第6話 詐欺だよ、詐欺
この世界の空は、日本の空とすこし違っている。
校舎の屋根の上に寝転びながら、俺は学生のときに行った海水浴を思い出していた。
高校一年だか、二年だか。つるんでいたグループの連中で海に行って、ナンパして撃沈する組とひたすら遠泳で競争する組とに分かれて遊んだのだった。
俺は浮き輪に引っかかって一人ぷかぷか浮いていた。泳ぎはそこまで得意じゃない。
ぎらぎらと降り注ぐ日差しはきついが、海水はほどよく冷たくて気持ちよかった。
海水浴客の楽しそうな声は聞いているこっちも穏やかな気分になるし、何より波に揺蕩うこの感じ。電車に乗ってる時の感覚に似てる。普通に寝そう。
「総ちゃん! なぁにやってんだよっ」
浮き輪に体重をかけながら顔を覗き込んできたのは、クジラ好きの眼鏡だった。
ちなみにこの頃、俺の綽名は『インテリヤンキー』『番長』『総長』の変遷を経て『総ちゃん』になっていた。
「……俺、生まれ変わったらクラゲになる……」
「え、総ちゃん頭いいのに知らねーの。クラゲって自力で泳げねぇから、浜に打ち上げられちまったら即死なんだぜ」
「そーなの? 即死?」
「そう。だから水族館はクラゲが死なないように水流を調節してんだよ。アンタけっこううっかりさんだから、クラゲになんてなったら──」
──と、いい気分で海に浮かんでいた俺の浮き輪が横から引っくり返された。
うぎゃあ、と悲鳴を上げながら水面に沈み込む。俺のそばには二人の人影があった。クジラ好きの海パンともう一人、政宗のひよこ柄海パンである。
くっそーやられた。
政宗のやつ引きこもりのくせに。さっきまでパラソルの下で「あつい」「溶ける」「砂になる」ってぐったりしてたくせに。
ぶくぶくと口から泡を吐きながら体勢を整える。その際、海面に降りそそいだ太陽の光が水の中で柔らかく乱反射していた光景に、俺はぽかんと見惚れた。
ごうっと耳を圧迫してくる水の音。
きらきらと差し込む陽光。
柱状に揺らめく光の粒が、水泡に反射して眩しくひかる……。
あのとき水中から見上げた海面のように、この世界の空はゆらゆらと揺れている。
空よりも上に天海があるため、地上からはそういう風に見えるのだ。
太陽の光が天海を通り、常に光の梯子が柔らかく揺れている。空の上に海があって神々の宮殿があって……なんて俺からすりゃファンタジーの話だが、実際に天海のくじらが泳いでいるのを見ると黙るほかない。
厳密には、べルティーナ語で『空』とは『天海』を意味する。
この世界では地上もまた海の底なのだ。
「こんなところにいたのかい」
ひょこ、と屋根のど真ん中からトラクが顔を見せる。
ここは無数にある隠し部屋や隠し通路のうちの一つを通った先にあるお昼寝スポットだ。いつのどいつだか知らないが、隠し通路を作ったあげく屋根をぶち抜いて、出入り可能にしてしまった生徒がいたのである。
まことにけしからん、もっとやれ。
「ニコラって、一体いくつくらい隠し部屋を知っているの?」
「おまえと会ったあの部屋以外には十五くらい。『隠し部屋や隠し通路がある』って知ってるうえで捜してみりゃけっこう見つかるもんだぜ」
「全く、顔に見合わないやんちゃっぷりだね。詐欺だよ、詐欺」
「本当に詐欺してるやつに言われたくねぇ」
「ふふ。ご尤も」
仰向けになって両腕で枕をつくっている俺の横に、トラクはいそいそと近寄ってくる。上品に膝を抱えて三角座りをすると天海を見上げた。
「結局、エウフェーミアさんとは仲直りできていないみたいだね」
「的確に人の傷を抉んじゃねえ殴るぞ」
「物騒……」
おっと本音が。
はた、と白々しく片手で口を覆うと、トラクはおかしそうに目を細めた。
