真剣勝負

あぱぱらぱーや

第1話

「チョエエエエエエ!」

夕方、前見高校剣道部が使用している講堂に、裂帛の気合いが鳴り響いた。直後に講堂の床を踏み込む音と、激しい竹刀の打突音が響き渡る。

講堂では二人の剣道部員が仕合いしあいをしていた。一人は紺色の道着と袴に、一般的な男性用の防具を身に付けている。胴台どうだいは碧、胴胸どうむねは紺と青の刺繍で縁取られている。垂には『安積あさか』という名前が記載されていた。

もう一人は白の道着に白袴。身に付けている女性用の胴の胴台は緋色、胴胸は赤とオレンジでいろどられていた。垂には『佐藤』と記載されている。袴の下から出ている細い足首が、有利なポジションを求めて軽快な足捌きで動いている。

「イヤアアア!」

『安積』は、気合を発すると中段の構えからメンを打ち込んだ。男子ならではの体格で迫力のある打ち込みだった。

しかし『佐藤』は難なく竹刀で受け止め、滑らかな足捌きで横に移動して竹刀を切り返すと、下がりながら引き面ヒキメンを打ち返す。

佐藤は間合いを取りながら、仕合前に安積から話しかけられたことを思い出し、目の前で竹刀を中段で構えている安積の面の中の表情を改めて見つめた。



「え、仕合い?」

授業が終わって部活動に入る前に、安積が唐突に話しかけてきた。

安積とは小学生から一緒に剣道をやってきた仲である。とは言え剣道以外の場所で仲良く会話をするような関係でもなかった。中学生以降、剣道は男女別れて稽古や試合を行うため、会話するのは何となく久し振りだった。

「ああ、俺達はそろそろ引退して、これから受験勉強だろ?」

「そうだけど、何で女子とやるの?副将くん?」

「だってお前むっちゃ強いだろ、最後に挑戦したいんだよ、お前に」

何故か安積は不機嫌そうに視線を逸らして言った。

私は安積をまじまじと見た。弱小男子剣道部の団体戦の副将。高校最後の県大会の成績は団体戦ベスト16。個人戦は二回戦で負け。佐藤は団体戦準優勝、個人戦では何と優勝して全国大会ベスト8の快挙だった。

あの時、成績はもちろんだったが、皆で喜んでいた時の安積の笑顔が記憶に残っている。

「うん、いいよ。じゃ試合形式でやろう」

私が安積の仕合いの申し込みに同意すると、安積はホッとした表情で話を続けた。

「じゃあ、今日の部活終わった後でどうだ」

「分かった。うちの女子の誰かに審判やってもらうよ」

変な話になったと思った。しかし、久しぶりに安積と稽古をすると思うと、妙な高揚感に包まれた。



俺が打ち込んだ刺し面サシメンを、佐藤は一歩引いてかわした。

直後、俺の竹刀がわずかに下がった瞬間を狙って、佐藤は逆にメンを打ち込んできた。俺は慌てて頭をひねると、面の側面を佐藤の竹刀がかすった。

速い。

あいつの一足一刀いっそくいっとうの間合いから放たれる打ち込みは一瞬だった。

男子の体格、体力という優位性が全く役に立っていない。自分が相手だからだろうか、佐藤は男子相手に全く怖気付くことなく、堂々たる中段の構えで竹刀の剣先を自分の喉元に向けている。

(これだ。この構えだ)

鼓動が早まるのを感じる。

(子供の時からこの構えを見て、一緒にやって来たんだ)

自分の方が上背うわぜいで有利なのに、打ち込みに行けない。打ち込む動きを見せた瞬間、逆に打ち込まれるという確信があった。

俺は佐藤の構えから来る剣圧に、精神的に押されて来た。じりじりと上体が後ろに傾くのを自覚し、思わず横移動して剣圧を逸らす。

しかし、佐藤は滑らかな足捌きで安積の動きに剣先を合わせると、ずいと半歩踏み出した。

一足一刀の間合いに入った。

即座に対応しないと、佐藤の攻撃が来るタイミングだった。

しかし、逆に俺が動くのを誘い、迎撃する意図かもしれない。俺は佐藤の剣圧に押されて対応を迷った。

その時、佐藤の竹刀の剣先が上がった。

(来る!?)

