3.対馬防衛戦・1274

「ほう、凄まじきものよ―― ひひひ」

 

 千隻はあろうか――

 対馬沖合いには異国の艦隊が停泊していた。

 対馬の守護代・宋助国は、対馬沖合いに浮かぶ軍船を見やって思う。


(あれが、蒙古か……)

 

 齢六十八と思わせぬ獰猛な笑みが口元に浮かんでいた。

 圧倒的な敵の戦力。それを全く意にかけない。

 むしろ、歓喜が――

 胸の内に生じる歓喜が――

 いくさを希求する苛烈な思いが肉を引きちぎり獣となって飛び出そうになる。


(ああ、楽しいのぉ―― 長生きはするものよぉ)


 古希を間近にひかえた武篇ぶへんの男は視界に蒙古の船団を捉え、歓喜に震えているのだ。

 その存在は、勇猛というよりも凶悪、無法といっていい古き鎌倉武士を煮詰めて濃縮し結晶化たようなものだった。

 死と生の狭間でたゆたう戦こそが喜びであった。

 殺して、殺して、徹底的に容赦なく殺しまくりることが、武士の生きる道であるというドグマを体現した者だ。


 すでに大宰府から蒙古襲来に関する警告は受けていた。

 我らが国を恫喝する国書が届いたのは七年前だ。

 それから、いつでも受けてたつ準備ができたいた。

 蒙古襲来の知らせは、対馬小太郎、兵衛次郎を大宰府に送っていた。

 そして、対馬中央部、峻厳な山頂にある金田城へは大宰府から送られてきた者と配下のものを向かわせ、狼煙を上げさせる手配をしていた。


(あやつら、仕事をするか。妙な女子もおったが……)


 大宰府から送られてきた三人は胡乱うろんではあった。歩き巫女装束の女子もいた。

 意味が分らぬ。

 対馬守護代として生きてきた武篇にとってなんとも不可解な連中ではあった。

 が、身に帯びた剣呑な雰囲気は――


(並みの者ではなかろう)


 と、宋助国を思わせるものであった。


 元々「金田城」は白村江の戦いに破れ、大陸からの侵攻を恐れた大和朝廷が七世紀に建設したものだ。

 十三世紀の元寇において「金田城」の存在は放置され活用されていなかったというのが通説であった。

 しかし一九八五年の皇立九州大学と、長崎県教育庁の協同発掘調査により同時代に使用されていた形跡が発見され、それを裏付けるいくつかの史料なども見つかっている。

 金田城で上げられた狼煙は、壱岐島の城塞で見ることができる。

 そして、壱岐島でも狼煙が上げられる。それは大宰府で目視可能なものだった。


 大陸からの侵攻を早期警戒しうるシステムが古代において構築されていた。

 鎌倉幕府は、そのシステムをそのまま利用した。

 天候さえよければ、対馬、壱岐、大宰府まで間を置かず情報が伝達できる。

「大陸から侵攻を受けた」という情報を知らせるだけであるなら、十分なものだ。


(後は蛮夷どもを殺しまくるだけよのぉ)


 とにかく、戦い、殺し、戦を続ける。

 相手が嫌になるほど戦を続け、時間を稼ぐ。

 可能であれば、対馬から先に進ませない。

 峻厳な地形と島の広さ(東京二十三区と同等)を使い引きずり込めばどうにでもできそうだった。

 

 一族郎党は八十二騎。

 宋助国は己が手勢を見やる。

 大鎧に身を包み、大弓を装備している。

 この時代において、世界最強の重装弓射騎兵といっていい。

 更に、盾、弓、長刀、鋭い鋼の爪と鎖をもった熊手を手に持った一族郎党たち。

 一騎あたり四~五人の歩兵がひとつの戦闘単位コンバットユニットとなっている。


 現代でも確認できる第一級史料「蒙古襲来絵巻」でも確認できる武装であり、陣容である。

 鎌倉武士は「元寇」において名乗りを上げ、個人戦を行ったとする通説がある。

 それは今では否定されている。

 名乗りを上げ、ルールをある戦いをするのは、領主間の支配領地争いなどの「私戦」に限った話だ。

 源平合戦の時代から、本格的な戦においては、容赦なし手段を選ばぬ集団戦が当たり前だ。

 義経は壇ノ浦で戦闘員ではない船のこぎ手(水主かこ)を弓で狙い打ったのだ。 

 断崖絶壁から奇襲を仕掛けているのだ。

 どこが、個人戦なのだ? どこにルールがあるのだ?


