第一章 俺と婚約者と従者

第1話 俺二十七歳、赤子〇歳


 就職して五年目、蒸し暑い真夏の夜のことだった。

 気づいたら山道のど真ん中に倒れ込んでいた。


 友人夫婦に生まれた第一子の顔を拝んだ帰り道、バイクで山越えしていたところ、茂みの中から飛び出してきたでっかいにゃんこを避けて自損事故を起こしたのだ。

 自分でもどう吹っ飛んだのか解らないが、地面に着地した際、べきゃべきゃっと体中から嫌な音がしたのは聞こえた。


 あれは骨が折れた音だ。

 いやー困った。骨折なんて中学二年のとき以来の大怪我だぜー。


 父親との折り合いが悪くて中途半端にグレた頃、隣の地区でデカい顔してたダッセェ高校生グループと正面衝突、勝つには勝ったが左脚を折られたのだ。懐かしい思い出だ。これってもしかして走馬灯?


 あー、こりゃ無理だ起き上がれん。

 救急車呼ぼう、救急車。

 スマホを取り出そうとしたが、腕どころか指先さえ動かない。



 ……マジか。



 視界の端に、長年連れ添ってきた愛機が見るも無残に大破しているのが見えた。

 避けたはずのでっかいにゃんこが、その傍らでエジプト座りをして俺を観察している。


 まあ、歩行者を轢いたとか対向車を巻き込んだとかでもなく、にゃんこを避けて事故ったんだから誰も文句ねぇよな。


 問題は、ここは山の中で、しかも今は夜中で、周りには誰もいなくて、それを証言できるのがこの瀕死の俺一人ってとこだけど。



(オイコラ、怪我ねーか、にゃんこ)

(これに懲りたらもう急に飛び出したりするんじゃねーぞ)



 誰にともなくぼやこうとしたのだが、声も出なかった。



 目蓋の重さはうたたねに似ている。

 しつこい昼寝から目覚めたあとも無理やり四度寝を決め込もうとするときの、あの泥の中に、沈んでいくような、感覚。






 ──だから、この世界に生まれたとき。

 俺は昼寝から起きたような気分だった。






 目が重くて視界が翳む。体がダルおも。寝すぎたせいか頭がすっきりしない。

 夜の山中で事故って救急車も呼べずに意識を失ったはずだけど、もしかして運よく助かったのか?


 ぱちぱちと瞬きをしたが、まだぼやけている。右手でごしごし目をこすった。うん、体は動く。死んだなこりゃって本気で思ったけど、大したことなかったのか。

 とりあえずナースコール、ナースコール……。


 と、体をもぞもぞ動かした拍子に、ちっちゃな紅葉みたいな手のひらが目に入った。


(な……なんじゃこりゃ……)

「あ……あんぁおあ……」


 ご丁寧に呂律も回りやしねえ。

 深酒してべろべろになった酔っ払いでももうちょっとまともに喋るぞ。


 愕然としながら右手を動かすと、紅葉は指令に従ってぐっぱぐっぱと動いた。ややぎこちないが、どうやらこれが俺の右手で間違いないらしい。

 事故る直前に会いに行った友人夫婦の第一子。生後二か月。あれと同じくらいのサイズに見えるのは俺の気のせいか。


 ヘルメットはかぶっていたけど、頭を強く打って脳に障害でも残ったか。

 それとも。


(それとも……巷で噂の『転生』とかいうやつでは……)


 二十年来の腐れ縁に、政宗真一郎という男がいる。

 縦にひょろ長くて黒縁眼鏡で色白なインドア派。

 政宗は昔からマンガとラノベが好きだった。この間会ったとき、最近のマイブームとかいって『異世界転生・転移』を題材とした作品を紹介されたばかりだ。


 中には、日本でそういう小説が流行っているという世相を反映して、主人公が「これは流行りの異世界転移だ!」と自覚するものもあるとかないとか。


「……いぁいぁいぁ」

(……いやいやいや。転生てそんなマンガやラノベじゃあるまいし。冷静になれ。現状把握だ。もう社会人五年目だろ、大人なんだから冷静になれ。いくら元やんちゃ坊主でも、心はいつまでも少年でも、現実を見ろ冷静になれ、円周率を数えろ、3.14159265359……!)


