モデリングペーストの草原
絵を描いてみたかった。
皺ひとつない水貼りのケント紙に向かい合う幸福な女の背中を、私は幾度も思い描いた。
彼女はパレット代わりのコーティング紙の束に、山盛りのモデリングペーストを積み上げる。オリーブグリーンを指の先ほど加え、■■■■■で練り上げる。■■■■■のように。彼女はずっと微笑んでいる。
果てのない草原が描きたい。
彼らの来訪は決まって突然だが、私は不思議とその予兆を感じ取ることができた。彼らは耳鳴りがするほど静かな日にやって来る。今日もそのような日だった。
「不適切箇所の修正だ」
私の小さなアトリエは、三名の訪問者によってあっという間に落ち着かない場所となった。仏頂面のスケジューラー50の指示に従い、二人の部下は部屋の突き当たりに黒い保護カバーを被せられたそれをたてかける。それは非常に大きな長方形で、部下達は両端をそれぞれ掴んで雑に搬入した為、途中でイーゼルを引き倒したり、オイル缶を蹴ったり、乾かしていた陶器の小皿を割ったりした結果、アトリエの床は今散々な有り様となっている。
大きな板だ。号数で呼ぶとするならば、およそ60号くらいか。スケジューラー50がカバーを取り去ると、それははたしてF60号サイズの絵画であった。油彩だ。劣化の具合からして近年に描かれたような新しいものではない。
「一目瞭然だ。■■■■■している。そしてこの老人は……女性に対し……■■■■■ようだ」
スケジューラー50は当該の箇所を囲うように指先で円を描き、唇を戦慄かせてから唾を吐き捨てた。
「不適切だ。ピンクの錠剤が必要だな」
スケジューラー50が合図を出すと、部下が私に指示書を差し出した。
私はすぐさま書類に目を通し、今にも帰ろうとしていた来訪者達を引き留めた。期日に無理があったからだ。何も考えず前回と同じ期間を設けたのだろうが、あの時はトリミング、今回は修正作業である。十分に乾かさないまま持ち運んだ油彩画がどうなるか説明すると、スケジューラー50は■■■■■とでも言いたげに、悪意なく私にこう尋ねたのだ。
「早く乾かす方法は? どうにかしたら一時間くらいで乾くんじゃないのか?」
彼は模範的なβ級国民であり、彼は自分に割り振られた『半年後の万国芸術祭を恙無く成功させる』ことにしか興味がない。
『無駄』は可能な限り削ぎ落とす。『業務』を確実に遂行する。
余計な事を覚えず余分な物を持たない、我が国では推奨される思想だ。
スケジューラー50に説得を試みたが、私は結局、作業期間をひと月しか確保できなかった。年代・使用画材の特定、損傷箇所の補修、そして不適切箇所の修正。私はこれらをたったのひと月でどうにかしなくてはならない。
どうにかするのだ。
私には腕が四本ある。内二本は生まれつきのものではない。それは私がレストレーターの義務を得た者という証であり、業務にあたって、腕が四本あるとより効率的であると政府に判断されたからだ。
スケジューラー50もそうだ。彼はプロジェクト管理を正確に行う為、業務適応手術によって右手首に管理デバイスを埋め込まれている。彼が率いる部下たちもまた、同様の理由で業務がより円滑に行えるよう施術が行われている。私のコードはレストレーター3。美術品修繕、改良の義務を遂行するβ級国民である。
【サンプルここまで】
※作品は検閲されている状態です。巻末に未検閲の完全版を収録しております
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