 鎌倉武士の戦いの目的は敵を殺すことが第一だ。首をかき切り長刀に高く掲げることが夢なのだ。

 これは「分捕り」といわれ、殊勲第一となる。

 その他、「討死」「手傷」「先懸さきがけ」という殊勲がある。

 殊勲の証拠を明確にするため、大声で名乗りを上げ突撃することはある。

 ただ、それは味方に自分の存在を知らせるためだ。

 名乗りを上げるために、敵前で棒立ちする阿呆はいない。

 更に、零細武士でなければ、騎馬単独での突撃などありえない。

 騎馬、歩兵一体の機動が戦場での基本となる。

 この対馬、宋助国の兵のようにだ。

 それは、十三世紀の中世世界において、最強の戦闘単位といってもよかった。


 とにかく、対馬、佐須浦の海岸にはその種の凶悪な鎌倉武士が五百人近く布陣していたのだ。


「通詞を出しますか?」

「はぁ? なあ~ぜじゃやい。これは戦だろうが。阿呆か」

 

 オマエ、頭大丈夫か?

 という感じで、宋助国は質問を口にした家来に言った。

 対馬は高麗との交流の歴史も古い。

 高麗語を使える者が幾人かいた。

 だが、ここで「何しに来たんですか?」と訊く莫迦がいるのか?


(ボケが、目の前のこの有様を見て分らぬか? いくさ以外の何がある?)


 だから莫迦は嫌いなのだ――

 そう思いつつも、さすがに戦の前に身内に厳しい言葉をかけるのは躊躇ためらわれた。

 宋助国はどうしようもない莫迦に対し胸の内で悪態をつく。

 宋助国は、戦がしたかった。早く戦がしたかった。

 異国?

 蒙古? 

 高麗?

 相手など関係ない。

 ぶち殺す。殺して首をかき切り、長刀に高く掲げ晒してやりたい。

 

(ああ、殺したい。異国の奴らはなにをやっているのか?)


 おまえらは戦をしに来たんだろう?

 さあ、早くやろうじゃないか、楽しい殺し合いを。

 この弓矢で貫き、太刀で切刻み、その身を物言わぬ骸に変えてやろうではないか。


        ◇◇◇◇◇◇


倭奴ウェノムの奴ら、意外に多いな……」


 蒙古、高麗、漢人、女真族混成の日本遠征軍副司令官である洪茶丘こうちゃきゅうである。

 海岸に陣取った倭兵を見ての思いだ。

 ただ、多いといってもこちらに比べれば物の数ではないが……

 せいぜいが五百かそこらというところだ。

 こちらの船の数よりも少ない。


 洪茶丘は高麗人であったが、親が早々に高麗を見限り蒙古についた。

 本人も自身を高麗人だとは思っていない。むしろより蒙古に忠実であろうとし、高麗に対しては苛烈に接していた。

 生き残るため、自侭に生きるのは中世では当たり前のことであり、今の道徳規範をもって彼を断罪するのは酷な話であろう。

 ただ、同時代を生きる高麗人にとって洪茶丘の存在はたまったものではなっかた。


(兵を戦に馴らせ、略奪の味を覚えさせ、水の補給……)


 日本遠征のため、対馬に立ち寄るのは、軍事的に非常に不可解に思えるかもしれない。

 確かに、現代の視点でみればそうだろう。

 上陸戦における、上陸側の有利な点は「いつ」「どこへ」上陸するかの主導権を握っていることにある。

 対馬上陸はあえてその有利さを捨てる行為となる。


「狼煙か…… しかたあるまい」


 山がちの対馬の中央部、その高みから天空に向け煙が立ち上っている。

 明らかにこちらの上陸を知らせる「狼煙」である。


 そうであっても――


(しかたがない)

 

 と、割り切る気持ちが洪茶丘の中にはある。

 いや、洪茶丘というよりは、この遠征軍首脳に共通する思いだ。

 洪茶丘に対する反発を露骨にあわらにしている、高麗の将軍・金方慶きん ほうけいにしてもだ。


 洪茶丘は人を阿呆のように見る金方慶の泥鰌髭面を思い出しむかついた。

 いつか、殺してやると思っているが、今はそのときではない。


(とにかく、倭奴ウェノムを皆殺しにして、略奪、補給だ。あいつは臭い船の中で留守番だ)


