凍季休暇(5):坊ちゃんと婚約者


「───ア゛!?」



 そして俺は、お湯の中に落ちた。



 視界は真っ白だった。

 エウの名前を叫んだ口の中に容赦なく湯が入り込む。一瞬パニックになりかけたが、指先も膝も底についたし膝立ちになったら普通に顔が水中から出た。

 飲み込んだお湯を吐き戻しながら手を突くと、つるんとした感触がする。お湯、膝立ちで顔が出る高さ、さらに音の反響具合からするとどっかの風呂っぽい。


 いや、風呂!?


「きゃああぁぁぁあニコ!?」


 エウの悲鳴だった。最悪中の最悪の事態だ。


「エウ? ここどこだ? うわ、てかこのお湯なんだ泡かマッズ! 目が痛い! メッチャ目が痛い!!」

「やだぁぁぁニコ、そこ、クモやっつけて!」

「クモぉぉ!?」


 泡が目に入った激痛に身悶える俺の腹辺りに、エウの声を発する何かが突撃してきた。風呂という場所柄下手に動くのもマズイと瞬時に察し、俺は目も開けられないまま両腕をホールドアップ。

「左手伸ばして!」「もうちょっと下!」ときゃあきゃあ指示を受けつつ当てずっぽうで〈火〉魔法を発動し、大騒ぎの末なんとか事態は沈静化した。


 多分入浴中だったエウフェーミアに抱きつかれたまま、二人して浴槽のなかで茫然としていると、だかだかと足音が近づいてきた。

 ヤバイ誰だこの状況見られたら死ぬ──


「エウフェーミアさんっ、なんの悲鳴!?」

「なんでテメエがここにいんだリディアアァァ!!」


 誓って俺は目を開けていない。というか泡が滲みてそれどころではない。

 リディアは俺の姿を見るや否や、甲高い悲鳴を上げながら手あたり次第色んなものを投げつけてきた。


「キャ───変態ッ! エウフェーミアさんから離れろぉ!!」

「ぎゃっ、痛てっ、エウに当たったらどうすんだヤメロ! エウはとにかく服、服を着ろ! ああああああ誰か助けてくれ!!」




 つまり、こういうことだった。


 イルザーク先生の弟子として魔法薬の製作に携わっているアデルとリディアは、エウの養父であるベックマン氏が魔道医師だと知り興味を示した。

 書斎の資料や、ベックマン氏が調合する薬などを勉強するため、主人公組二人は俺に内緒でベックマン邸を訪問。話を聞きつけたトラクも面白そうだと便乗。一通り案内し、四人で魔法薬の調合に挑戦していたところ、いつも通りリディアが爆発を起こした。


 怪我はなかったが頭から薬をかぶったエウは入浴。無事だった客三人は別室で待機。

 入浴中、あろうことかエウの肩にクモが落下してきて、びっくりして悲鳴を上げた。それが「きゃーっ、やだー!」、咄嗟に振り払ったがどうすることもできず「ニコたすけてー!」。


 で、真名を交換していた俺が強制的に召喚された、と。


「まことに申し訳ございませんでした」


 俺は床に這い蹲ってベックマン氏に土下座した。

 もともと婚約者、プロポーズも真名交換も済ませてあとは正式に結婚するだけといえど、うっかり呼んじゃったのが当のエウといえど、泡が目に入ってなんにも見ていないといえど──嫁入り前の一人娘の入浴中に乱入したのは、まあ事実である。

「キャーの〇太さんのエッチ」で済ませていいのは二次元までだ。これは紛れもない事案だ。俺は変態ですごめんなさい。


「誓って何も見ていないし僕からは触れていませんので」

「ああああニコラ、ほら顔を上げて……目は大丈夫だったかい? いきなりお風呂のなかに召喚されてびっくりしただろう」

「正直、一瞬死んだなと思いました。色々な意味で」


 結局クモ退治のためにはるばる召喚されたかたちになった俺を、ベックマン氏は心の底から不憫がり、アワアワと頭を撫でてくれた。やさしい。涙ちょちょ切れるわ。


「ロウ家には使いを飛ばしておいたから。帰るときには魔法で送るよ」

「お手間を取らせて申し訳ありません」

「いや、いきなり呼んだのはエウフェーミアだからね……」


 エウの悲鳴が聞こえたので駆けつけてみれば浴室に俺がいた、ということで激怒したリディアに石鹸や風呂桶を投げつけられた俺の心の傷は、事情を聞いた男性陣の「まーじでドンマイ」という視線でようやく和らぎはじめたところだ。

