15.緋色の髪の女
距離が詰まっていた。
「ひゃうッ!」
切れるような声を上げ、木の陰から飛び出す。生と死の混濁する空間へ。
伊乃の黒髪が流星のように流れ、舞う。
伊乃は信じられない速度で矢をつがえ弓引き、矢を射る。
半呼吸で三本の矢が飛んだ。
現代でも弓の研究者でアーチェリー競技者の中に、〇.六秒で三本の矢を放つ者がいる。
伊乃の速射技術はそれ以上であった。
打った瞬間、もう伊乃はその場にはいない。
プスプスと地に敵の矢が刺さる。
「あははははは、のろい、のろすぎる!」
伊乃はふわりと飛ぶ。まるで重力が消失したかのような予備動作のない跳躍。
身を回転させ、足の甲で枝にぶら下がった。
異常なまでの身体能力だった。
そのまま、矢を放つ。
脳天に矢を受けた敵が無言で倒れる。
肩に矢を受けた者が、後ろに下がった。
腹に矢を貫通されたものは、そのまま向かってきた。
「死ね! あははは、死ね! 死ね! 殺してやる! きゃはははは!」
甲高い笑い声が置き去りになるほどの高速機動で森の中を移動する。
しかも立体的な機動だ。
このような動きをしても、伊乃の矢は的確に敵を捉えた。
「あははは、もう味方はいないけど、どうする。逃げる? 殺し合う? あははは、どうするの? どうするの? きゃははは!」
恐るべき攻撃力だった。
中世の主武器が弓であるということから見れば、伊乃の攻撃力は虎猿すら凌駕しているのかもしれなかった。
「ふしゅッ!」
唇をすぼめ出された、伊乃の呼気と同時に矢が走る。
またしても一瞬の三連射――
視認することが困難な一連の動作だった。
ただ、箙から矢を抜いたときには指に三本の矢を引っ掛けていた。
指にかかった矢を次々に引き絞り射る。
それだけではない――
このような速射が可能な理由のひとつに矢の長さがあった。
伊乃はかなり短い矢を使い、弓の引き絞りも最小限にしていた。
それでも、反発力の強い和弓――伊乃の弓が特別製かもしれないが――は十分な殺傷力を矢に与えていた。
風を切り裂き、矢が飛ぶ。
一直線に緋色の髪をした女に飛んでいった。
必中の線上を進む。
バフーン――
空間を砕くような音が響く。
矢が粉砕された。
「鎖分銅? あははは、森の中で?」
伊乃の矢を砕いたのは鎖の先に分銅を付けた武器だった。
敵の女は鎖をぶんぶんと振り回していた。
風圧で触覚のように二本にまとめた長い髪がゆらゆらと踊る。
本来であれば、木々が密集する森林戦に適した武器ではない。
が、旋風のように振り回された鎖分銅は、障害物ごと粉砕する威力を秘めているように見えた。
「弓はやーめた」
伊乃は弓矢を無造作に手放す。
すっと腰を沈めた。
轟――
唸りを上げ鎖分銅が吹っ飛んできた。
一瞬――
伊乃の身体を突き抜けたように見えた。
残像をつきぬけ、鎖が伸びきる。
伊乃は低い姿勢で地を蹴る。一気に間合いを詰めてくる。
緋色の髪をした女は双眸に喜色を浮かべる。
クイッと手をうごかした。意思をもったかのように分銅が運動ベクトルを変える。
鎖分銅が大蛇のように、動き伊乃の背後から襲う。
ぶわっと、伊乃の長い黒髪を巻き上げた。
髪を一部を引き千切り、分銅が空間を突き抜ける。
「あははは、なにそれ? なに? あははは」
伊乃は歓喜と狂気の色をあらわにした瞳を真っ直ぐと女に向けた。
女も笑っていた。
口の端がつり上がっていた。闇に浮かぶ
『殺す。死ね。ゴミが』
「あははは、何言ってんのか解らないよ」
『倭猿が』
「ばーか!」
言葉は通じなくとも、なにか悪口を言われていることは解る。
そもそも、戦において悪口、誹りは、ひとつの技術であった。
現代の戦争においてすら、電子の世界では言葉の戦いが行われているのだ。
ゆるゆると、伊乃が動く。
鎖分銅の攻撃を誘うかのように間合いを変えていく。
ブン!
鎖分銅が一瞬で距離を殺す。
空気が焼け付くような速度で伊乃に迫った。
伊乃は飛んだ。
木の幹に蹴りを叩き込み、違う角度へと身を翻す。
転がりながら、大樹の背後に隠れた。
『逃ているつもりか? 猿』
鎖分銅が弧を描き、鎖が大樹の幹にあたる。
木の皮が削れ舞い散る。
鎖の先にある分銅が回り込み、背後の伊乃を襲った。
「がん」という音をたて、幹に分銅が食い込み、大きな穴を穿≪うが≫った。
「きゃはははは!!」
哄笑の尾を引き、凄まじい速度で伊乃が突っ込んでくる。
鎖を間一髪で躱していた。
「ひゃはぁぁ!!」
伊乃は握り混んでいた右手を振る。
石と砂――
鎖では防ぎようのない奇襲。
緋色の髪の女の顔面に向け飛んできた。
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