16.勝利のための退却

 石、砂が顔に当たる。目は開けたままだ。

 本能を押さえ込みカッと目を開く。

 眼球に異物が当たるのを感じた。

 それでも目を閉じない。見えればいい。 


 戦慄していた。

 歓喜していた。

 

(戦いが面白い――?)


 今まで感じたことの無い感覚だ。

 李娜リーナは生まれたときより人を殺すためだけの訓練を受けてきた。

 父も母も北宋人であった。

 自分が母の腹の内にいるとき、蒙古人の襲撃を受けた。

 母は蒙古人の妾となり、自分は戦のためだけの道具になった。

 どんな感情も持つことなく、暗殺、密偵なんでもこなしてきた。


 倭人の伊乃の拳が下からすっ飛んでくるのを感じていた。

 

(えげつない)


 この攻撃に好意を覚える。

 惚れそうになってしまう。


 ひゅん。


 李娜の顔すれすれの空間に鋭い牙が疾走する。

 頬にすっと赤い筋が走った。

 素手ではなかった――

 なにか鋭い武器を手の中に潜ませていた。

 更に、腹にドンっという衝撃を感じた。

 蹴足だ。

 それはどうということはない。

 撫でられるようなものだ。


 攻撃に被せるように、李娜も拳を振っていた。

 鎖分銅の間合いではなかった。

 ただの拳でないのは同じだった。

 暗器――

 鋭利な鉄の切っ先を持つ棒状の武器を拳の間から突き出していた。

 突いてもいい。

 切ってもいい。


 倭人伊乃の頬を掠める。


(毒を塗っておけばよかった……)


 一瞬だけ思う。

 倭人の伊乃は弾けるように後方に飛んだ。

 なかなかに早いが、着いていけぬほどではない。 


「殺してやる。殺す。殺す。ああああ、打ち殺す。死なす」


 倭人の伊乃は何かを言った。

 意味は分からないが、どうでもいい。

 奴の頬をぬるぬるとした血が流れていた。

 目が釣りあがり、獰猛な牙を剥いているかのような気。

 

(弓、徒手、暗器―― 動きは早い。力も女とは思えぬ……)


 李娜リーナは冷静に敵の攻撃力を分析する。

 そして、本来の目的の達成可能性を考える。

 後方からの敵の霍乱。

 どうにも、この変な女と出会ってしまったことで目的の達成が困難であるという結論に達しそうだった。


 周囲を見る。

 濃厚な緑の匂いを含んだ風が吹いた。

 その中に血の匂いが混ざっている。

 骸となった隊の者が積み重なった落ち葉の転がっていた。

 広がる落ち葉が赤く染まっている。


(この戦いに意味があるか?)


 戦いを楽しいと感じていた李娜が現実に引き戻された。

 意味はない――と、いう結論に達し、事後策を考える。

 三つ四つの策を思いついた。

 

「しゃうっ」


 倭人の伊乃が突っかけてきた。

 鎖分銅でなぎ払う。

 身をかわす。


(くそ猿が!)


 李娜は下がった。

 意味はない。

 この戦いは意味のない戦い《遭遇戦》だ。

 消耗するだけ無駄だ。


 李娜リーナは骸のひとつに近づき、そこに落ちていた物を拾う。

 すばやく投げつける。


        ◇◇◇◇◇◇


(この女速い。くそがぁ。殺してやる)


 頬に流れる自分の血の温度を感じながら伊乃は攻撃を続ける。

 接近しての暗器の攻撃。

 禍々しい黒い切っ先をもった楔形の暗器。

 それを拳に仕込んで切りかかった。

 掠っただけだが、それはいい。


 本命の攻撃だった蹴足が、全く通じなかった。

 中に鎧を仕込んでいるとかではない。

 肉の感触はあった。ただ、まるで巨木か巨岩に蹴りをいれたかのようだった。

 足が肉の内から弾き返された。


 女が下がる。


(何だ? 死体に? え?)


 女は死体の脇に転がっている丸いものものを掴んで投げた。

 

(遅すぎる)


 ふわりと投擲された、丸い何か。

 当たったところで痛くも痒くもなさそうであった。

 ただ、この女が無駄なことをするか?

 頭の奥底でささやきを感じた。


 それが伊乃を助けたともいえる。

 伊乃は後方に跳ねた。

 瞬間、丸い物が空中で爆ぜた。


 轟音を響かせ、爆炎と爆煙で空間を染める。

 鼓膜に打撃を食らったような感覚で伊乃は転がった。

 バラバラと何かが体に当たった。

 細かい破片が背に刺さったのを感じる。


「っ!」


 何が起きたのか分からない。

 いきなり目の前で稲妻が走ったのかと思った。


 伊乃は立ち上がった。

 濃厚な煙が、視界を塞いでいた。

 ゆるゆるとした風がじょじょに薄墨色の煙を払っていく。


 いなかった。

 女はいなかった。

 

「はは、逃げやがった――」


 伊乃は言った。

 その膝は細かく震えていた。

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