 ベックマン氏の部屋を出て、四人が待つ客間の扉を開ける。

 髪の毛を乾かし終えた湯上がりのエウがぱたぱたと駆け寄ってきた。


「ニコ、ごめんなさい。怒られた?」

「いや、全然。気にしなくて大丈夫」

「本当にごめんね……」

「いいよ。驚いたけど、俺に助けを求めてくれたっていうのは嬉しかった。──それで、エウも俺に説明することがあるよね?」


 白々しいことこの上ない笑顔で小首を傾げると、一応仮にも婚約者の俺に黙ってエウフェーミアと休日を楽しんでいた三人がウッと顔を逸らした。

 俺の白々しさに慣れているエウは果敢にも「だって」と唇を尖らせる。

 ついでに俺の両手をきゅっと握る。

 相変わらずあざとい。

 そんで可愛い……いや違う絆されるな俺、クソッ。


「だって、ロロフィリカの話ができるのは、リディアさんたちだけだから」

「……俺が知ったら文句を言うと解っていたから黙っていたんだな?」

「そう……です。仲間外れにしてごめんね」


 ぶはっ、と噴き出したのはトラクだった。アデルも肩が震えている。

 どうやらエウフェーミアお嬢さまは、俺が仲間外れにされたことに対して怒っていると、平和な勘違いをしているらしい。違う。全然違う。全然違うんだけどナァ!

 そっぽ向いて笑っていたトラクが気を取り直して「まあまあ」と掌を上げる。


「そんなに怒らないでよ、ニコラ。こうしてエウフェーミアさんの喫緊の呼び出しにも応じられると解ったわけだしさ」


 別に怒ってはいないのだが、これ以上引っ張っても益がないので、俺は肩を竦めて話を終わらせた。


「真名を交換するとこういうこともあるんだな。最初にエウの悲鳴が聞こえたときは肝が冷えた」

「う……ごめんなさい」


 肩を落とすエウ。まあ気にするなと肩をぽんぽん叩いてやった。

 トラクは口角を上げて続けた。こいつ本当に面白がってやがる。


「互いを呼ぶ声が大気中の魔素を通じて届いたり、声が通じた場合は魔素を通じて召喚してしまえたりする。或いは呪いや祝福を分かち合うことも、気持ちの問題でなく実際問題として可能になる。二人とも魔力があるぶん、リディアとアデルより縛りが強いだろうね」

「トラクって本当、よく解らないことに詳しいね」


 感心したようにトラクを見やるリディアの隣で、アデルはわりと呆れ顔だ。

 アデルはなんとなくでもトラクがただものじゃないと悟っているんだろうな。俺の傍にあいつがいるのが視えていたくらいだし、王族にも特有のものがついていたりするのかも。

 リディアのほうはこれっぽっちも気づいていなさそうだが──まあこの鈍感さもこいつのよいところということで。


 やがてリディアとアデルはイルザーク先生が迎えに来て、オクの町へ帰ることとなった。


「じゃあ次に会うのは新年が明けてからね。年賀状出すね!」


 手を振るリディアにエウが首を傾げる。


「ねんがじょー?」

「あー、新年のごあいさつのお手紙、書くね! 無事の凍季をお過ごしください」

「ありがとう。みなさまに天海のくじらの恵みと幸いがありますように」


 凍季前の定型あいさつを交わすリディアとエウの横で、男陣も別れを済ませた。

 意外や意外、アデルはきっちり俺とトラクに向き直ってぺこりと会釈する。妙に律義だ。日本人っぽいっていうか、なんていうか。


「二人とも無事の凍季をお過ごしください」

「うん、ご無事で。俺からも新年のおたより出すね」

「シリウスさんとギルバート先輩にもよろしく」

「ああ」


 トラクは歩いて帰るという。エウは心配して馬車を手配しようかと訊ねたが、トラクは丁重に辞退した。まあやろうと思えば空間転移魔法が使えるやつだし、そもそも居城は同じ王都だしな。ちょっと徒歩は遠いかもしれんが。