俺は佐藤に先んじて刺し面サシメンを放った。精神的に追い詰められての、苦し紛れの先手の打ち込みだった。

佐藤は右斜め前に一歩踏み出し、腰を落とすと頭を傾けて俺の刺し面サシメンかわした。その体勢で竹刀を横から薙ぎ、胴に打ち込んでくる。

俺の右脇腹の辺りに衝撃が走り、竹刀が胴台に当たる小気味良い音が響いた。

「胴あり!」

審判を担当させられた女子部員が右手を上げた。見事なメン抜きドウだった。

やられた。

俺は肩で息をしながら竹刀を下ろすと、目を閉じて上を仰ぎ見た。



私は打ち込んだあとの残心を解くと、開始線の位置まで戻った。

今は私達以外に稽古をしている者はいない。白道着白袴の女子部員達が仕合場の端に一列に並んで正座し、私達の仕合いを見学している。男子部員達は興味が無いのか、講堂の端の方で練習を終えて防具を片付けていた。

「やっぱ無理だよねー。弱小男子があの佐藤さんに勝てる訳ないじゃん」

座っている女子部員が後ろで話している。

「だよねえ、しかし何しに来たんだろうアイツ」

「やっぱさ、いつも女子にやられっ放しだから、最後に御礼参りに来たんじゃない?」

「あー、でも返り討ちにあってるけどね」

どうやら一人乗り込んできた安積を笑い者にしているようだ。

私はその声を背中で聞きながら、安積がゆっくり開始線に戻ってくるのを見て、中学生の時に、安積と稽古したことを思い出した。

(あの時は、私が一本取ったら、あいつがムキになってガムシャラに打ち込んで来たっけ)

楽しい思い出は覚えているものだった。私は面の中で安積に向かってニヤリと笑った。

しかし、安積は怒りも笑いもしなかった。真剣な表情のまま、開始線で竹刀を構える。

安積のその反応は意外だった。大抵の場合、怒って向かって来たし、小学生の頃は竹刀で叩き合うただのケンカに発展したこともあったっけ。

私は開始線で竹刀を構えた。

「始め!」

女子部員の審判が再開を宣言した。

「ウリャアアアア!」

安積の気合いが講堂に鳴り響いた。腹の底から発した、見事な気合いだった。

この気合いに、この剣圧。

(安積は私に勝つために来たんじゃない)

「チョエエエエエエ!」

私も負けじと応じた。そして剣先を少し浮かせて打ち込みに走る。

メンが来る、そう思わせての小手面コテメン打ち込み。さらにその小手コテは空かして安積が小手の防御に竹刀を下げたところを本命のメンを打ち込んだ。

安積は竹刀でメン打ち込みをギリギリ防御した。審判の手はもちろん挙がらない。残念。

私はそのまま安積にぶつかり鍔迫り合いつばぜりあいの体勢になると、すぐにぶつかった反動を使って下がりながらの引き小手ゴテを打ち込んだ。けれど安積はそれを打ち払い、追いかけてメンを打ち込んでくる。

まだまだ。

私は打ち込みを防御して安積の突進を避けるようにしてすれ違うと、すぐさま振り返って安積の背後に迫った。

安積は振り返った直後の横面ヨコメンの攻撃に備えるため、竹刀で面を防御する姿勢で振り返る。

でもそれは想定済みだ。

私は胴胸どうむねを竹刀の切先きっさきで突いた。安積は肺が圧迫されたのか、一瞬呼吸が止まったように動きを止める。

「メエエエエン!」

安積がよろめいて竹刀が下がった瞬間、私は刺し面サシメンが安積に叩き込んだ。

「やめ!」

審判が静止した。

私が打ち込んだのは、安積が突かれて僅かに場外を出た後だった。



「なあ、佐藤」

「ん?」

仕合いの話が済んだ後、安積が口をモゴモゴさせながら話しかけてきた。

「お前にさ、言っておきたいことがあるんだ」

えっ、私はドキリとして安積を見た。

「な、なによ…」

「あのさ、小学生の時、相手チームに『女子がいる』って笑われたの覚えてるか?」

「は?お、おお覚えてるわよ。あの時は絶対負けるかって思ったわ。勝った時は痛快だった」

安積は頷いた。

「それじゃあ、お前のチョエーって気合いの声を笑われた時のことは?」

「覚えてるわ。笑った相手があんたにぼろ負けしてザマアミロと思った」

私も昔の思い出は沢山あった。

「あとさ、あんたは6年になっても、試合会場でお菓子持ってボリボリ食べてたよね」

「なんだよ、お前の個人戦を応援しに行ってたんだぞ」

「それ関係ないじゃん」

私がぷっと吹き出すと、安積は憮然とする。

「へっ、お前なんか、試合終わってみんなで車で帰る時、いつもよだれ垂らして寝ててひどかったぜ」

「なっ」

昔の話にも関わらず、私は思わず口元を隠した。にやにやしている安積を睨みつける。

「で、昔の思い出がどうかしたの?」

「どうもしないよ、ただ…」

「ただ、何よ」

「俺が剣道をここまで続けられたのは、その思い出のおかげさ」

部活の後、よろしくな。そう安積は言い残して教室に戻っていった。



(俺は何も分かっちゃいない、馬鹿なガキだった)

