第5話 夜の三拍子


「……泣いてるのか?」

「うるさいこっち見んな!」


 相手がいくらぽんこつ爆発魔といえども、さすがに女子が泣いているのは放置できない。

 とりあえず胸ポケットから取り出したハンカチを差し出すと、若干怪しむような間を空けて、リディアはそろそろと手を伸ばしてきた。



 その、右手。

 中指に嵌めた赤い指輪。



 最近はとんと大人しかったから忘れかけていた、あの善悪の定義もない、圧倒的なまでに純粋な『力』、その奇妙な魔力が漏れ出ている。

 入学式の駕篭のなかで最も濃い魔力を垂れ流し、以降は僅かに残滓が頬を撫でる程度だった指輪の魔力が、今はっきりと感じ取れた。


 思わずリディアの右手首を掴んで指輪を凝視する。


「あっ、この指輪はその、呪いというか、色々あって取れなくなっちゃっただけで校則違反じゃないからね!」

「……たまに妙な魔力を感じる。どうしてだ」


 リディアの手なんてまじまじ見るのはこれが初めてだ。

 指先が少し茶色い。小さな傷もたくさんある。……魔法薬や薬を、頻繁に調合する人の手だった。


「なんか、私が泣いたときにちょっと反応しちゃうみたい。あんたと初めて会った日も、私、出発直前にホームシックで泣いちゃったの。あとから先生に、エウフェーミアさんが酔ったのは駕篭じゃなくて指輪の魔力かもって言われて申し訳ないなぁと……」


 制御できない魔力というものは基本的に、持ち主の感情の振れ幅によって爆発あるいは鎮火する。幼少期のエウはまさにそれだった。

 やはりリディアの指輪も、持ち主の彼女の感情に影響を受けるのだ。

 そして前期、俺がたまに魔力を感じていたということは、


「……前期はけっこう頻繁に泣いたんだね」

「泣いて! ない!! ちょっと目から鼻水が出ただけよ!!」

「器用だな」


 変な話、リディアに人間らしいところがあってなんだか安堵した。

 ぽんこつ爆発魔のくせに毎日元気で、アデル曰く罵倒には慣れていて、自分がこれと信じた正しさのためには誰が相手でも退かない、堂々たる『主人公』の振る舞いの裏に隠されたもの。


 俺は小さく息を吐いて、なんとなく掴んだままだったリディアの右手を見下ろした。


「ロロフィリカは寮でダンスの特訓中だったけれど、きみのほうの進捗はいかがかな」

「……可もなく不可もなくといった感じよ」


 ぐしぐし左手で顔を拭いているリディアの、左の肩甲骨の下あたりに右手を添える。赤い指輪のきらめく右手をゆるく伸ばしてホールドの姿勢をとると、「抜き打ちテストだ」と嫌みったらしく笑った。


「きみがダンスまでぽんこつだと、教えた僕の沽券に係わるのでね」

「嫌味言わないと息できないわけ?」





 リディアのダンスは比較的まともになっていた。

 しょっちゅう躓きかけるし、ステップも細かいところは怪しい。足運びでいっぱいになってパートナーの顔も見られない。だが踊れないこともない、といったレベル。

 ダンスの特訓開始当時は頻繁に俺の足の甲を踏んだり脛を蹴ったりしていたが、この程度なら相手の下半身が青痣だらけになることは回避できそうだ──そもそもリディアにパートナーがいるか不明だが。


「教えてもらっといて、なんだけどさ」

「……うん?」

「星降祭の夜は、アデルと先生と三人でゆっくり過ごして、ダンスパーティーは欠席しようかなって思ってるの」


 ゆったりとした三拍子のステップをもたもたと踏みながら、リディアはそんなことを言った。


 ……俺の行動が何か変えたか?

 いや、これはもともとの展開だろうな。ダンスパーティーに関しては、俺はリディアやアデルに特別何らかのアプローチをした覚えがない。


「よく考えたらダンスに行くような服なんて持ってないし、アデルはどうせ踊ってくれないし、パートナーの申し込みもなければ自分から誘う相手もいないから。本当、あんたの足あれだけ踏んづけておいて申し訳ないんだけど」


 ふうん、と内心うなずいた。

 現時点でどれほど最適解から外れているのか解らないが、トラブルを呼ぶ存在であるリディアたちと、星降祭の夜に離れていられるのはいいかもしれない。


「勝手にすればいい。本来、星降祭というのは魔王の犠牲になった罪なき人々の魂の安息を祈ることが本旨だった。家族と静かに過ごすのも間違いではないし、僕や兄上は実家でそうしていた」


「そうよね。あなたの家って、暁降ちの丘に近いものね……」


 くるりとリディアが爪先で回ると、真っ直ぐな栗色の髪の毛とセピア色の上品なスカートが花のように翻る。

 どこか憂いを帯びたような若草色の双眸が、廊下の窓から射し込む月光できらきらと輝いた。


「まあ、ロロフィリカよりはうまいな」

「なによ。意外と素直に褒めるじゃない、気持ち悪い」

「おまえのほうこそ嫌味を言わないと息ができないのか?」


 やがて距離を取った俺たちは、不思議な沈黙に包まれたまま見つめ合った。



 たまに、なにやってんだろうな、と考えることがある。

 リディアとアデルが『主人公』として魔王を打倒する物語が日本にあるからって、シズルのおかげでニコラとして生まれ直した俺と同じように、二人にも肉体があり、意思があり、痛みも悲しみも当然あるのに。


 紙とインクの世界じゃないことなんて、ずっと昔から解っていたはずなのに。



 なのに、俺はニコラ・ロウだからとか、小説の展開がそうだからとか、シリウスまで引き合いに出してリディアがムカつくからとか、そんな御託を並べちゃあ二十七も年下の女の子に毎日毎日嫌味ふっかけて───



 今も、彼女を傷つけるための布石を打とうとしている。



「魔石はまだ持っているのか」


 リディアはぱちりと瞬きをした。

 そして徐にシャツの首元を緩めると、中に手を突っ込んで、首から下げていたお守り袋のようなものを取り出す。


「……持ってるよ、まだ、石のまま」

「そうか。僕も持っている」


 私服に着替えていた俺も襟元から小さな袋を引っ張り出した。

 金髪美女が亡くなったあと、親父殿が俺と兄貴の目の前で三つに砕いて、ひとかけらずつ持たせてくれたものだった。ナタリアが三人分の袋を作り、ロウ家の男衆はそのなかに彼女の魔石を入れて、全員いまも大切に持っている。


「三歳のときに亡くなった母の魔石のかけらだ。幸いにして魔力に苦労する体質ではないから、きっと死ぬまで石のまま持っているだろう」

「お母さんの……」


 普段は心臓の陰に隠れているという、魔力を蓄積するための器官。

 現状、これが体内に存在するかしないかで人生がほとんど決まる。そして天海のくじらの三原則に抵触するといえども、魔石は魔力を人に譲渡する唯一の手段だ。




「だけど、もしも僕が早くに死ぬとしたらそのときは、僕の魔石をシリウスに遺してやりたい」




 こんな石ころひとつで、シリウスが普通の人と平等な待遇を受けられるなら──


 だから、あえてリディアに魔石を遺した故人の気持ちも、痛いほどよく解る。



 何も言わないリディアに背を向けた。もしかしたらこれが最後のまともな会話になるかもしれないなと、そう思った。


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