 俺は右手を軽く振って見送った。


「新年に会おう」


 新年に会おう。並ならない事情を抱えた俺たち全員、きっと無事で、揃って、新年のバルバディアで。




 リディアとアデルはイルザーク先生の空間転移魔法でぱっと姿を消した。

 トラクはのんびりとベックマン邸の前の通りを歩いて帰っていくので、エウはその後ろ姿をいつまでも見送っていた。


「あのね、ニコ、ニコは将来の夢って何かある?」

「なんだよ急に」

「今日そんな話をしたの。リディアはね、編み物が得意だからそれを活かしていきたいって。お洋服とか、小物とか編んで売りたいなって言ってた」

「まあ腹が立つくらい巧いしな。エウもセーターとニット帽もらったんだっけ」


「アデルはね、イルザーク先生の跡を継げるようになりたいって。魔法薬を研究したいみたい。すでにオクではアデルが作った薬を売ることもあるんだって」

「へえ。大魔導師イルザークの跡とはまた困難な道を」


「トラクはね、家業を継ぐって言ってたの。トラクは家族がいないって聞いていたんだけど。亡くなられたご家族が何かされていたのかな」

「あー……家業ね、うん、なるほど」


 遠い目になったのも已むを得まい。

 トラクの家業とはもちろん即ち、王様業である。


「だから、ニコは何かあるのかなって」

「将来の夢っていうか、まあ、トラクと一緒に魔術学校を創れたらなみたいな話はしたな。シリウスも当然引き込んで……」


 まあその漠然とした夢も、ロロフィリカの身上を聞き王都外れの貧民街を実際に見たところで、机上の空論でしかないと思い知ったわけだが。


「いいね。素敵だと思う。魔力がなくても平等に教育を受けられたり、お仕事ができたりするような国になればいいな」


 エウがにこりと笑ってうなずいた。

 たったそれだけで、この夢は間違ってはいないと思わせる、この子の魔力は一体なんだ。俺が甘いだけか。

 内心で自分に呆れ果てつつ、エウに訊き返した。


「エウは? ベックマン氏みたいに医者とか?」


 んー、と静かに唸ったエウは、細い指先で俺の手を取った。

 俺の爪を撫でてみたり、指の輪郭を確かめるように触れてみたり。なにやってんだこのお嬢さんはと見下ろしていると、「わたしね」と小さな唇が動いた。


「わたし、自分は長生きしないだろうと思っていたから、将来の夢なんて考えたことなかったの」

「…………」


「でも、いまニコの話を聞いて、ニコが目指す国に生きてみたいなって思ってる」

「そっか」


「わたしはじゃあ、ニコの創った学校で、校医さんをしたいな。魔法医師の免許を取って、みんなの怪我を治すの。わたしを死なせないために戦ってくれた人の怪我も、わたしの手で治したい」


 俺の手で遊ぶエウの白い指先に、空から舞い降りてきた氷の粒が触れて融けた。

 見上げると、遥か頭上に揺れる天海が白く凍りついている。海面の揺らめきが息をひそめ、太陽の光が分厚い氷に遮られ、俺たちを照らす陽光が薄曇る。


 世界が永い凍季を迎えようとしていた。


「ニコの怪我も全部、わたしが治す。どんなに酷い怪我でも。絶対、死なせない……」


 エウはこてりと首を傾け、俺の肩に額をあてた。


「じゃ、死んでもエウのとこまで戻ってくるよ」

「ほんとに? がんばれる?」

「ああ。肋骨折れてても、太古の炎に焼かれても、魔物に襲われても、スッ転んで全身の骨が折れてても、どうにかして戻ってくる。約束だ」


 エウが肩を竦めるようにして笑う。

 世界でいちばん、美しい笑みだ。



<了>



 最後の最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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