第10話 星降る夜の騒乱のおわり
じりじりと押されはじめたエウの体を後ろから抱きとめる。
リディアはスカートの裾や栗色の長髪を翻しながら、エウの菫色の魔力と、悪魔の濁った魔力とがぶつかり合う最前線に到達した。
その迷いのない後ろ姿の、美しさたるや。
「ココおばあちゃん、お願い、助けてね……!」
リディアの掌から透きとおるグリーンの光が零れた。
ココおばあちゃんの魔石よりも濃い翠色をしているのは、俺が渡したぶんがあるからだ。『俺』をこの世に産み落とした金髪美女の残した魔石のかけらが。
柔らかな陽射しを受けて輝く森の緑のような、とうめいな魔力。
ちっぽけで、エウと悪魔の戦いのなかにあっては吹けば消えそうなほどの。
けれど見る見るうちにリディアの胸に吸い込まれたと思うと、次の瞬間には、音もなく緋色の炎が立ち昇った。
世界の底で燃えていた太古の炎。
リディアの傍らでなんらかの輪郭をとったかと思うと霧散する。彼女にはきちんと姿かたちが見えているのだろう、そちらを見上げてぎゅっと眉根を寄せた。
「太古の炎の悪魔。──おまえが主人と定めた私の言うこと、たまには聞いてもらうわよ」
嗤うように炎の塊が揺れる。
「差し当たっての敵はあいつ!」
リディアは真っ直ぐに第三配下サー・バティストを指さした。
「……クソが」
悪魔は上品な見た目にそぐわぬ悪態をついた。
太古の炎が悪魔の濁った魔力を舐め尽くす。
緋色の炎を反射した白石の床や壁が目映いほど赤く輝いた。エウの頭を抱えて床に伏せ、かつてルウやリシに叩き込まれた対魔法防御の障壁を張る。制御を失って爆発した悪魔の魔力が衝撃波となって襲い掛かった。
崩れかけていた天井の一部が崩落してくる。顔を両腕で庇うリディアの頭上にも破片が降ってきたが、まるで一定範囲内の敵を自動で排除するが如く燃え盛った緋色の炎によって塵と化した。
時間にして三秒。
一瞬のうちに魔力を底まで喰い尽くされた悪魔が、黒焦げになって膝をついた。
耳が痛いほどの静寂が舞い戻る。
エウの魔力はいつの間にか霧散していた。くたりと力なく倒れ込む体を抱き起こし、呼吸を確かめる。無茶をさせたので顔色がすこぶる悪いが、生きていた。
ああ、と呻いた悪魔が黒い煤を落としながら揺らめく。
もはや人型も保っていない。人間くらいの大きさの黒炭が蠢き、唸っているようだった。
この状態でまだ動くかと身構えたリディアの隣に、とぷり、とまろい音を立てて黒い影が現れた。最初ただの影だったそれは、しゅるしゅると渦巻いて人の形になり、イルザーク先生の姿かたちを得て空気に溶けていく。
「先生……」
「遅くなった」
「…………すっごく、疲れた」
「魔力が底をついたからだ」
リディアは両手でイルザーク先生に縋りつき、彼は小さな弟子の体を片腕でしっかりと支えた。
もう片方の手には、黒で構成された先生の姿かたちに恐ろしく似合わない、小物入れのようなものが載っている。それに気づいたリディアが頼りない手を伸ばした。
「それ……先生のせんせい?」
「今日はもういい。おまえが死んでしまう」
なんの変哲もない木箱だ。鍵穴があり、全体にきれいな絵付がされているから、一見すると小物入れとか、アクセサリー入れにも見える。
あれはもしかして、『ロロフィリカの自鳴琴』か……。
夜の闇が容を得たような静けさを湛えたイルザーク先生は、音もなくこちらを振り返って俺とエウを見、壁際で意識のないトラクを確認し、シズルに護られているアデルに視線をやった。ゲッと嫌そうな顔になったシズル、その付近に転がっていたロロフィリカも見やる。
ロロフィリカは這い蹲るように上体を起こして、こちらを睨んでいた。
「──なんでよ……!」
呪詛を吐くような声。
エウが薄く目を開き、眦から一筋涙を零しながら、声のするほうへ首を動かした。
