2.極東ユーラシア情勢
一二七四年(文永十一年)日本は未曾有の危機を迎えていた。
もし、同等の危機というものを探すなら古代における「白村江の戦い」における敗北が相当するかもしれない。
当時の大和政権中枢にあった危機感――
唐、新羅の連合軍が、本土に侵攻してくるのではないか?
そのような危機感は、極めて真っ当なものであっただろう。
有無を言わせぬ敗北を経験した当時の政権中枢にいた者にとっては、だ。
今のような情報が簡単に得られる時代ではない。
その恐怖は日本の中で様々な変革を生み出した。
遷都もそのひとつであった。
西国の防衛体制強化もそのひとつであった。
が、結局のところ、当時の大和朝廷中枢が持っていた危機感は杞憂に終わった。
ただ、それは歴史の結果を知っている「安全地帯」にいる者だけが持てる感想にすぎない。
全ての人は時間という先の見えない「檻」の中にいるのだから。
そして、今回の危機は杞憂に終わりそうになかった。
日本国が国家規模の侵攻――それも巨大帝国の――を受けるだろうことは間違いがなかった。
ユーラシア大陸の中央――
乾いた高原に暮す騎馬遊牧民であったモンゴル族は大陸に超巨大帝国を築いていた。
西は東欧、南は中東、東においては高麗を征服した。
東アジア冊封体制の頂点たる宋も北半分は滅びた。
南半分も滅亡の淵に追い込まれている。
蒙古帝国――
後に国号を「元」と改めるユーラシア大陸の支配者は、その支配体制の中に日本を組む込もうとしていた。
元を頂点とする新たな国際新秩序の構築。
それが、皇帝クビライ・ハーンの目的であったと言われる。
日本の選択肢はふたつだ。
蒙古帝国-元-に屈し、その支配を受け容れるのか。
それとも、それを拒否し戦うのか。
執権・北条時宗を中心とする鎌倉武士政権は蒙古帝国の要求を拒否した。
朝廷も同様であった。
そもそも鎌倉武士政権は、武力を背景として成立したある意味非合法武力集団の統合政体だ。
武家の棟梁たる貴種の征夷大将軍を象徴とし、その実権力を握っているのが北条得宗家であった。
北条得宗家は、己がライバルとなる可能性のある他家をあらゆる手段で叩き潰し、血みどろの内乱の中で権力を握り続けてた。
武力こそが北条得宗家の正統性を担保していた。
蒙古帝国がどのような国家であるのか、それを知らなかったのか?
鎌倉武士政権、朝廷が外交に疎く、国際的な孤立をしていたため、避けられる戦争を避けることができなかったのだとする論も後世には出てきた。
このような論も所詮は歴史の結果を知っている者の後知恵であり、傲慢な思いであろう。
鎌倉幕府は、宋から大陸情報を掴んでた。(多分に蒙古の敵国であった宋の愛国的フィルターがかかっているとはしても)
更に、商人の交易は盛んに行われ、その貿易を統制している北条得宗家には、富とともに、情報も集まっていたのだ。
征服された高麗の惨状も知っていた。
決して、無知なるがゆえ「戦争」を選んだのではない。
戦わなくばどうなるのか?
友好を受け入れるとしよう――
だが、それで平和が担保される保証は無い。
蒙古は、日本の民を尖兵とし対南宋戦争に投入する可能性もあった。
それが彼らのやり口だからだ。
『
執権・北条時宗が執権となったのが三月、一八歳のときであった。
この国書への対応は、時宗を中心に行われた。
結果、国書には返答せず。
要するに「爾後蒙古帝国を相手とせず、戦でもなんでも上等である」ということである。
外交権のある朝廷もそれに同調。
ただ、恐れおののいた公家の存在が史料から確認される。
このことからも、朝廷側も蒙古帝国に関する情報を全く得ていなかった分けではないという証拠になった。
しかし――
途絶していたとはいえ、大陸との外交情報の蓄積のあった朝廷では「蒙古」という「無知蒙昧」で「古臭い」という蔑称としか思えない国家名を笑った者もいた。
結局のところ、反応はそれぞれであったが、国家としては「戦争も辞さず」という結論に至っている。
後世の史学者の中には南宋に対する「国書」の苛烈な文面に比べ、日本に送られた国書は宥和的であり、蒙古帝国は戦争を望んでいなかったとする論を張るも者いる。
ただ、この論はいくつかの点で破綻する。
・宋とは戦争中であり文面が苛烈となるのは当然であること
・国書の最後に『兵を用うるに至りては、夫れ孰(たれ)か好むところならん』と武力行使を仄めかしていること
・クビライは交渉中に日本遠征の準備を進めていたこと
最近では『不宣』という言葉が臣下ではなく対等な相手に使う言葉であるとして、蒙古の戦争意図を否定する論もある。
しかしだ――
仮に戦争にならないとしても、蒙古の政治目的は日本を影響下に置くことであることは間違いなかった。
結果、国家の独自性は失われる。
日本は蒙古帝国、後の元の国家戦略の中に組み込まれただろう。
歴史にIFはない。が、その後の日本の歴史は大きく変わったものになったであろうと推測できる。
そして、北条時宗はこの国難を利用し、得宗家の権力の拡大を行う。
得宗家による日本国の統制だ。
国難・外敵の存在はいつの時代でも、国家をひとつにまとめる材料になりうるのだから。
それは中世であっても変わりはしなかった。
国家という概念が希薄である時代であるとしても。
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