終章 俺と婚約者と

第1話 それから



 ……うぅむ、医務室の天井も見慣れたものだ。



 ベッド周りのカーテンで切り取られた四角い天井を見上げながら、たった今目を覚ました俺は、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。

 薬草学のフィールドワークで負傷して入院。その次は、リディアを思いっきり挑発して指輪の炎に呑まれて入院。なかなか馴染み深い場所である。……俺、一年の間にけっこう入院してんな!


 なんやかんやとよく生き延びたもんだ。

 もともとのニコラと馴染んでちょっと頑丈になったからなのか。それとも、日本にいたときから知らないうちにくっついていたらしい、守護霊か背後霊的な状態のあいつのおかげか。そういうスピリチュアルなことはよく解らんが。


「……まぁ、こうなったらもうなんでもいーんだけどよ……」


 すぐそばに寝息が聞こえたので首を動かすと、エウの長いシルバーブロンドが山を作っていた。

 床に膝をついてベッドに突っ伏すというなんとも腰に悪そうな体勢で寝落ちしている。


 制服を着ているので、どうも平日らしい。星降祭の翌日と翌々日は休息日だったはずだから、週が明けているということになる。


 試しに両手を動かしてみると、問題なく持ち上がった。深呼吸してみるが肋骨の痛みもない。布団から腕を出して寝間着の袖を捲ってみると、傷も全て消えていた。あのバカみてぇに性能のいい魔法薬で治ったんだろう。

 若干筋肉痛気味かなと感じたが、うん、五体満足だ。

 いや、そもそも腕や足を斬り落とされた覚えもないから、五体満足じゃないと困るけど。


 エウに視線を戻した。

 細い肩が規則正しく上下している。



 息、してる。




 ……生きてるな。




 彼女の存在を確かめる沈黙が、ひたすら続いた。


 エウが生きていて、俺も生きている。あのあとどうなったのだろう。ロロフィリカをブン殴って、イルザーク先生が悪魔にとどめを刺したところまでは憶えているが、そのあとがサッパリだ。


 だが、生贄に捧げられるはずだったこの子が無事ということは、現時点での魔王復活は阻止できたと考えていいはず。


 小さな寝息を掻き消さないよう、自分の呼吸すら潜めていたバカな俺の耳に、わざとらしい靴音が近づいてくる。

 カーテンを掻き分けて顔を覗かせたのはトラクだった。


「起きたんだね」

「……他のやつらは?」

「エウフェーミアさんは魔力切れと魔力暴発に伴う全身の裂傷で治癒済み。俺とアデルは第三配下に吹っ飛ばされて骨折したけど治癒済み。リディアは細かい擦り傷と──魔力切れ」


 あ、と俺は胸元に手をやった。

 そういえば母上の魔石をリディアにやったんだった。


「諸々含めてニコラが一番重傷だったよ。魔力切れと、全身の裂傷と、折れた肋骨はもう少しで肺を傷つけるところだった。ま、もう治ってるけど」

「魔法薬様サマだな」


 エウを起こさないようにか、トラクはそろりそろりとベッド脇までやってきた。


「魔王が封印された媒介は魔法教会の管理下に戻ったよ。指輪の悪魔が一度従ったとはいえ、リディアはまだ学生で、つい先日まで只人だった少女だ。太古の悪魔を呼び出し、あまつさえ魔王を焼くには危険が大きすぎると、ゴラーナ大賢者や国王を始めとする上層部が難色を示した」


「……ならまだ、魔王は消滅してはいないんだな」


「そうだね。これからが大変になる。魔王軍の勢力を潰しながら、魔王を封印ではなく消滅させる方法を考えなければならない……」


 その琥珀色の双眸になりを潜めた謎めいた気配。時折トラクが覗かせる、『孤児のトラク』ではないほうの底知れない狡猾な一面が、今日は露骨に表れていた。


「何はともあれ、おめでとう」


 俺は答えなかった。


「きみは未来を変えた。最悪を回避したんだ」


 薄い笑みを浮かべたトラクの言葉にも、素直に喜べない。


 俺は第一の壁を越えただけだ。

 世界の〈最適解〉とは魔王消滅にある。そこに至るまでの道筋を捻じ曲げてしまった俺には、これから先、世界が正しい答えに辿りつくまで足掻き続ける──責任がある。


 きっとこれからも魔王軍は、魔王復活に向けて動き続けるだろう。

 エウは魔力を狙われる。もしもその手に堕ちようことがあれば、エウの魔力は魔王をこの世に呼び戻すために使われ、しかも魔王の魂を降臨させる器として利用される。




 魔王が消えるか、エウが死ぬか。


 どっちが先かを争う最悪の競争だ。




「……俺はエウがこれからも危険な目に遭う道を択んだに過ぎない。ただ俺のわがままのために」


「そうかな」


「そうだよ。俺は死にたくないし魔王軍に従属したくもない。そのためにエウが生贄になる未来を回避するしかなかった。これから先辛い思いをするのは、俺でなくエウだ」


 トラクは無言でベッドの端に腰掛けた。静かに呼吸を繰り返すエウの銀髪を、指先でそっと撫でる。


「彼女だって抗った」

「…………」

「悪魔に魔石を奪われそうになったとき、抵抗したのをきみも見ただろ。嫌だ、死にたくない、ニコ助けて、って叫んだのを聞いただろ。……あれもまた、彼女の選択だよ」



 本当は、嬉しかった。



 あの抵抗は、エウが確かに生きたいと願った証だった。

 背負わされた重荷のために家族を喪い、血反吐を吐いて立ち上がってきた彼女が、三度理不尽に襲われてなお生きようとした姿が嬉しかった。場違いにも涙が出そうになった。



 だって、初めて出逢ったとき、本当にちいさくて。

 自分の意思も口にできなくて、人形みたいで、いつも悲しげで。

 自分の体も辛いのに俺に怪我をさせていないかと泣く姿が痛々しくて。

 感情の昂ぶりに魔力を暴走させてはひっくり返って、泣いて、吐いて苦しんで。



 ……俺はずっと、この子が、幸せになるところが見たかったんだ。



 俺の眦から流れた涙に気づかないふりをして、トラクは微笑む。


「定められた未来なんて存在しないよ。未来視も託宣も、受け取るぼくらがいかに生きていくか、それこそが問題だ。選択と行動の果てに訪れた結果を、あとから振り返った人間が運命と呼ぶ」


 歪んだ視界のなかに、いつの間にか静かな呼吸を繰り返すようになったエウが、手を握りしめたのが見えた。

 ……寝たふり、へたくそだなぁ。

 トラクにもしっかり見えているんだろう、慈しむような笑みで、エウの髪の毛を撫で続ける。


「愛だねぇ」


「そんな、崇高な感情じゃない」


「こんなにも真摯な想いを愛と呼ばないのなら、ぼくは今後、愛と名のつくあらゆる感情を信じられなくなってしまうよ」


 布団の中に収まっていた腕で顔を隠した。

 今更ながら、いい歳して(いや表向きは十五歳なんだけど)人前で泣いたのが恥ずかしくなってきたのだ。

 あと愛とか言われたのも恥ずかしい。違う違うそういうんじゃないから。そういうんじゃないんだけど、トラクおまえ。


「…………どーでもいいけど勝手にエウに触んな」

「歪みないなぁ! そういうとこ好きだよ」

「ウッセェ」




 その後、完全に起き上がるタイミングを逃していたエウを素知らぬ顔で起こしてやり、先生を呼びに行ってもらった。


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