3

 砂利道を抜けると、車は海沿いの道を走った。道はだんだんと細くなり、左右を海に囲まれた崖のうえを高くのぼる。その半島の先端に墓地はあった。

 ましろい十字架が多く並んでいる。そこそこの高地にあり、つよい潮風に晒されているので、十字架はどれも痛んでいた。それよりも風化した姿で、コンクリートの建物が打ち捨てられている。屋上の十字架はもうなかった。入口にある石柱のほこりを払うと、そこには「이든」という刻印が苔むしていた。韓国語の勉強を始めたので、その意味は分かる。「ひかりの園」という訳はあまり正確ではない、ババアの意訳だったことも。この言葉に込めたババアの気持ちも。

「うちらが引き取られて十年後ぐらいに、『ひかりの園』は潰れたらしいで」

 恵子が神妙な口調であたしに話しかけ、あたしの背中にそっと手を添えた。恵子はそのことをメールでも教えてくれていた。「ひかりの園」は資金面で非常に厳しく、ろくな食事は与えられず、風呂にも入らせてもらえず、性的なものも含めて虐待が横行するひどい状態だったらしい。形だけの行政指導が何度か入ったが、まるで改善されなかったそうだ。最終的には離散に近い形で「ひかりの園」は消えた。これはニュースにもならなかったので、残された子どもたちがどうなったのか、今となっては分からない。いまはユダの聖堂がこの地を買い取り、カトリックの墓場として再生させたそうだ。献金した人のリストにはババアの名前もあったらしい。

「『ひかりの子どもたち』も、この墓場に眠ってたりするのかなあ」

 そう呟くと、応えるような強い潮風があたしの身体をあおった。

「……うちらは、ババアに救われたんやな」

 恵子がそう言い、あたしの手を握った。その手はすこし震えていた。

 いつもポリコレにうるさかったババアのことを思う。あたしはそれを偽善だと思っていた。韓国人と、女と、障害と、差別と呼ぶべきものかもしれない何かに翻弄されたババアの人生を振り返るとき、あたしはやっぱりそれは偽善だと思う。あたしは韓国人が嫌いだった。智子は女が嫌いだった。恵子は障害者が嫌いだった。いまは、違う。違うやり方で、あたしはババアを差別してやる。――愛してやる。


「美子ー! 恵子ちゃーん! 早くおいでよー!」

 ババアの墓の前から智子があたしたちを呼んだ。墓場でいちばん新しい十字架がババアの墓だった。墓のまえにはしろい菊が一輪添えられたティンキーウィンキーのグラスが置かれてあり、日差しを浴びて紫色の光を拡散している。恵子がしばしばお墓を訪れてくれているのだと聴いていた。

 あたしたちはババアの墓の前に並び、同時に十字を切り、手を合わせ、目を瞑る。しばらくして目を開いたのち、恵子が両手に抱えた骨壺に気づいた。

「……それ、どうすんの?」

 あたしが尋ねると、恵子はきょとんとした表情で大きな目を丸くし、智子を振り返って言った。

「知らんよ。納骨のやり方、智子さんが知ってるんちゃうの?」

 智子は慌てて手を振る。

「は、そんなん恵子ちゃんが調べてくれてるんじゃなかったの?」

 恵子はすぐに言い返す。

「どんだけ人頼みやねん。智子さんはいつもそうや。肝心なときに役に立たへん」

「役立たずいうた? 役立たずいうた? なんなん。納骨の手配は自分がやるって言ったじゃん!」

「知らんがな。うちはやることやったがな。自分はなんやねん。何もしてへんやん。どんだけ無能やねん」

「はあ!? 死んだらええねん!!」

 ババアの前で喧嘩するのがおかしくて、あたしは腹を抱えて大笑いした。そして恵子の手から骨壺を受け取り、ふたを開けて、むんずと掴んだ骨をババアの十字架に投げつけてやった。

「ぼけー! ほんまに死んでどうすんねーん!」

 智子と恵子もあたしに倣い、骨を掴み、十字架に投げつける。

「口臭いんじゃぼけー!」

「足臭いんじゃぼけー!」

「ポリコレのぼけー!」

「ゲームオタクのぼけー!」

 愛してる、愛してる、愛してるよ、の代わりに、ありとあらゆる罵詈雑言をぶつけながら。

「生き返れやー!」

「生き返れやー!」

 骨壺のなかにわずかしか骨がなくなった頃、恵子は片手につまんだ骨を、そっと口のなかに入れた。

「まず!」

 智子もおなじように、骨を片手でつまみ、ゆっくりと呑みこんで言う。

「まっず!」

 最後にあたしも骨の残りを骨壺の底から集め、ぜんぶのどに流し込んだ。

「まいうー!」

 あたしが叫ぶと、智子と恵子がげらげら笑った。笑いが落ち着いたあと、恵子はひとりで十字架の前に立ち、こう言った。

「報告。今度、結婚することになりました。相手は、ええと、編集者で、真面目で、優しくて、それで、障害のあるひとです。ババアと同じだね。だからババアだと思って、大切にしたいな。あの四畳半みたいな、しあわせな家庭を作りたいと思います。しっかりと見守っててください」

 それを聴いた智子が慌てて恵子のシャツの裾を引っ張る。

「え、恵子ちゃん、そんなん言わなかったじゃん。水くさいなあ」

 恵子が智子の手を振り払い、面倒くさそうに、照れ臭そうに、小声で答える。

「……ババアに最初に言いたかったんや。ええやんか、結婚式にはちゃんと呼ぶから」

 あたしはここぞとばかりに恵子を囃し立てる。

「えなんなんいつからなん? きっかけは? 結婚すんの? プロポーズの言葉は? 子どもは何人ほしいですか? カシャーカシャーカシャー」

 恵子の顔が真っ赤に染まる。智子がそれを見て爆笑した。

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