。
——と、思い出している今。高校1年生。先輩、高校3年生。
確か、あの時の女の先輩が先輩のことを「
「朝原は女子に声かけてこい。な?俺は男子」
「え、なんで?」
——朝原。
扉に近い席の私は、自然と顔を上げた。私が知っている先輩よりも、大人っぽくなった先輩が私の教室の扉近くに、立っていた。
あの初恋は憧れのまま終わった、はずだった。
一度も話したことのない先輩を好きになるなんて、自分でもあれが恋と呼べるものなのかさえ、わからなかった。
でも、卒業式で。中学3年生の大勢の背中を体育館で見つめて。先輩がどこにいるのかもわからず、ぼんやりとする中で、「一度くらい、話しかけてみてもよかったなあ」と思った。
接点が全くない先輩の進学先なんてわかるはずもなく、私は家から一番近い偏差値も普通な公立高校に進学した。だから断じて先輩を追いかけて、なんて夢のあるものじゃない。
でも、先輩が今、目の前にいる。
ただの偶然だ、きっと。けれど。こういうのを人は「運命」と呼ぶのだろう。——なんて、ナレーションが頭の中に流れてくる始末。
「だって仮入部にまだ誰も来てないんだぞ。美術部なのに何故か男子の比率のが高いし。部長命令。朝原、何気に女子人気高いし。な?いいだろ?」
「高くない。買い被りすぎ」
こつ、と美術部部長の頭を軽く叩くと先輩は教室の中へ目を向けた。部長は「いや、本当だって」と小さな声で反論している。
そうかあ、と私はなんだか納得してしまった。
話したことのない私にでも伝わってくる先輩の、その柔らかく静かな雰囲気。女子は絶対に好きだ。きっと。多分。
「あ、ねえ、美術部とか興味ありますか?」
「すみません、今日は違う部に行く予定で」
同じクラスの女子二人が廊下へ出ようとした時に、先輩が何故か敬語で二人の顔を遠慮がちに覗き込んだ。
女子たちは一瞬、唇をきゅっと結んでから会釈をして先輩の横を通り過ぎていく。
「断られると結構、心にくるな。ほら、次、部長行ってこいよ」
残念、と呟いて先輩は部長の背中をぽんっと押した。
私は膝の上の手をぎゅうっと握り、俯く。「話しかけてみればよかった」と、思った。こんなチャンス、もう二度とこないかもしれない。
「あ、あのっ、私!」
席を立ち、勢いに任せて先輩を見ると。先輩が初めて私の顔を見てくれた。
きょとん、とした顔をして二重の黒眼がちな目が私を映す。艶のある黒髪、伸びてしまったのか横へ軽く流されている前髪、薄い唇、少しだけ緩められたネクタイ。
体がまるでふわりと一瞬、浮いたようだった。
私はすっと息を吸って、声を、出す。
「——あの時のことは、思い出すと笑っちゃうよ。だって、『吹奏楽部に入る予定だけど美術も見てみたい』なんて言うんだから。……で?吹奏楽部には入部届ちゃんと出した?」
夕暮れが明かりのついていない美術室を温かい色で染めている。
絵の影が床に伸びている。
先輩の絵は、夕日が大きく描かれた学校の絵だった。
夕日は赤やオレンジだけでなく、少し青みがかっていたり桃色のところもあって青空の一部を吸収したような名残のある、いろんな色が含まれた夕日だった。
先輩の目に夕日はこんなふうに映っているのだと、光が目の前でぱちぱち揺らめくような気持ちになった。
「……まだ、です。先輩、あの、私にこんな凄い絵は書けません」
「うん?この絵、凄い?どんなところが?」
ああ、「うん?」の言い方が優しかった。
「どんなところが?」の声の柔らかさ。
下校する生徒たちの声は耳に突き刺さる元気な明るいそのままの声という感じなのに、先輩の声は空気に溶けていくような、その喉仏にどんな魔力を仕込んでいるのか、私にとって、とても心地の良い落ちつく声だった。