 全然冷静になれないまま左手を動かしてみると、こっちも紅葉。

 爪ちっちゃ!

 頭が重たいと思っていたのはもしかして首が据わっていないからか?

 なにそれ怖っ。


 両脚をバタバタさせてみたが、赤ん坊用のおくるみみたいな布が視界にチラチラするだけだった。

 が、この分だとどうせちぎりパンみたいな生っ白いパンパンの足なんだろう。



 オーケイ。とりあえず五体満足だということが解った。

 認めよう。脳に障害があるのではなく、やはり、体が赤ん坊であると。



 俺の体は柵つきのベビーベッドに寝かされているようだ。天蓋のような布が周囲を囲っているため、どんな部屋にいるのかは不明。

 というかそもそも、視力があまりよくないみたいだ。

 赤ん坊は生まれたばかりの頃は目がよく見えていないらしい。って、死ぬ直前に会った友人夫婦が言ってた。


(つまり俺はやっぱり生まれたばかりなんだな。いや俺っていうか、この体が)


 現状を把握したはいいが、心がぼきっと折れそうだ……。


 なにか。俺はこれから先、二十七歳独身男性の自我のまま、二時間おきにわけもなく泣いては母親の母乳をもらったり排泄の世話をされたり絵本を読まれたりいないいないばー! されたり親父の変顔を見せられたり離乳食にチャレンジしたりしなければならないのか。



 なんだその試練。

 えっ、つらい、むりむりむり。



 途方に暮れて内心肩を落とすと、落胆した俺の感情と連動するかのように「ふええ」と体が勝手に泣きはじめた。


 そうだよなぁ、泣きたい気分だぜ俺も。

 ああぁぁ、ああぁぁ、とこの世の終わりのような泣き声がベビーベッドに響き渡る。


 俺が抱っこしようとした友人夫婦の第一子もこんな具合に泣いていた。

 遅くまで邪魔すんの悪いからってとっとと帰ろうとしたら、久しぶりに会ったんだからメシ食ってけよって誘ってくれて、あんな時間になっちまって。なんていうか、あいつら、俺が死んだことを気に病んでないといいけど。


 そんなことを考える間にもこの体は息を吸って、吐きながら泣いて、よく見えていない目から涙を零し、全力で自分を庇護してくれる何者かを呼びつける。


 すると案外すぐそばで人の気配が動いた。

 天蓋を掻き分けたその人は、赤ん坊の額にそっとキスを落として、至近距離で柔らかく微笑む。


「××××××? ×××」


 これが母親だろうか。顔を近づけてくれたおかげで、ぼんやりと儚げな容貌が見えた。

 っていうか金髪。

 眸の色はくすんだ蒼。なんだ外国人か?

 いやそうか、『異世界転生・転移』ものなら当然そうだよな。


「××××、××××××」


(……ん?)


 金髪美女に抱き上げられた俺は遅ればせながら、彼女の言葉が一切聞き取れないことに気づいた。

 まず日本語じゃない。中国語や韓国語のようなアジア圏の響きでもない。英語なら多少は聞き馴染みがあるはずだが違う。大学で第二言語として履修したフランス語でもなかった。いやこれも『異世界転生・転移』ものなら当然そう……そうか?


 まさか。

 ……まさか、いわゆる『言語チート』なし?


「×××××、××……」


 愛情深い声音で喋りかけてくれる美女には申し訳ないが、全く聞き取れないし理解もできない。

 俺は遠い目になって、ここではないどこかにいるはずの腐れ縁に向かって怨念を送る。


(政宗の嘘つき……)


「言語自体をテーマにした物語とかでない限り、面倒くさいから普通は言語チートがついてる」って言ったじゃねえか!!

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