 ひひひと、下卑た笑みを浮かべ、これから略奪する倭人の女のことを思った。

 いい女がいればいいなと思った。肉の削ぎがいのある女が好みだった。


 上陸が知られ、上陸船団の動向がある程度つかまれても、対馬そして壱岐に上陸する必要があった。

 別に女を略奪して犯したいからではない。

 洪茶丘が無理やりするのが好きで、切り刻み、ひんやりと体温を失い、どろどろの血塗れになった女に突っ込むのが好きだとしてもだ。


 上陸は必要だ。

 それは水の問題があるからだ。


 これについて、国防省戦史研究室の「元寇<1> 対馬・壱岐防衛作戦」から引用する。

 日本侵攻作戦の動員人数は戦闘員が、二万五千六百人とされている。

 多くの「元寇」を扱った書籍、小説では、おおよそこれに近い人数が「文永の役」での蒙古軍の人数とされているケースが多い。

 しかし、軍には兵站を維持するための人員が必須だ。

 更に、船のこぎ手、航海を担う人員も必要なのである。

 動員人数は合計四万人を超えるのだ。


 この人間に水を供給するのは大変なことだ。

 あらゆる意味で、清潔ということができない船内に貯めてある水は大よそ二日で腐る。


 十七世紀以降の欧州の大陸間を航行する船舶でも、水の供給は大問題であり、水にアルコールを混ぜることで、この問題を回避していた。

 船舶の飲料水問題が解決するのは、動力船が実用化された以降の話となる。


        ◇◇◇◇◇◇


 銅鑼の音が海面を叩く。

 するすると、三角形をした信号旗が揚がった。

 蒙古が高麗に建造させた兵員輸送船、この時代の水準でいえば「戦艦」と評してもいい大型艦から小型の船が降ろされる。


 上陸用舟艇――

 この時代の名でいえば「抜都魯バートル」であった。

 蒙古の言葉で「勇猛」を意味する。

 戎衣じゅういに身を包んだ兵たちが船に乗り移る。


 海岸からの距離は五百メートル以上あった。 

 小船に乗って上陸してくることは丸分りだった。

 しかし、距離はどうか。


「撃てるか?」

「届くだけならば」


 宋助国は不愉快そうに鼻を鳴らす。


(どうしたものか。撃つか、撃たぬか)


 と、思案する。確かに届くだけなら届くだろう。

 しかし、浜風が強い。源平時代の那須与一でも連れてきても、当たるかどうか怪しいものだ。


 元寇の通説の中には、和弓は元の弓に比べ威力が低いというものがある。

 これも、「元史」「高麗史」の検証されていない一部の記述を採用したものだ。

 実際に、検証を行った結果、和弓は同時代の弓の中でも群を抜く威力を持った投射兵器であることが分っている。 

 また、和弓を合成弓ではない(複合素材を利用していない)と誤解している人も多い。

 和弓は竹、木を動物性の膠で接着したもので、明らかに合成弓だ。

 さらに、史書に残る最高飛距離は七百メートルを超える。

 元寇において「飛距離がでない」と言われたのは、弓矢の運用方式の差であった。

 鎌倉時代の重装騎馬弓兵は、必中距離十メートル内外で発射していた。

 お互いに、装甲に包まれているといっていい大鎧を纏い、馬で機動する存在だ。

 しかも熟達した武士は全方向に矢を投射する。

 お互いに遠距離からの攻撃では、撃破の難しい存在であった。

 よって、運用距離が短い。

 ただ、常に短距離で投射していたわけではない。当然遠距離射撃の技法も存在する。


 元の短弓は集団の一斉投射によって、矢で面を包み込むように使用する。

 同じ弓であるが、その運用方法の異なる兵器であった。


 後世の兵器にたとえるならばどうであろうか。

 日本の弓は移動する強装甲目標を破壊する「カノン砲」「戦車砲」のようなものだとすれば、元の弓は一斉に大量の砲弾をばらまける「迫撃砲」のようなものであろう。


 とにかくだ――

 今の距離は、対馬の宋助国軍も蒙古上陸軍も、どちらも攻撃の手段がない。

 対馬側には、迎撃に使用可能な軍船もなかった。


 蒙古の軍船は、上陸用舟艇の展開を続ける。

 小型の「抜都魯バートル」は数を増やしていく。

 兵を搭載した船の数が五十を超えた。


「まだ、来ぬか」


 ギリギリと歯を鳴らし宋助国は言った。

 己が矢となり、敵を貫きたくなってくる。

 しかし、どうしたところで、何かが出来る間合いではない。


 銅鑼が鳴る――

 浜風に混ざりドロドロした音が流れてくる。

 それに合わせ、ようやく「抜都魯バートル」が進みだした。


 宋助国の口元に笑みが浮かぶ。

 後世の言葉で言えば「水際撃滅」という作戦が想起される。

 当然である。船に乗っている敵は揺れて弓の狙いもつかない。

 こちらは一方的にでかい船を目標に撃ちまくれる。


 ゆっくりとした速度で――

 それでも銅鑼の音に合わせ、隊列をそろえながら――

 蒙古の上陸用舟艇は進んできた。

 この時代の上陸戦とすれば、上出来の連携であっただろう。

 それでも、遅れている船はいくつかある。


「父上、届きますな」


 宋助国の耳に息子の馬右次郎の声が届く。


「放てぇぇぇぇ!!」


 対馬守護代・宋助国が獅子吼した。

 対馬の木々が揺れ、波が割れる。


 二メートルを超える大弓が引き絞られ、一気に矢が放たれる。

 強烈な運動エネルギーの反作用が握り手を中心に弓そのものを回転させる。

 和弓独特の動きであった。


 無数の矢が弧を描き、蒙古の上陸舟艇を襲った。

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