「色の使い方がまず思いつきません。私なら赤とオレンジ色を使っちゃう。それから、下校する時ってそんなに夕日に目がいかないです。でもこの絵を見たら、夕日をゆっくり見ながら帰るのもいいかなって思えます」
「ありがとう、
目を細めて、ふふ、と先輩は嬉しそうに笑ってくれた。
「……いえ、なくて。文化祭とかで展示していましたか?」
「うん、していたんだけど、でも、そっか。俺の名前なんてその時は知らないもんな」
知っていました、という言葉を喉の奥に押し込んで小さく頷く。
私は、先輩の表情や雰囲気にしか興味がなかった。
言い方を変えると、先輩の絵には目もいかないほどに、盲目だった。
でも、惜しいことをしたな、と初めて思う。
こんなに素敵な絵を描くなら、あの時の絵も、先輩を初めて見たあの日の絵も、ちゃんと見ておけばよかった。
先輩の絵だから素敵に見えるのかもしれないけれど、私はこの絵が素直に好き。
「俺ね、夕日が好きなんだよ。夕日は一瞬だから。だからこそ、あんなに真っ赤になるんだと勝手に思ってる。それで、もっと突き詰めていくんだ。夕日が好き。何故か。一瞬の輝きが好き。何故か。一瞬は儚いからこそ絵にしなきゃと思う。じゃあ俺は他にどんな儚さが好きなんだろう、って。単純な好きっていう気持ちも、嫌いっていう気持ちも、もっと掘り下げていくと自分のことがよくわかるんだ」
「……先輩って、やっぱり先輩なんですね。すごく、考えてる」
「じゃあ、そんな先輩がいる美術部に入りますか?」
「うっ……、は、」
悪戯っぽく笑い、敬語になる先輩に思わず頷きそうになってしまう。どうしてこの高校、兼部しちゃ駄目なんだ。
「冗談だって。そんな困った顔しないでよ。中橋さんは吹奏楽部だもんな。俺にも……。」
先輩は私の頭に一瞬だけ触れて、笑った。
それから目を伏せ、言葉を途中で止める。
私は先輩に触れられた部分に触れ、熱くなる顔を感じながら「先輩?」と声をかける。
どうか、夕日で顔が赤くなっているのがバレませんように、と願いながら。
「俺にも、あんな綺麗な音は出せないよ」
先輩は顔をゆっくりと上げて私と目を合わせた。
「え……?」
「クラリネットの優しい音色。美術室の隣でいつも遅くまで練習をしている音が聞こえて。俺も頑張らないと、って」
目を細めて先輩は小さく微笑み、俯いてしまう。
私は信じられなくて、驚いて、口元を手で覆い、「本当ですか?」と震える声で聞いてしまった。
夕日のせいなのか、先輩の耳が赤くなっている。
「……俺の昔話、聞いてくれる?」
「……はい」
私は、先輩が好き。
それは何故?
雰囲気が、笑い方が好き。
それは何故?
その柔らかさを私に向けてくれたらこの人はどんなふうに笑い、どんな言葉を私にくれるんだろう。って、何度も想像して、
私はどうしてこの人が好きなのか、「正しい好きの回答」を探して、
一目惚れなんて浅はかな恋に落ちる、その薄っぺらい行いだと私自身が思ってしまっている恋の入り口を、
何か重厚で、なくてはならないようなものへと変えて、
これからも先輩をずっと好きでいてもいい答えを探していたいんだ。
それこそ、「運命」なんて言葉さえ使って。
「わ、私の話も、聞いてください」
「うん、いいよ。ゆっくり、話そう」
3年前、文化祭で美術部、
その絵のタイトルは「夕陽のような彼女」。
教室でクラリネットを吹くある女子生徒の後ろ姿が、窓の外の夕日と共に描かれていた。
夕陽のような彼女 葉月 望未 @otohana
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