俺は開始線に戻りながら、先に戻っていた佐藤の後ろ姿を見ながら思った。

(けどやっとこの歳になって分かったんだ)

開始線に戻ると佐藤に向き合う。息を整えると竹刀を構えた。

(だから、俺の剣で、少しでも伝えるんだ)

俺は真っ直ぐに佐藤を見た。

今までの想い出に、感謝を込めて。

最後の全力を、あいつに見せるんだ。

「始め!」

「ウリャアアアア!」

審判の宣言に、俺は雄叫びを上げた。

「チョエエエエエエ!」

佐藤も気合いで応じてきた。

佐藤の足捌きは美しかった。構えも隙がない。弱小男子では歯が立たないことがよく分かった。全国ベスト8は伊達では無かった。

俺は担ぎ面カツギメンを放った。佐藤は頭上で打ち込みを防御し、すかさず手首を捻ると返す刀で逆胴を打ち込んだ。

あぶねえ。

俺は何とか竹刀のつかで防御すると苦し紛れのメンを放つが、間合いが近すぎて有効打にはならない。

俺は竹刀の柄を腹の前にしっかり握りしめて、佐藤に突進した。

佐藤は男子の突進をまともに受ける気が無かったのか、押された瞬間に俺の竹刀を抑えながら横移動しつつ、引き面ヒキメンを放とうとした。

(俺の剣道で、あいつに)

しかし俺は半歩下がって手首を回し、竹刀を小さく回転させて佐藤の抑えから逃れると、佐藤に追いすがる。

(あいつの心に打ち込むんだ!)

俺は刺し面サシメンを打つ軌跡で剣先を上げた。佐藤はそれに釣られて、面を防御しようと竹刀を一瞬浮かせる。

俺はそのタイミングを狙って佐藤の右手に打ち込んだ。

小手コテエエエエエ!」

メンを誘っての小手コテが決まった。

小手コテあり!」

講堂は一瞬静まり返り、俺達の荒い呼吸音だけが聞こえていた。



一本取られた。

安積は残心を解くと、気合を入れたのか、竹刀で自分の面金めんがねを叩いている。

私は少しの間、今の安積の見事な打ち込みに驚いてその場を動けなかった。

安積の動きには、怒りや勝利への執着が感じられなかったのだ。

私は開始線に戻る安積の後ろ姿を見ながら、あいつが部活前に昔の思い出話を唐突にしてきたことを思い出した。

(あの時は、安積が何を言いたいのか、何となく分かったけど、何となく分からなかった)

私が開始線に戻ると、安積が竹刀を下げて待っていた。

私が構えると、安積も竹刀の剣先を私の竹刀の剣先に重ねた。

安積は面の中からこちらを静かに見つめている。

(でも、さっきのあいつの打ち込みで、なんかわかった気がする)

女子部員の審判が二人の剣先に向けて両手を真っ直ぐに伸ばして言った。

「互いに一本一本」

(そして、これが、安積との最後の…)

何故か鼓動が早まり、ぞわっと鳥肌が立った。

(最後)

そうだ、この仕合いがもう、最後。

突然胸のあたりが苦しくなり、思わず構えていた剣先を下げた。それを見た安積も構えていた竹刀を下げる。

女子部員の審判がいぶかしげに私達を見た。



(なあ佐藤、俺達、明日は、来年は、何をしているだろうな)

俺は竹刀を下げて講堂の狭い二階を仰ぎ見た。

小さい頃、練習の休憩時には二人で二階の柵に寄りかかりながら雑談したのを思い出す。

(分からない、分からないけど)

この仕合いで、何か、大きく変われるような気がするんだ。

俺は竹刀を構え直し、剣先を佐藤の喉元に向けた。



(やらなきゃ)

私は竹刀を構え直す安積を見てそう思ったが、何をやるのか自分でも分からなかった。

(全力でやるんだ)

何をやる?

決まっている。

(安積…)

安積は面の中から真っ直ぐに私を見つめていた。

怒っても笑ってもいない。ただ強い、強い決意だけがそこにはあった。

私は何故か目に涙が滲んでくるのを感じて、歯を食いしばり、竹刀を力強く握って構え直した。

(全力でやるんだ!)



女子部員の審判は両手を水平に保ったまま、二人が構えて剣先を合わせるのを確認した。

「互いに一本一本」

女子部員の審判が再度宣言する。

安積は、ありがとう、と呟いた。

佐藤は、安積、と呟くと、大きく息を吐いて全身に喝を入れた。

「勝負!」

審判が両手を下に降ろすと、二人の気合いと竹刀の打ち合う音が講堂に響き渡った。


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