「そもそもどうしてあんなに避けられているんだい? リディアは、きみがエウフェーミアさんの目の前で他の女の子に花束を渡したからだと言っていたけど。彼女そんなことで怒りはしないだろ、お見舞いの返礼だとわかっているはずなんだから」
「…………ロロフィリカの件で、ちょっとな」
するとトラクは「あー」と微妙な表情になる。なんだ、こいつも察していたのか。
あれから俺や周囲に目立った変化はない。
あの日、ロロフィリカは花束を完全に有難く受け取ってくれた、それ以上でもそれ以下でもなかった。
俺は果敢な騎士、アデルは悪魔、その構図にも大きな動きはない。
変わったことといえばリディアがギャーギャー噛みつかなくなったこと。俺がアデルの判断を的確だったと認めたことで、彼女の心中も少しは落ち着いたのだろう。
それから俺とエウフェーミアがけんかしたこと。
「……いーんだ、しばらくは。俺はどうしてもエウから目を離せない。あの子から離れてコソコソ画策しようと思ったら、向こうから避けてくれてる現状が一番丁度いい」
「本人に話してみればいいじゃないか。そして星降祭の夜は二人きりでゆっくり過ごすとか」
「悪手だ。それも最も悪い」
エウは莫迦じゃない。
家族を喪った経験から、自分が狙われるせいで周りに危険が及ぶことを何よりも恐れている。
現時点で自分の魔力が厄を呼ぶと考えているエウが、このうえ、魔王復活の生贄として狙われているのだと知れば──
「魔石を利用されないように、一人でひっそりと、誰にも知られないところで死にかねない」
生きている限り魔王の手の者に狙われる。
下手に魔石を遺して死ねば魔王が復活する。
まあ、現時点では何を択んでも修羅の道だ。
「……やりそうだね。彼女なら」
「だろ。魔王軍に狙われていること自体、エウに悟らせるべきじゃない。もし気づいていたとしても、俺たちがそれを防ぐために動いていることを知らせてはならない」
「愛だねぇ」
「そんなんじゃないさ」
よっこいせ、と起き上がった俺は、眼下の中庭に見えた栗色の髪の女子生徒をぼんやりと見下ろした。
噂もしてないのに俺の視界にやってくる主人公、リディアだ。隣にはアデルとロロフィリカもいる。授業が空きだからピクニックでもしにきたんだろう。
どこから持ってきたのやらレジャーシートのようなものを広げて、三人はそこに腰を落ち着けた。
その様子にトラクが目を丸くする。
「珍しい。アデルがいる」
「行ってこいよ。なんか楽しげだぞ」
「ニコラも行かない? リディアのお菓子は絶品だよ」
悪役坊ちゃんがどの面下げて「おまえのお菓子を食べに来た」なんて言えるんだよ。逆に面白いわ。
「じゃあこっそりニコラのぶんも貰ってきてあげる。──“いと慈悲深き風の神エレノアよ、加護を与えたまえかし”!」
立ち上がったトラクは杖を一振りすると、リディアたちから見えない反対側へと飛び降りた。
下からの風で落下速度を落とし、すとんと着地して、わざわざ建物を歩いて回ってからリディアたちに声をかける。
今の魔法はかなり高度だ。
薬草学のフィールドワークで襲われたときは、威力など考慮せず真っ直ぐ魔物に向かって風を射出すればよかった。だが今のような魔法は、風の方向も強さも適切に調整しないと、逆に自分が吹っ飛ばされかねない。
授業の実技では手を抜いて適当にこなしていたんだろう。実際はバルバディア一回生レベルの技量ではないはずだった。
「……本当、あいつ一体何者なんだろうなぁ」
膝に頬杖をついて、ぼんやりと平和な風景を眺める。
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