第2話
そんなふうに彼女が愛して紹介してくれた『里山』の一軒家は、当時の僕には家賃が安い郊外の借家という意味でしかなかった。
ただ、土地の隆起した形が、なぜか見覚えのあるような感じがして、その土地の歴史も知らず、住む人の由来も知らないまま住み、里山に特有の細い縦横に走る小路を歩き回っていた。
それ――或いはそこの風景――は、冬枯れの季節、花の季節と共に、僕の心象風景になり、いつかそれが脳裏から消えることはなくなっていた。
「そこまで知らないと、自分が何故ここにいるのかということにさえも気がつかないでしょうね。一体いつまで寝ているのかしら」
三年のとき、『いい加減に目を覚ましなさい』と言って、僕の無知に感動した音乃が笑いながら、僕の覚醒作業を始めた。
音乃は田舎の原風景を好み、弓や音楽の造詣も深いという多彩な趣味や知識を持つ文学女子でもあったから、僕のことを専門馬鹿と言って笑いながらも、国木田独歩の『武蔵野』を貸してくれて、彼のように情景を見開く術から教えてくれた。
だからなのだ。僕は、独歩が夏の日の光の中を歩き、
「独歩の『武蔵野』にはサイドストーリーがあるのよ」
彼女はそう言って物語を僕に話した。
「独歩は『武蔵野』の終章で、場所のことを書いてるでしょう。『大都会の生活の名残りと田舎の生活の余波とがここで落ちあって、緩やかにうずを巻いている』だから懐かしいと。そんなところには色々な物語の二つ三つ軒先に隠れていそうだって」
「うん。で、その軒先の物語がどこかに載ってるってことかな?」
「載ってはいないわね。でも私は夢でその事を知ったのだけど、聞きたい? 授業料は魚民の夕食でいいわよ」
『夢か』とは思わなかった。
彼女は僕にそれを話さなければならなかったのだし、そして僕は彼女が紡ぎ出す言葉よりも彼女の軟らかな唇を、髪を梳くって耳にかけるときの笑顔を、その時に見せる片笑窪を、いつまでも見ていたかったのだから。
* *
「あのね、豪族が群雄割拠して武士が勢力を拡大する前に、この地にも文化が花を開いていたの。それは
彼女は、見てきたような言い回しをした。
「そうなんだ……でも、とりあえず差し支えのない範囲で、氏もカバネも現代語に直してくれないか。『
「うーん」
彼女は僕の乱暴な要求を、おでこに細い皺を作って考え込む。
彼女は古語、大和言葉が好きということだけではなく―― 物語をその場所の、その時代の言葉で語りたかったのだ。それが彼女のアイデンティティーだったのだし、僕は『
僕は何故そのとき、そのことに気付かなかったのだろう。 今なら思う様、彼女の言葉を聞きたいと願った筈なのに。
「時代は河越氏が荘園を作った辺り。平安の末ぐらいだと思ってね」
「平安の末! すると、都は勢力争いで騒然としていたのかな?」
「そう。都で技を磨いた人達が危険を避けて地方に移った。全国で画や書や焼き物、衣服や美術などを伝えて土地の文化が育った。民の生活は意外に安定していたみたい。でも、安定している今だから備えなければいけないと考えた邑の
そう考えたきっかけは、交代した
見つめていた音乃の周りから酒場の喧噪が消えた。
「十五歳のときから同じ夢を何度も見た。あなたは
その言葉と共に違う景色が、高殿から見下ろすように見えた。
* *
瑠伊は受領がこの邑で病死したときに
破留は知らなかった。すると、線引きは十五~十六歳か。
ならば十三歳以下の塾生もいるこの場で『里』が持つ秘密を説明をするべきではなかった。
「そこまで言うたのなら途中でやめてはならぬ」
秘密の存在を邑の者、特に塾生に聞かせた。ならば、秘密を守らせる統率力を見せてみよ。それができなければお前の命は無い。
眼がそう言っていた。
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