「あたしは魔力があるのに。普通の人間なのに。只人じゃないのになんで捨てられないといけなかったの。なんで魔力もなくて魔術も使えないような出来損ないのあんたばっかり幸せに笑ってんのよ」
ロロフィリカの呪詛は止まらなかった。
イルザーク先生は動こうとしない。リディアもエウもへとへとで、トラクとアデルは意識もない。ぎちりと噛みしめた唇に血が浮かんで、舌先に鉄の味が広がった。
「只人に生きる価値なんてないんでしょ! そうでしょ!? みんなそう言ってた! なのになんであんたたちだけ幸せになろうとしてんのよ。他の只人はごみ溜めで泥水啜って生きてんのに、なにあんたたちさも当然みたいな顔してあたしたちと肩を並べてんの!?」
布切れと化しているお高いベストを脱いで丸めて、エウの頭の下に敷く。立ち上がると肋骨が軋み、血痕が白い床を汚した。
ロロフィリカのもとへ歩いていく。
「不幸になれよ! どいつもこいつも!! 生きてる価値もないくせにのうのうと笑ってる恥知らず! 陛下の糧になるくらいしか価値のないお気楽なお嬢さまも! 生まれてからなんの苦労も知らずに育ったお貴族さまも!! みんなみんな平等に不幸になれっ!!」
俺たちの知らないロロフィリカがそこにいた。
金切り声を上げて世界を呪う少女の胸倉を掴むと、俺は、無理やり立たせたロロフィリカの頬を思いっきり打った。
手心は加えて平手にした。
魔王の内通者でエウを生贄にしようとして俺たちをずっと欺いていて、俺たちの不幸を心の底から願っていたとしても、この一年間を一緒に過ごしてきた相手だ。甘かろうがチョロかろうが、そこまでうまく切り替えができない。
なんか色々言ってたしロロフィリカにも色々あったんだろうし俺も色々反論したいが正直へろへろなので、大きく息を吸い込む。ビシッと肋骨に痛みが走って泣きそうになった。
「っおまえが不幸だからって他人を不幸にしていい理由にゃならねぇよ!! 甘えんじゃねえクソ女!!」
──ああ、痛みでついうっかり本音がポロリ。
「くそ女……」わざわざリディアが復唱したのが聞こえたが無視である。うるさい、普通こういうのは主人公がビシッと言い返すのがセオリーなのに、おまえが予定外にへろへろだから俺が代わりに文句つけてやったんだろーが!
ぜーはーいいながら膝に手をついたところで、視界の端に、さわさわと動く黒い塊を見つけた。
炎の悪魔に焼かれて黒焦げになったサー・バティストだ。この期に及んで逃げようとしているのか。俺の視線に気づいたイルザーク先生は、あるいは背後で逃げようとする気配をすでに察知していたのか、自らの影を伸ばして悪魔を縛り上げた。
リディアをゆっくりと座らせて、手の中の匣を弄びながら黒い髪を揺らす。
そしてかつりと踵を鳴らしながら一歩ずつ、悪魔のもとへ近づいていった。
「昔馴染みの誼で遺言を聞いてやる。サー・バティスト」
魔王でないはずなのになぜか魔王然としたイルザーク先生を見上げ、悪魔はにぃっと口角を釣り上げた。
「これはこれは……、裏切り者イルザーク……、魔王陛下の第一配下……、黒き魔法使い殿……」
「久しいな」
「人間風情と手を組んで──陛下に仇為した大逆の罪人……!!」
「そのようなこともあったか」
口下手なイルザーク先生らしい、とても適当な相槌だった。
それでも反応があることに満足しているのか、悪魔は嬉しそうに続ける。
「魔王軍の全戦力が陛下の復活を待ち望み! 計画はすでに動き始めている!! 貴様も貴様の弟子も生贄の小娘もそれを邪魔する者何もかも恐怖に震え涙し惨たらしい最期を迎えるがいいさ!!」
「成る程よくわかった」
どん、とイルザーク先生の指先から黒い魔力の塊が放出されたと思ったら、悪魔の上半身は跡形もなく消えていた。
ゆっくりと傾いだ下半身は黒い煤となり、吹き抜けた夜風に浚われていった。
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