第2話 坊ちゃん、八歳になる
ニコラ。
それが、俺が最初に理解した単語。この体の名前だ。
もしかして体が成長するにつれて俺の自我が眠りにつく日もくるんじゃないか。
そんな淡い願望とすこしの恐怖は、三歳のある日、意識と体がはっきりとつながったときに打ち砕かれた。
ニコラ・ロウは俺だ。
目もよく見えず、他人事のようにニコラの泣き声を聞いていた頃とは何もかも違う。この体は完全に俺のものになった。あるいは俺の意識が、この体に完全にはまってしまった。
俺とニコラが結びつくのを待っていたかのように、金髪美女の母親は亡くなった。
もともと体が丈夫なほうではなく、ニコラを生んだあと調子を崩していたのだ。
一から言語を習得するのには骨が折れたが、かえって無理なく普通の子どもっぽく振舞えたから都合がよかった。
発音は英語に近しく、語順や文法は日本語に似た性質。現代語は三十二文字のアルファベットからなる。
四十六文字のひらがなとカタカナに加えて何千種類もの漢字を使いこなしていた元日本人からすればシンプルで有難かった。
ロウ家は古くから続く貴族であるらしい。
国王が統治するベルティーナ王国で、南部国境線と東部沿岸に接するオーレリー地方、その一帯を治める辺境伯たる親父殿。
二つ年上の穏やかで優しい兄貴。
そして今は亡き母。
この三人に加えて、広い邸には使用人も何人か雇われていた。みんな優しくていいやつらだ。
そんな家族に見守られて、ニコラ・ロウはつつがなく成長していった。
現在、八歳。
日本での就学年齢に達しても学校には通わず、それ以前からついていた家庭教師の先生たちから、引き続き言葉や数学や歴史などを学ぶ。
乗馬や剣術を教わる時間もある。いかにも名家のボンボンらしい嗜みだ。
そして〈魔法〉。
この世界には魔法が根付いているのだ。それも、かなり深く。
「そのことは、異世界にてんせいした時点で、うすうす気づいてはいたが」
五歳の誕生日にプレゼントされた日記帳に、俺以外の誰も解読できない日本語でぐりぐりと書きつけていく。
あまり字がきれいでないので、生前上司から散々「通信でボールペン講座でも受けろ」などと言われたものだが、今となっては汚いほうが可読性も低くなってよいだろう。
見事なまでに子どものラクガキにしか見えない。
「テンプレであるスキルの付与とか、レベル上げとか、チートとか、そういう要素にはまだそうぐうしていない。親父殿や兄貴も、そういう話はしない。おそらくじゅんすいな魔法の世界なのだろう」
政宗のレクチャーを思い出してみる。
異世界に転生・転移するという設定の物語にはいくつかのパターンがあった。貴族に生まれたけど没落、勇者として魔王を倒す、はたまた魔王に転生する。そこから無双したり追放したりされたりザマァしたりエトセトラ。
しかし今のところロウ家は領民からよく信頼され、没落しそうな気配はない。
実在した〈魔王〉は二十年前に英雄によって封印されたばかりだという。
したがって勇者となる必要もないし、俺は魔王ではない。
「つまり、俺は、のんびりと魔法をべんきょうして生きていけばいい……!」
限りなくスローライフ系に近いというわけだ。よっしゃ、ヌルゲー。次男だから家を継ぐ必要もない。最高。
魔法の世界で勇者だの魔王だの物騒な事態に巻き込まれるのは御免だ。
素手同士のケンカならまだしも、魔法なんて一から学んでいる最中。ニコラはボンクラではなく才能もあるほうらしいが、中身がこれなのでまだまだわからない。
ニコラの体に、俺の魂──。
「……てんせいというより、ひょういといった方が正しいか。……ひょういって漢字でどう書くんだ? ああ、スマホがほしい。せめて漢字辞典がほしい。あるわけないけど」
ぶつぶつとぼやきながらも、俺は必死に日本で生きていた『俺』の情報を書き綴った。
生まれた土地。家族。
小学校時代の悪友。担任。政宗のこと。
中学に入ってからできた仲間。
ケンカして骨折して入院までしたこと。そこで出会った初恋の女子。
二十七歳で死ぬまでの人生史を書き終えたら、あとは日本や、世界のことを、取り留めもなく。
俺はニコラ・ロウだ。
日本で生きていたあの頃にはもう戻れない。
それでも忘れたくなかった。忘れることが恐ろしかった。俺を俺たらしめる記憶や土台がなくなることは、もはや死と同義ですらあった。
「このせかいは、おぼえることが多すぎる……」
一瞬だけ思考が沈んだ瞬間、羽ペンの先から垂れたインクが紙面に真っ黒な滲みをつくる。
ああクソ、やってしまった。
二十一世紀の文明の恩恵を受けまくっていた元二十七歳、いまだにこの羽ペンの扱いに慣れることができず、同じような失敗を何度も繰り返している。なんて不便な世界なんだ!
「……誰かはやくボールペンをかいはつしてくれぇ……シャーペンでもいい……えんぴつでもいいぞ……」
嘆いていてもインクは消えない。
ただし、文明の利器とおさらばした代わりに存在する魔法。それ自体には心躍るものがあるので、どんどん使えるようになりたいものだ。
「杖はこんど作りにいくから、そしたら使える魔法もふえて、あんていしていくんだろうな」
だって魔法だぜ、魔法。
思っていたよりも魔法の先生から教わる理論がごちゃごちゃしていたので早速躓きかけているが、実践できるようになればまた違ってくるはずだ。
期待に胸を膨らませていると、自室のドアがノックされた。
「坊ちゃん。よろしいですか」
白紙を一枚挟んで日記帳を閉じる。
「いいよ」と声をかけると、メイド頭のナタリアが顔を覗かせた。
「旦那さまが坊ちゃんをお呼びでいらっしゃいます」
「お……父上が?」
あっぶねえ、親父殿って言いかけた。
言葉を教えてくれた家族や使用人が総じて丁寧な言葉を使っていたため、俺もそれなりに上品な口調で育つことができたが、たまに本や使用人たちの会話で仕入れたよろしくない単語が出そうになるのだ。
これはもう仕方ない。だって中身が俺だから。
「はい。坊ちゃんにお客さまがいらしています」
「お客? 覚えがないな」
ナタリアはロウ家に長く勤めていて、俺も生まれたときから世話になっている。使用人というか親戚のおばちゃんみたいな人だ。
日記帳を机の引き出しにしまう俺を呆れたように見やり、「昨日旦那さまが仰ったのをもうお忘れですか」と溜め息をついた。
「なにか言われたっけ」
「本日は坊ちゃんの婚約者候補のお嬢さまがお見えになる日ですが?」
「…………あああああっ!」
そうだった!!
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